「新しい土地を耕せ」
2000年11月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア10・1‐15
●伸びほうだいのぶどうの木
初めに1節と2節をお読みします。
イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。
実もそれに等しい。
実を結ぶにつれて、祭壇を増し
国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。
彼らの偽る心は、今や罰せられる。
主は彼らの祭壇を打ち砕き
聖なる柱を倒される。 (10・1‐2)
ここでイスラエルがぶどうの木に喩えられています。そのぶどうの木は「伸 びほうだい」であったと言われています。しかし、このように否定的に訳され ておりますが、もともとは悪い意味の言葉ではありません。外に溢れるように 繁栄している状態を表現する言葉です。実際、ヤロブアム二世の治世において、 イスラエルはそのような繁栄を享受していたのでした。外に向かって枝が豊か に茂り、その実も豊かに実っていたのです。その時、彼らはどうしたでしょう か。「実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を 飾り立てた」と書かれております。彼らは、聖所を増やしたのです。そして、 それぞれの聖所を豪華な立派なものにしたのです。国が豊かなのですから、そ れを礼拝に還元していったわけです。聖所が増え、聖所が立派になることは望 ましいことではないでしょうか。
しかし、主はそのことを喜んではおられないようです。むしろ、主は自ら、 「彼らの祭壇を打ち砕き、聖なる柱を倒される」と宣言されます。なぜでしょ うか。主が喜ばれないのは、彼らの心が偽っているからです。「彼らの偽る心 は罰せられる」と言われているとおりです。そこが問題なのです。
「偽る心」と言われているのは、そこで行われていることが、神への純粋な 愛から生まれたものではないからです。それは神の恵みに対する純粋な感謝の 応答ではなかったのです。それを良く表しているのは、彼らが「聖なる柱を飾 り立てた」という事実です。聖なる柱とは、元来、カナンのバアル祭儀におい て用いられていたものでした。それは、多産と豊穣を願い求めるバアル祭儀か ら取り入れられたものです。それを飾り立てたということは、イスラエルの人 々もまた同じものを求めていたことを示しています。国が栄えた時、その繁栄 が継続し、さらに豊かになることを求めて、彼らは聖所を増やし、飾り立てた のです。
「偽る」と訳されている言葉が、他の箇所で、へつらいの言葉を語る滑らか な舌を表現するために用いられていることも、同じことを示していると言える でしょう。人にへつらうのは見返りを期待してのことです。何かを引き出すた めに、へつらいの言葉は用いられるのです。同じように、彼らの行為は、神か ら良きものを引き出すための行為でしかありませんでした。聖所は増え、立派 になっても、そこには真実なる神への愛も、神の恵みに応えて生きる生活もな かったのです。
●必ず彼らを懲らしめる
そのような偽る心が具体的にどのような事態をもたらすかが、次のように語 られています。3節以下をご覧下さい。
今、彼らは言う。
「我々には王がいなくなった。
主を畏れ敬わなかったからだ。
だが王がいたとしても、何になろうか」と。
彼らは言葉を連ね
偽り誓って、契約を結ぶ。
裁きが生え出ても
わが畑の畝に毒草が生えるようだ。
サマリアの住民は
ベト・アベンの子牛のためにおびえ
民はそのために嘆き悲しむ。
神官たちがその栄光をたたえても
それは彼らから取り去られる。
偶像はアッシリアへ運び去られ
大王の貢ぎ物となる。
エフライムは嘲りを受け
イスラエルは謀のゆえに辱められる。
サマリアは滅ぼされ
王は水に浮かぶ泡のようになる。
アベンの聖なる高台
このイスラエルの罪は破壊され
茨とあざみがその祭壇の周りに生い茂る。
そのとき、彼らは山に向かい
「我々を覆い隠せ」丘に向かっては
「我々の上に崩れ落ちよ」と叫ぶ。 (10・3‐8)
