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「神の自己矛盾」

2000年11月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書  ホセア11・1‐11

 このような質問を受けることがあります。「私の周りには神を信じていなく ても、しっかりしている人はたくさんいます。神を信じていなくても、誠実で 真面目な人、愛情の深い人はたくさんいます。そのような人たちに信仰は必要 なのでしょうか。」このように、往々にして信仰に関して出される問いは、人 間には信仰が必要であるか、神が必要であるか、という観点からの問いであり ます。

 そのような信仰の観点と、人が神の像を作りそれを拝むという行為は密接に 結びついております。人は偶像を作ります。それは人が偶像を必要としている からです。古代オリエントの世界において、神の像は神々や諸霊の居場所と考 えられておりました。ですから、一面においては、偶像の製造は人が神を必要 としているという心の現れです。必要としているからこそ、確かにそこにいて 欲しいのです。しかし、もう一方では、神がいて欲しくない場合もあるわけで す。古代世界においては、見えざるものに対する恐怖というものは、現代にお けるよりも遙かに大きかったわけですから。ですから、そのようなところには 偶像を置かなければよいのです。このように、いずれにせよ、偶像というのは、 人が神を必要とするかしないかという観点と結びついているわけです。

 しかし、十戒の第2戒は偶像を作りそれを拝むことを禁じます。聖書は神と 人との関係を、そのような“人間の必要”という一方向から語ることをしない からです。神と人との関係は、人間と偶像のような関係ではありません。ホセ ア書において、神と人との関係は、ある時は夫婦の関係に喩えられ、ある時は 親子の関係に喩えられるのです。その関係は生きた双方向の関係です。考えて も見てください。子供が「わたしには親が必要か否か」という見方しかできな いとすれば、それはどう考えても正常な親子の関係ではありません。そのよう に、聖書は、単に人間には神がどれほど必要であるか、ということについて語 ることをいたしません。それよりも、神が人をどれほど愛し、求めてくださっ ているか、ということについて語るのです。人はなかなかそのような神の心に 思いを馳せようとはいたしません。いつでも頭を占領しているのは、自分のこ とばかり、人間のことばかりです。それゆえに、聖書は、不完全な人間の言葉 を用いつつも、言葉を尽くして神の心を語るのです。今日お読みしました箇所 においても、私たちはそのような言葉を聞いているのです。

●イスラエルの忘恩

 それでは1節から7節までをご覧下さい。

まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。
彼らはエジプトの地に帰ることもできず
アッシリアが彼らの王となる。
彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。
剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち
たくらみのゆえに滅ぼす。
わが民はかたくなにわたしに背いている。
たとえ彼らが天に向かって叫んでも
助け起こされることは決してない。     (11・1‐7)

 神はまだ幼かったイスラエルを愛されました。成人して立派になり、力を得、 役に立つようになったから愛されたのではありません。幼子のように何もでき ず、手がかかるだけの時に、神はイスラエルを愛されたのです。それは申命記 においても次のように書かれているとおりです。「主が心引かれてあなたたち を選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。 あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛の ゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手 をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家 から救い出されたのである」(7・7‐8)。

 神とその民との関係は、神の一方的な愛と選びによって始まったのでした。 子とされる資格のない者を子とされたのは、神の一方的な愛によるものでした。

その神が欲しておられたのは、イスラエルの持っている何かではありませんで した。もとより、神に提供することのできる何かを持っていたわけではないの です。「まだ幼かったイスラエル」なのですから。そうではなくて、神が欲し ておられたのは、彼ら自身なのです。神が欲しておられたのは、彼らがただ神 の愛に留まることでありました。神の子とされたのですから、神の愛の内にあ って子として生きることなのです。神の愛に留まり、神の愛に応えて、神を愛 して生きる民となることを、神は求めておられたのであります。

 しかし、神が預言者を通して語りかけ、呼びかければ呼びかけるほど、彼ら は神から離れていきました。彼らの罪とはなんでしょうか。それは、彼らが愛 なる神との関係を失い、離れていったことでありました。彼らが親を忘れてし まったことにこそ、彼らの罪の根はあったのです。

 「エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わ たしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった」(3節)と主は嘆きの声 を上げられます。これはホセアの個人的な経験、一人の親としての経験を通し て、神が語られた言葉であるかも知れません。既に見てきましたように、ホセ アの妻ゴメルは淫行の女でありました。ホセアは淫行による子らを受け入れ、 愛し、育ててきたのです。生まれ出た赤ん坊は一人で生きることはできません。

大きくなった子供が偉そうなことを言っても、決して自分一人で育ってきたわ けではないのです。子供を育てるというのは大変なことです。子供が育つため にはどれほど親の労苦と忍耐が必要とされることでしょう。そのように、イス ラエルの歴史において、彼らを愛し、育ててきたのは神でした。彼らが病む時 に、彼らをいやされたのは、他ならぬ神御自身でした。幼子が病に伏したなら、 親は寝ずの看病だってするでしょう。丁度そのように、神は御自分の民に関わ ってこられたのです。旧約聖書を読みますときに、なるほどそうだと思います。

