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「さまよう者とならぬため」

2000年10月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア9・10‐17

●荒れ野でぶどうを見いだすように

荒れ野でぶどうを見いだすように
わたしはイスラエルを見いだした。
いちじくが初めてつけた実のように
お前たちの先祖をわたしは見た。
ところが、彼らはバアル・ペオルに行った。
それを愛するにつれて
ますます恥ずべきものに身をゆだね
忌むべき者となっていった。     (9・10)

 今日の聖書箇所は、このような言葉から始まります。神が荒れ野のぶどうで あるイスラエルを見出したのであって、イスラエルが神を見出したのではあり ません。神がイスラエルの先祖を初なりのいちじくのごとくに見られたのであ って、その逆ではありません。神と人との関わりについて語るとき、聖書はま ず神を求める人の求めや神を見出そうとする人間の努力から語り始めるのでは ありません。神を見出す者の深い洞察や敬虔さについて語るのではありません。

まず先に神の求めがあり、神の愛があり、神の選びがあり、そして神の喜びが あるのです。神とイスラエルの関係は、そのような神の一方的な愛と、愛のみ に基づく選びによって成り立ったのです。

 そのような神とイスラエルの関係は、例えば申命記には次のような言葉をも って表現されております。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あ なたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の 民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のど の民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱で あった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた 誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジ プトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記 7・6‐8)。このように、神の愛と選びが語られるということは、人間の側 には誇るべき要素が全くないということを意味します。荒れ野のぶどうのよう な存在であるから、神が見出してくださったのではありません。初なりのいち じくのような愛すべき民であったから、神が目を留めてくださったのではあり ません。ただ、人知を越えた神の愛のゆえに、奴隷の民、他のいかなる民より も貧弱な民を、そのように見、そのように喜び、そのように関わってくださっ たのです。

 このように、神の求め、神の愛、神の選びが先にあるゆえに、そこで初めて、 神の愛にいかに応えて生きるのか、という課題が生じます。人間の求めが中心 の信仰からは、そのような課題は生じません。人間の求めが中心であるならば、 「人間の求めに対して神はいかに応えてくださるか」ということとが一番重要 なこととなるからです。聖書に記されている、神とイスラエルとの関係は、本 来そのようなものではありませんでした。まず神が愛し、目を留めてくださっ たのです。その愛に応えて生きるところに、信仰者の生の基盤があったはずな のです。それが神との契約を与えられ、十戒を与えられたことの意味でありま した。

 しかし、実際はどうだったでしょうか。荒れ野において遊牧生活をしてきた イスラエルの民が、約束の地に定着し、そこで農耕生活を営むようになります と、カナンの豊穣神礼拝、バアル礼拝の影響を強烈に受けるようになりました。

もはや生活の土台は、彼らに向けられた神の愛と選びではなくなりました。そ こでは神が求め、神が愛し、神が選んでくださったということよりも、自分は 何を得られるか、ということが重要になりました。豊作そのもの、豊かさと生 活の安定こそが最重要関心事となりました。実は、そのような人々の誤った方 向性は、荒れ野の時代から既に始まっていたのです。「ところが、彼らはバア ル・ペオルに行った」と書かれているとおりです。これは民数記25章に記さ れている出来事です。次のように書かれています。「イスラエルがシティムに 滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘た ちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わっ て娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったの で、主はイスラエルに対して憤られた」(民数記25・1)。

 そのような彼らについて、主は言われるのです。「それを愛するにつれて、 ますます恥ずべきものに身をゆだね、忌むべき者となっていった」と。主の恵 みによる救いの御業も、愛による選びも、主が示してくださった真実も、すべ てどうでもよくなって、ただ今の喜び、今の幸せ、今の欲望の充足を求めてい る人々の姿。そうして、ますます神の目から見て恥ずべきものに身をゆだねた 忌むべき者となって行った彼らの姿。いったい、私たちは彼らを旧約聖書の中 の愚かな民として裁くことができるでしょうか。初なりのいちじくのように神 の喜びであった彼らが、いつのまにか忌むべき者となってしまったことを嘆く 神の嘆きは、しばしば私たちに対する神の嘆きでもあろうかと思うのです。

●犠牲となる子供たち

 そのようなイスラエルの民に対して、主はこう宣言せざるを得ませんでした。

9章11節以下をご覧ください。

エフライムの栄えは鳥のように飛び去る。
もう出産も、妊娠も、受胎もない。
たとえ、彼らが子供を育てても
わたしがひとり残らず奪い取る。
彼らからわたしが離れ去るなら
なんと災いなことであろうか。
緑に囲まれたティルスのように
わたしはエフライムを見なしてきた。
しかし、エフライムは自分の子供たちを
餌食として差し出さねばならない。
主よ、彼らに与えてください
あなたが与えようとされるものを。
彼らに与えてください
子を産めない胎と枯れた乳房を。(9・11‐14)

 ここに多くの言葉を費やして語られていることは、要するにイスラエルには 未来がない、ということです。彼らは、約束の地に生き続けることを求めまし た。確かな生活を求めました。そのために必要な豊かさを求めました。しかし、 それらを求めることによって、神との関係がないがしろにされるならば、彼ら はかえって自分たちの未来を閉ざすことになるのです。人は、自分の求めるも のが得られてこそ未来は開かれるのだと考えます。しかし、それらを得ること が、神の愛を失うことの代償であるならば、未来はかえって閉ざされることに なるのです。それゆえに、「彼らからわたしが離れ去るなら、なんと災いなこ とであろうか」と語られているのです。人間にとって本当の災いは、神が離れ 去ってしまうことなのです。