ベテルには子牛の像が祀られていました。彼らはこれをカナンの神々として 拝んでいたわけではありません。彼らはエジプトから導き出した彼らの主を礼 拝していたのです。ヤロブアム一世が、初めてベテルに子牛を造って置いた時、 彼は次のように言いました。「見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプト から導き上ったあなたの神である」(列王上12・28)。もちろん、子牛そ のものがヤハウェの神とされたのではなくて、それは見えざる神の台座と考え られていたようです。いずれにせよ、子牛の像を指して、「見よ、これがあな たをエジプトから導き上ったあなたの神である」と語られた時点で、もはや神 の救いの恵みの大きさは真剣に受けとめられることはなくなりました。そのよ うな偶像礼拝からは、神の恵みに対する真実な応答としての生活が生み出され ようはずもありませんでした。
それゆえ、主は、この子牛を取り除かれるのです。人々はそれゆえに嘆き悲 しむようになる、と語られております。「ベト・アベン」というのは「悪の家 」という意味です。本当の名前は「ベテル」です。ホセアが言い換えているの です。ベテルというのは本来「神の家」という意味でありました。しかし、も はや、その場は「悪の家」になっているということです。悪の家の偶像はアッ シリアに運び去られることになります。皮肉なことに、今まで献げ物を受け取 っていた偶像は、アッシリアの大王への献げ物となるということです。そして、 「サマリアは滅ぼされる」と主は言われます。彼らは、主との真実な関係をな いがしろにしながら、もう一方でこの子牛があれば大丈夫であると思っていた かもしれません。しかし、その子牛もろともアッシリアに奪い去られるのです。
その時、自分が真に神を拝んでいたのではなく、偶像を拝んでいたに過ぎない ことに気付くようになるのです。
もちろん、そのように裁きが臨む前に、主は繰り返しイスラエルに対して立 ち帰るよう呼び掛けられました。ホセアの時代の前には、アモスが現れて彼ら に神の言葉を語ったのです。しかし、人々は立ち帰りませんでした。悔い改め ませんでした。そのような、かたくなな態度は、何もその時代に始まったこと ではありません。昔からそうなのです。9節以下にこう書かれています。
イスラエルよ、ギブアの日々以来
お前は罪を犯し続けている。
罪にとどまり、背く者らに
ギブアで戦いが襲いかからないだろうか。
いや、わたしは必ず彼らを懲らしめる。
諸国民は彼らに対して結集し
二つの悪のゆえに彼らを捕らえる。 (10・9‐10)
「ギブアの日々」については、前の章においても語られておりました。士師 記20章以下に出てくる物語を指しているものと思われます。そこには罪を悔 い改めず、心を頑なにし、他の部族に戦いを挑んで滅びに瀕したベニアミン族 のことが記されています。今のイスラエルの民は、罪を悔い改めようとしなか ったあの人々と同じだ、ということです。「お前は罪を犯し続けている」と主 は言われます。彼らが不覚にも罪に陥ったということではありません。神の呼 びかけにもかかわらず立ち帰ろうとしない者であること、「罪にとどまり、背 く者ら」(9節)であることが問題なのです。その彼らに対して、「わたしは 必ず彼らを懲らしめる」と主は言われるのです。
●新しい土地を耕せ
主の為されることが主の懲らしめであるならば、そこには主の意図がありま す。11節以下に次のように語られております。
エフライムは飼い馴らされた雌の子牛
わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ。
わたしはその美しい首の傍らに来た。
エフライムに働く支度をさせよう。
ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く。
恵みの業をもたらす種を蒔け
愛の実りを刈り入れよ。
新しい土地を耕せ。
主を求める時が来た。
ついに主が訪れて
恵みの雨を注いでくださるように。 (10・11‐12)
「わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ」と訳されていますが、多くの訳は、 「彼女(子牛、すなわちエフライム)は脱穀するのを好んだ」となっています。
その方が自然な読み方です。脱穀する牛がそれを好むというのは、申命記を読 めばわかります。「脱穀している牛に口籠を掛けてはならない」(申命記25 ・4)と書かれているのです。牛は脱穀している間に、麦を食べることが許さ れていたのです。そのように、主はこれまでイスラエルを扱ってこられました。