 神は、彼らを御自分の子とされたゆえに、無理矢理に服従させないと使いも のにならない牛馬のごとくには扱いませんでした。あくまでも人間として扱わ れたのです。「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼を導き、彼らの顎から軛を 取り去り、身をかがめて食べさせた」と書かれているとおりです。「神はどう して人に罪を犯す可能性を与えておいて、なおも罰するのか」などと言う人が います。そのような人は、自分を馬か牛のようにしか見ていない人です。私た ちは馬や牛ではありません。人間です。神は人間である私たちに、強制的な服 従によってではなく、愛による応答を求められたのです。それこそ神が人間を 人間として扱われる仕方なのです。愛の対象として見ておられるということな のです。その愛の関係こそ、神がイスラエルに与えられた契約の意味でありま した。

 ところが人間の方が一方的にその契約を破り、神に背いたのです。そして、 人は蒔いたものを刈り取ることになります。神の愛への背きを蒔くならば、滅 びを刈り取ることになるのです。この預言が語られた時、既にアッシリアのイ スラエル侵攻は始まっており、北部は占領されていたものと思われます。ホセ アは、やがて完全にアッシリアによって滅ぼされてしまうことを預言します。 「アッシリアが彼らの王となる」と。それは政策における失敗によってもたら されるのではありません。「彼らが立ち帰ることを拒んだからだ」と主は言わ れるのです。この差し迫っている国家の危機は、まさに彼らが蒔いてきた背信 の種が結ぶ実を刈り取っているのだ、と主は言われるのです。

●憐れみによる心変わり

 しかし、私たちはここで驚くべき言葉を耳にします。8節以下をご覧下さい。

ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。     (11・8‐9)

 「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と主は言われるの です。「わたしは激しく心を動かされ」と訳されていますが、単純に訳せば 「心が変わる」ということです。ここは「神の変心」と呼ばれる有名な箇所で す。何によって神の心が変わるのでしょうか。憐れみによってです。義なる神 は、契約に背き、神の愛に背いたイスラエルに怒りを向けられ、その罪を裁か れます。しかし、憐れみによってその心が変わるのです。この変心によって、 神の心はその内において分裂します。これまで激しい裁きの言葉を語っておら れた神が、そして7節においても「たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け 起こされることは決してない」と最終的な滅亡を宣告していた神が、今やこう 叫び出すのです。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」 と。このように、神の内には相反する思いが共存することになります。それは 神の自己矛盾とも言えるでしょう。そのような自己矛盾を抱えこんでいる神の 姿を私たちはここに見るのです。

 このような姿は、あまりにも「神らしくない」と思われますでしょうか。あ まりにも生々しく人間臭い描写であると思われますでしょうか。しかし、主は こう言われるのです。「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちに あって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(9節)。神は御自分が神であ り、人間ではないことを主張されます。聖なる者であると言われるのです。聖 なる者であるということは、人間とは全く区別された異なる御方であるという ことです。この自己矛盾をかかえた神の姿は、人間的な描写を用いているから そのように描かれているのではありません。そうではなくて、まさにこれが、 神が神であられるということなのです。神が神である御自分を貫かれるという ことは、罪をその極限まで憎み、完全に裁かれる神となられると同時に、人間 を極限まで愛し、完全に赦される神となられることなのです。

 そのような神の姿が、後に十字架にかけられたキリストにおいて完全に明ら かにされたことを私たちは知っています。罪なき御方が十字架にかけられて死 んでいくその凄惨な死の様は、私たちの罪を明らかにし、その罪に対する神の 憎しみと怒りとを明らかに示します。神は罪を裁き給う神であることを貫かれ たのです。しかし、そこにはまた御子をさえ惜しまずに与え給うた神の愛が明 らかにされております。神は愛と赦しの神であることを貫かれたのです。完全 な義と愛は神において一つなのです。

獅子のようにほえる主に彼らは従う。
主がその声をあげるとき
その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。
彼らは恐れつつ飛んで来る。
小鳥のようにエジプトから
鳩のようにアッシリアの地から。
わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると
主は言われる。      (11・10‐11)

 「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」と叫ばれた神の 声は、やがて御自分の御子をこの世に送り給うことにおいて、見える形を取る に至りました。その御子は、十字架の上で叫びます。「成し遂げられた」と。 いや、このキリスト御自身の存在そのものこそ、この世界のただ中で上げられ た神の義と愛の叫びに他なりませんでした。それはこの世界のただ中に響き渡 る獅子の雄叫びです。「獅子のようにほえる主に彼らは従う」。神が声を上げ られたのは、散らされた神の子らが真に悔い改め立ち帰るようになるためであ りました。その主の御声によって、神の子らは海のかなたから恐れつつやって 来るのです。「恐れつつ」――それは「こわがって」ということではありませ ん。神を神とする真の畏れをもって彼らは帰ってくる、ということです。この 神の御声によって、私たちもまたみもとに呼び集められ、畏れをもって主と共 に生きる者とされたのです。

 
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