 主は言われます。「たとえ、彼らが子供を育てても、わたしがひとり残らず 奪い取る」。なんと恐ろしい表現でしょうか。多くの人は、このような表現に 抵抗を覚えるに違いありません。しかし、これは真実です。人は子供たちの将 来のために繁栄と平和と幸福を確保しようといたします。しかし、もし神の御 心に背いて生きるならば、かえって子供たちの将来を奪うことになるのです。 いつでも、犠牲になるのは子供たちです。「エフライムは自分の子供たちを餌 食として差し出さねばならない」と書かれているとおりです。子供たちを「餌 食」のような不幸な存在としてしまうのは、他ならぬ親の世代の責任です。

 そのことを考えるならば、初めから子供がいないほうが幸いだとさえ言える でしょう。預言者ホセアには、どうしてもそう思えてならなかったに違いあり ません。彼はは具体的には外敵が襲来し、国家が滅亡するであろうことを予見 しているのでしょう。次の世代は殺され、あるいは捕囚として生きなくてはな らない。彼は、その悲惨さを嘆かざるを得なかったのです。それゆえに、彼は こう祈らざるを得なかったのです。「彼らに与えてください、子を産めない胎 と枯れた乳房を」。

 そのような思いは、私たちの心の奥底にもあるかもしれません。たとえ、そ のような祈りの言葉として現れないとしても、ではいったい今の時代のどれだ けの人が、本当にこれから生まれて来る子供たちは幸いだ、彼らには未来があ る、と言えるでしょうか。「自分の子供たちを餌食として差し出さねばならな い」とは、何もかつてのイスラエルの話だけではありません。いつでも神から 離れた世代の子供たちは悲惨です。この国も同じです。教会もまた例外ではあ りません。私たちも真実に神に立ち帰るのでなければ、私たちの子孫に明日は ないでしょう。私たちが神の愛と選びの恵みを軽んじて、ひたすら神ならぬも のを追い求めているならば、次の世代が犠牲になることでしょう。神を離れて 私たちに未来の希望はないのです。

●悪はすべてギルガルにある

 さらに主はホセアを通して語られます。

彼らの悪はすべてギルガルにある。
まさにそこで、わたしは彼らを憎む。
その悪行のゆえに、彼らをわたしの家から追い出し
わたしは、もはや彼らを愛さない。
高官たちは皆わたしに逆らう者だ。
エフライムは撃たれた。
彼らの根は枯れ、実を結ぶことはない。
たとえ子を産んでも
その胎の実、愛する子をわたしは殺す。
わが神は彼らを退けられる。
神に聞き従わなかったからだ。
彼らは諸国にさまよう者となる。(9・15‐17)

 ギルガルとは主要な聖所の一つです。礼拝が行われていた場所です。しかし、 そこで行われていたのは、偶像礼拝であり、バアル礼拝に他なりませんでした。

神の言葉が軽んじられ、人間の欲望が礼拝の場、聖所さえも支配するとき、も はや人は正しく神を礼拝することができなくなります。そのように、人が正し く神を礼拝できなくなるところにこそ、すべての悪の源があるのだと主は言わ れるのです。悪はすべてギルガルにこそあるのです。

 そして、そのように正しい礼拝を失い、神との交わりを失い、神の愛を失う ならば、それは約束の地に下ろされた根が枯れてしまうようなものです。かつ て、私たちの会堂には二本の樅の木が植えられておりました。しかし、一本は 枯れてしまいました。その根本付近を切ってみますと、根から中心部に至るま で、完全に干涸らびておりました。幾分まだ葉は残っていたのです。しかし、 木そのものは完全に枯れていたのです。木は根から枯れるというのは本当です。

ホセアの時代のイスラエルも、木に譬えるならばまだ葉は幾分残っている状態 であったかもしれません。当面の国家的な危機を乗り越えて、生き残ることは できたかもしれません。しかし、ホセアの目に映っていたのは、既に根の枯れ てしまった国だったのです。根が枯れていれば、やがて全体が枯れていくので す。もはや実を結ぶことはありません。滅亡は外的な危機によって周囲からも たらされるのではありません。滅亡は神との関係が崩壊するという内的な危機 によってもたらされるのです。根が枯れて木は滅びるのです。切り倒されて滅 びるのではありません。

 こうして最終的に、彼らは諸国にさまよう者となると預言されております。 イスラエルの民は、神の愛に応えて生きるために、約束の地を与えられました。

それが彼らの信仰生活であり、神の民としての生活であったはずでした。しか し、彼らが神の愛を忘れ、神の恵みを忘れ、神に従順に生きることを忘れたの で、もはや約束の地に生きることができなくなったのです。「わが神は彼らを 退けられる。神に聞き従わなかったからだ」とホセアは語るのです。その結果 は放浪以外のなにものでもありません。このことを私たちもまた、しっかりと 心に留めなくてはなりません。私たちが神の愛に根ざし、神に従順に生きる生 活を失えば、この世にさまよう者となってしまうのです。

 「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見いだした。い ちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た」。それが すべての発端でありました。イスラエルの民が根の枯れた枯れ木にならぬこと を、神に退けられた放浪者とならぬことを、誰よりも望んでおられたのは神御 自身でありました。神が御自分の見出した者、かけがえのない喜びであった者 に滅亡を宣告しなくてはならない痛みを、ホセアは誰よりも深く知らされた人 であるに違いありません。そのような預言の言葉を私たちは今、耳にしている のです。それは、神の一方的な恵み、キリストの十字架において現された神の 愛によって神の教会とされた私たちが、神を離れて根の枯れた木とならぬため、 世にさまよう放浪者とならぬために、今私たちに語られている言葉でもあると 言えるでしょう。私たちは、この預言の言葉を私たちに対する言葉として重く 受けとめねばならないと思うのであります。

 
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