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「教会と地域」

2000年11月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 台湾基督長老教会宣教師 陳天賜説教
聖書 ローマ15・1‐17

 台湾キリスト長老教会はある日曜日を「教会と社会の主日」と定めました。 皆さんもご存じのように、キリスト教会は二千年来信仰によって絶えず社会福 祉や社会改革に関心を示して精一杯の力を尽くしてきました。長老教会は台湾 において「社会に関心を示す」という努力の上で、もっとも力強い教派と認め られています。台湾キリスト長老教会の信仰告白においては、教会とは「キリ ストの愛と受難によって立つ希望のしるし」とあります。「教会と社会の主日 」は、特にこのことを皆と分かち合い、互いに励まし合う日なのです。

 先ほどお読みしました箇所をもう一度ご覧下さい。「キリストも御自分の満 足はお求めになりませんでした」(3節)。「あなたがたに、キリスト・イエ スに倣って互いに同じ思いを抱かせ」(5節)。「だから、神の栄光のために 」(7節)。「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者 たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証され るためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです 」(8、9節)。「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころ かなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異 邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役 を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものと された、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。そこでわたしは、 神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」(15 ‐17節)。これは、神によって召され、福音を伝道するという特権を示され、 異邦人の中で働いているキリストの僕の姿です。パウロ自身が、異邦人への働 きは神に栄光を帰するためであると示しています。自分の働きについて、とて も光栄に思っています。

 パウロの異邦人に対する伝道は大収穫でした。その過程は辛いものでしたが、 深く深く人々の心の中に残りました。パウロは忠実に直接に聖書から人々を教 えました。聖霊の力に満たされて、町の隅々まで巡って、ユダヤ人が集う場所 だけでなく、異邦人の中にも入って、大胆に福音を宣べ伝えました。

 今日、少なからぬ教会において、地域における宣教の足跡が少しづつ見えな くなってきています。教会や教区(いわゆる教会の範囲内)に閉じこもってば かりです。教会は地域の中にあると見られていない、全く関係ないと思われて いるのではないでしょうか。教会から地域へ踏み出すべきはずであるのに、な かなか戸を開けて出て行くことができません。

 教会が設立された目的は宣教です。教会がこの目的を達成するためには、何 かを支払わなければなりません。すなわち、私たちの献身です。教会は地域の 群れとして、教会の牧師は地域の牧師のようにならなければなりません。少な くとも教会はこの地域の人々の心霊を慰め、励ます者、助け人、良き隣人にな らなければなりません。

 教会が地域で宣教の業を進めることは困難です。宣教は単に教職者の務めで はありません。キリスト者全員の責任です。皆さんの献身的な協力が必要です。

 今月の修道会(注)において、私たちは、「キリストの死にあわせられると いう意味におけるバプテスマが、ただ個人的な聖化への召しであるだけではな く、それによってキリスト者が、この世の生活のあらゆる領域において神のみ 旨を実現するための戦いに押し出されるという倫理的な意味をもっていること 」について学びました。

 教会はそれぞれの伝統を持っていますが、しかし教会は時代や地域のニーズ に応えて、大胆に新しい伝統を作らなければならないと思います。それは現代 において人の魂を得るためです。16節において、「異邦人のためにキリスト ・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。

そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供 え物となるためにほかなりません」と、パウロは当時の教会にだけではなく、 今日の教会にも戸を大きく開けなさい、福音を地域の人々に伝えなさい、異邦 人も聖霊によって神に喜ばれる供え物となりますから、と述べています。

 教会内だけで牧会を主にするのと、地域の中で牧会をするのとは丁度正反対 です。教会内だけの牧会はある意味では危険であり、自己中心になりやすく、 発展もし難いのです。台湾長老教会の例を挙げれば、十年前の台湾長老教会は いわゆる教会内牧会の傾向でして、成長しないし、問題もいっぱいだったので す。この最近十年において、教会から地域へと牧会範囲を広げてから、大変化 が起こりました。いままで地域の人々が教会に反対しておりましたが、最近は 少しずつ地域へ関心を示すようになって、ようやく地域の人々の信頼を得られ、 さらに反対者は教会の協力者となりパートナーとなり、教会の存在を理解し認 めるようになり、地域の多くの人々がキリスト者になったのです。

