「神による訓練」
2000年11月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヘブライ12・1‐12
●証人の群れに囲まれて
今日お読みしましたのはヘブライ人への手紙12章でありますが、その直前 の11章はしばしば信仰者列伝などと呼ばれる箇所であります。そこには、旧 約聖書に登場する、過去の信仰者のことが記されているのです。既にこの地上 において信仰の生涯を全うした人々の姿が延々と記されているのです。そして、 12章に入りまして、「こういうわけで…」と続きます。「こういうわけで、 わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、 すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍 耐強く走り抜こうではありませんか」(12・1)。過去において信仰の歩み を全うした人々が雲のように彼らを取り巻き、レースに注目しています。彼ら は、かつて、同じように走った人々です。この著者は、かつて走った人々と同 じように、自らそのレースを走り抜こうとしているのです。そして、「忍耐強 く走り抜こうではありませんか」と勧めるのです。
今日は永眠者記念礼拝です。後に永眠者名簿を読み上げます。ちょうど、そ の行為はヘブライ人への手紙11章に相当いたします。しかし、私たちはそこ で一体なにをするのでしょうか。私たちがするのは、いわゆる死者の供養では ありません。また、単に故人を懐かしむのでもありません。このように言いま すと、故人を大切にしていないように聞こえるかも知れません。しかし、そう ではないのです。私たちがしようとしているのは、まさに故人を大切にするこ とに他ならないのです。私たちは、既にこの地上を去られた人々の一生を前に して、自らを省み、見つめ直し、そしてそこから再び走り出すのです。そのこ とこそ、故人を大切にするということなのです。
人がその死をもって子孫に残しうる最大のもの、それは「人間は必ず死ぬの だよ」というメッセージであります。皆、そのメッセージを無言のうちに残し つつ世を去るのです。ですから、私たちがその生と死を重んじるということは、 私たちが本当に人生が限られていることを認識することなのです。そして、永 遠に対して目が開かれるこの時を大切にするということなのです。それはとり もなおさず、一体この人生は何であって、どこに向かっているのか、というこ とをしっかりと見つめ直すことに他なりません。私たちはそのことを抜きにし て、儀式的なことや感情的なことだけをもって、故人を大切にしていると思っ てはならないのです。
●イエスを見つめながら
ヘブライ人への手紙の著者は、既に地上の生涯を終えられた信仰者たちを思 いつつ、自分自身や読者の一生を考え、これを「自分に定められている競争」 であると理解しています。人には自分で選び取ったのではない、定められてい る競争があるのです。そして、競争にはゴールがあります。ゴールにおいて、 その人に与えられた、独自の競争である人生が完結します。ゴールを見失った なら、どれほど長く走ったとしても、それらが全て無駄になってしまうのです。
ゴールは神のみもとにおける永遠の安息です。その時、神が人生を評価される のです。ゴールに向かってこそ、そのスタートも意味を持ちます。ゴールに向 かってこそ、その過程の労苦も意味を持つのです。いや、むしろ、その労苦の 中でも喜びを得るのです。ゴールに向かっているからこそ、倒れても倒れても 立ち上って走るのです。
そのような走るべき競争を走るに当たって、この著者は二つのことを勧めて います。その第一は、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」という ことです。長距離をゴールに向かって走るときに、宇宙服のようなものを着て、 ごてごてと色々なものを身につけて走る人はいません。しかし、こと人生のレ ースにおいてはそのようなことをしていることが多いのです。現代人は心を惹 く様々なものに囲まれています。そして、多くのものが必要であるように感じ ながら生きています。あれも、これも、と言いながら身にまとい、それがあた かも豊かな人生であるかのように思っています。しかし、生活がシンプルでな くなればなくなるほど、様々な思い煩い、不要の労苦も複雑になってまいりま す。そうしているうちに、本当に自分に定められた走るべき競争を走れなくな るのです。
いや、それだけではありません。「絡みつく罪をかなぐり捨てて」と書かれ ています。こちらの方が深刻な問題でしょう。足に何かが絡みついてきたら、 そのままでは走れません。同じように、信仰をもって走っていこうとする時、 足に絡みついてくるものがあるのです。それが「罪」です。しかし、ここで 「罪」と呼ばれているのは、私たちが言うところの「罪」とは少々ニュアンス が違います。これは神を離れて生きようとする心の方向であり、ゴールである 永遠の世界から目を逸らそうとする思いであります。つまり、目の前の楽しみ、 目先の喜び、当面の平安や問題の解決が全てであるかのように思ってしまうこ とです。それこそ、私たちの足に絡みつく罪に他なりません。実は、この手紙 を受け取った読者たちは、多分にそのような誘惑の中にいたのであります。信 仰をもって生きることは決して安易なことではありませんでした。迫害も少な からずありました。むしろ、信仰を捨て、神を離れ、この世と調子を合わせ、 目先の楽しみを追っていた方がずっと楽だったのです。そうです、いつでも人 は楽な道に惹かれるのです。しかし、その思いをそのままにしていてはいけま せん。「罪をかなぐり捨てて…忍耐強く走ろうではないか」とこの人は言うの です。
そして、私たちがそのように為し得るように、目を向けるべき方を示します。