つまり、イスラエルが豊かになることを許されたのです。しかし、もはやそう ではない、というのがホセアの預言としてここで語られていることです。神は、 牛の「美しい首の傍らに来た」と言います。何のためでしょうか。「エフライ ムに働く支度をさせよう」と書かれています。主は子牛に重い軛を負わせて、 畑を耕させようとしているのです。
イスラエルの繁栄は続きませんでした。ヤロブアム二世の後には内政におい て政情不安が続きます。そればかりではありません。紀元前732年にシリア が完全にアッシリアの手に落ちて後、アッシリアはイスラエル北部に侵攻して くるのです。これは最終的に紀元前721年にサマリアが陥落するまで続きま す。「働く支度をさせる」というのは、そのような非常に厳しい状況を指して いるものと思われます。もはや、麦を食いながら脱穀している時ではありませ ん。彼らは軛を負わされ、労働に駆り出される牛となります。そこで主が求め ておられるのは何でしょうか。12節に書かれています。「恵みの業をもたら す種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。
ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように」(10・12)。これ こそが主の意図するところでありました。
恵みの業と訳されているのは「義」という言葉です。神との正しい関係に基 づく正義の種を蒔くのです。そして愛の実り、慈しみの実りを刈り取るのです。
そのためには、「新しい土地」を耕さなくてはなりません。「新しい土地を耕 せ」という言葉は、エレミヤ書にも出てきます。「あなたたちの耕作地を開拓 せよ。茨の中に種を蒔くな」(エレミヤ4・3)。訳は随分違いますが、同じ 言葉です。恐らく古い諺であろうと思われます。その意味は、ごく簡単に言え ば、「一から出直せ」ということです。古いものから決別して、完全に新しく やり直せ、ということであります。「茨の中に種を蒔くな」と言われているよ うに、古いものが残ったままで、いくらそれに手を入れてもだめなのです。そ して、「主を求める時が来た」とホセアは叫びます。主を求めることなくして、 同じようなものを求めているならば、何も新しくなりません。主を求めて初め からやり直す。それが悔い改めです。そうするときに、「新しい土地を耕す」 という苦しみの後に、豊かな「恵みの雨(義の雨)」が注がれるのだ、と言わ れているのです。
これが軛を負わせ給う神の意図でありました。神が背く者たちに対して「新 しい土地を耕せ」と言ってくださることは、それ自体、神の大きな恵みです。 しかし、イスラエルの民はそれを理解しませんでした。実際は、相変わらず悪 を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べているような状態です。国難におい てもまだ自分の力と勇士の数を頼りにしているのです。結局、神を求める者、 新しい土地を耕す者はいないのです。次のように書かれているとおりです。
ところがお前たちは悪を耕し
不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。
自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ。
どよめきがお前の民に向かって起こり
砦はすべて破壊される。
それはシャルマンがベト・アルベルを破壊し
母も子らも打ち殺したあの戦の日のようである。
ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに
同じことがお前にも起こる。
夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる。(10・13‐15)
ここに書かれているシャルマンによるベト・アルベルの破壊については聖書 には出てきませんので、実際にはどのような出来事であったのかは分かりませ ん。これを聞いていた人々にとっては馴染みの深い出来事だったのでしょう。 いずれにせよ、くびきを負わされ、畑に出された時に、本当にそこで求められ ていること、すなわち「新しい土地を耕す」ということをしなければ、最終的 には国の滅亡にまで至るというのが、ホセアの預言でありました。そして、事 実、イスラエルはサマリアの陥落と共に滅亡してしまうのです。私たちは、悔 い改めを求められる神の豊かな忍耐と憐れみに目を向けると同時に、その呼び かけを無視したゆえにイスラエルが滅びを刈り取ったという事実を、私たち自 身へのメッセージとして厳粛に受け止めねばなりません。