 皆さんもご存じのように、宗教改革の前には、ほとんどの教会は教区中心の 牧会観念でした。当時教会は世界の学問を軽視して、神学は百科全書のような 知識を自慢して、教職者は天から地上に統治のために遣わされたかのように思 っており、福音の意味を酷く曲げ、教会内の腐敗にもかかわらず自己満足をし ていました。

 ある都会では、教会がコンビニエンスストアのように多くて、福音をまだ得 ていない地域の多くの町々にまで建てられていますが、ある一人の長老がこう 言っていました。「なぜ私たちの教会は地域の愛のチェーンストアのように造 られないのだろうか」と。教会は地域から何かを貰うのではなくて、地域が教 会から何かを貰うはずではないでしょうか。世界の隅々へ私の福音を宣べ伝え にいきなさいと、神は今日のキリスト者にも命じておられるのではないでしょ うか。

 キリストは、御自身の復活によって、私たちの命を豊かにしてくださいまし た(ヨハネ10・10)。神が私たち罪人を救うために天から地上に降りてこ られました。人を救う福音も教会から出て行かなくてはなりません。教会はキ リスト者の聖地ではなくて、地域の信仰と希望と愛の基地です。教会は地域の ために存在するのです。そうでなかったら、お寺のように山頂で静けさを守り、 清めや修道のために良い所を作ったらよいのです。

 パウロの宣教が効果のあった理由は、パウロが異邦人をも神の民であると確 信していたからです(ローマ9・25‐26)。しかし、今日の教会は未信者 が神から離れているからと言って、勝手に未信者との間に聖俗の区別を作って 余りにも関心を持ちません。教会は町の中に建てられていますが、目に見えな い壁が高く厚く築かれています。

 今、私たちが持っている信仰は、地域によるいろいろな相違を心に留めるべ きです。神戸にあるアメリカの宣教師がこう言っていました。「今日、日本の 教会は敷居が高すぎて、一般の人が入りにくくなっています」。そうです、我 々は「聖なる」という境地から身を低くすべきです。更に地域に伝道の使命を 与えられていると確信すべきです。イエス様御自身がそのように見える形で教 えてくださったからです。今日の教会はどうやって地域の人々に認められるの でしょうか。また、どのようにして共に神の御恵みにあずかることができるの でしょうか。私たちは、神が地域の人々をも愛していると確信しているでしょ うか。教会の兄弟姉妹のように愛していますか。どれくらいの時間や心を費や して彼らのために祈っているでしょうか。どれくらいの時間を用いて彼らと交 わり、福音を分かち合っていますか。

 パウロは次のように言っています。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝 えており、全ての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽く して全ての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わ たしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(コロサイ1・ 28‐29)と。

 今、私たちの信仰の姿は、神からあなた方は傲慢であり不信心だ、私から遠 く離れていると言われても仕方ないくらい、惨めな悲しい状態です。教会がは っきりと地域の光なり塩となったら、皆が教会に注目するでしょう。それゆえ、 キリスト者の言葉や行いは、良く吟味し、注意しなくてはなりません。それで こそ、教会は教会らしくなって、古い形への囚われや自己中心の傲慢な信仰生 活から脱出し、本当の世の光、地の塩のような地域教会になって、それこそ、 私たちが信じる神様が地域の人々に崇められるようになるのではないでしょう か。

*注 大阪のぞみ教会では、毎月「修道会」と呼ばれる信徒の学びの会を持っ ています。今年は共に、世界教会協議会第6回大会(1983)で採択された 「洗礼・聖餐・職務」(リマ文書)を読んでいます。

 
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