それはイエス・キリストです。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つ めながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで 十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(2節)。キ リストは真に「生きる」ということがどういうことか、示してくださった方で した。走るということがどういうことかを教えてくださったのはこの方でした。
そして、この方は、私たちの信仰の創始者であり完成者でもあります。私たち の前を走り、私たちをゴールへと導いて下さる方なのです。信仰の停滞はキリ ストから目を離すことから始まります。信仰者が走る力を失い、真の希望と喜 びを失うのは、キリストから目を離している時です。「イエスを見つめながら。 」これは継続です。「一〇年前にはキリストを信じていたのですが」という言 葉ほど意味のない言葉はありません。求められていうのは継続なのです。
●父の訓練
このように、この手紙の著者はいにしえの信仰者たちを思いつつ、定められ た競争を忍耐強く走り抜こうではないか、と勧めています。様々な困難と迫害 に直面し、ともすれば目先の安楽な道を選び取ってしまいそうになっていたこ の手紙の読者たちにとって、その勧めは大きな意味を持っていたことでしょう。
さて、この著者は加えて、もう一つのことを語り始めます。それは困難や試練 がどのような意味を持っているのか、ということであります。すでに見てきた ように、困難や試練、様々な障害というものは、時として私たちに永遠の世界 を忘れさせ、神から離れて安易な方向へと進ませる誘惑ともなります。だから、 そこから生じる罪をかなぐり捨てよ、という勧めが必要だったのです。しかし、 困難や苦難はそのような否定的な意味合いを持つに過ぎないのではありません。
いや、むしろ私たちの一生において非常に大事な、積極的な意味を持つのであ ります。そのことをこの著者は思い起こさせようとしているのです。
そこで、この人はまず旧約聖書の箴言3章11節と12節を引用します。 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を 落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者 を皆、鞭打たれるからである。」これはユダヤ人である読者ならば、当然知っ ているはずの聖書の言葉でした。しかし、聖書の言葉は自分の現実との関わり において読まなくてはなりません。そこでこの人は、彼らが直面している苦難 や困難について、御言葉に基づいてこう言うのです。「あなたがたは、これを 鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。
いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬 を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子では ありません」(7‐8節)。
同じ苦難を経験しても、人は二通りに分かれます。そこで神に向く人と神に 背を向ける人に分かれるのです。人生を決定するのは苦難そのものではありま せん。神に対する態度が人生を決定するのです。苦難そのものが不幸をもたら すのではありません。そうではなくて、父なる神の愛への無理解、神に対する 反抗心、そこから来る不満や自己憐憫、それらが真の不幸をもたらすのです。 苦難や困難があることは、私たちが神に見捨てられたことを意味しません。神 の愛が失われたことを意味しません。神の姿はしばしば私たちの勝ってな思い 込みによって歪められております。私たちは、キリストを通して神を見なくて はなりません。キリストにおいて現されたまったき愛を通して、神を見なくて はなりません。神は慈愛に満ちた父です。父なる神は私たちを愛しておられま す。愛をもって私たちを子として取り扱っておられるのです。
父なる神の訓練を知るとき、そこに父の目的があることを見いだします。こ の人は、地上における私たちの父親と神を対比してこう語ります。「肉の父は しばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの 益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられる のです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいもの と思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和 に満ちた実を結ばせるのです」(10‐11節)。
神の目的は私たちを罪から解放し、神の聖さに与らせることであります。そ して、平和に満ちた実を実らせるためなのです。平和とはヘブライ語で「シャ ーローム」と言い、完全な調和と真の豊かさをもって命が満ち溢れている状態 を表します。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、その ような実を結ばせるために、神は訓練されるのです。私たちが神を離れ、罪を 犯し、罪の実ばかりを実らせる者であることを神が放っておかれるとしたら、 それこそ恐ろしい裁きであります。しかし、神は私たちをそのような状態に放 ってはおかれないのです。神は試練の中で私たちの罪に気づかせてくださる。 神は何が大切であり、何が大切でないかということも気づかせてくださるので す。最終的には死の苦しみにおいてさえ、神は私たちに働きかけてくださり、 神の聖さに与らせ、平和に満ちた実をもたらし、永遠への備えをされるのであ ります。