「アドベントの祈り」
2000年12月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1テサロニケ3・9‐13
●アドベントを迎えて
4世紀に生きたエルサレムのキュリロスという教父は次のように教えていま す。「我々はキリストの最初の到来だけでなく、それよりも遙かに栄光に満ち た第二の到来をも宣べ伝える。第一の到来においてキリストは忍耐を示された が、第二の到来においては神の国の王冠を戴いて来られるからである。…キリ ストの第一の到来においては、飼い葉桶の中で布にくるまれていた。第二の到 来においては、光を衣としてまとわれる。第一の到来では、恥をもいとわず十 字架を担われた。第二の到来では、栄光を受けられた方として天使たちの大軍 を従えておいでになられる。それゆえ、我々は第一の到来のみに安んじること なく、キリストの第二の到来を待ち望むのである。第一の到来において、『主 の名によって来られる方に、祝福があるように』と呼ばわったように、第二の 到来においても我々は同じ言葉で呼ばわるだろう。すなわち、天使たちと共に 主人なる御方をお迎えするその時、我々はキリストを礼拝し、こう言うのであ る。『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と」(Cathechesis 15:1)。
20世紀はまだ一ヶ月ほど残っておりますが、教会暦においては、新しい年 に入りました。この聖日からクリスマスに至る期間はアドベント(待降節)と 呼ばれます。アドベントという言葉は、ラテン語の「アドベントゥス (adventus)」から来ており、「到来」を意味します。もちろん、キリストの到 来のことです。その到来とは、先に読みました教父の言葉によれば、第一の到 来であり、そして第二の到来でもあります。それは、第一の到来について思い を馳せる時であると同時に、キリストの第二の到来、キリストの再臨に思いを 馳せる時であります。キリストが再び来られる。それは教会が告白し続けてき た信仰の言葉です。私たちは先に、使徒信条の中で、「かしこより来たりて、 生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と、その信仰を言い表しました。アド ベントの期間は、そのように言い表されている信仰を、心新たに告白する時で あると言えるでしょう。
私たちの人生も、この世界の歴史も、ある方向に確実に動いています。確か なことは、決して後戻りはしないということです。昨日よりは今日、今日より は明日、確実にどこかへと向かっております。多くの人々は、その確実なる事 実と向き合おうとはいたしません。なぜなら、現実を正直に見るならば、その 向かっている方向の終点には待望すべき何ものも見えて来ないからです。人は いつまでも若くはありません。確実に年老いていきます。衰えていきます。出 来たことも出来なくなっていきます。力も美しさも失われていきます。その先 に待望すべき何かが見えてくるでしょうか。この歴史においても同じです。秩 序へと向かっているよりは、明らかに混沌へと向かっているように見えるでし ょう。かつて意味のあったことが、もはや意味をなさなくなっています。かつ て形あったものは、「形なく、むなしく」なってゆきます。その先に待望すべ き何かが見えてくるでしょうか。見えてこないだろうと思うのです。
しかし、キリストの再臨を待ち望む信仰は、私たちになお待望して生きるこ とを得させます。私たちは、一人の御方を待ち望んでいるのです。その御方が 神の国の栄光を伴って来られるのです。その御方が、神の支配、神の秩序を打 ち立て給うのです。それは神の支配を待ち望んでいる人々にとっては、救いの 完成を意味します。この信仰は、私たちに何者によっても奪われることのない 希望を与えます。代々の聖徒たちはそのように生きたのです。私たちもまた、 そのように生きるのです。そのような私たちであることを再確認する時、それ がアドベントの期間です。
●主人を待つ僕として生きる
そのアドベントの第一週に与えられているのが、先ほど読みました、テサロ ニケの信徒への手紙に記されている御言葉です。今日、私たちは特に、12節 と13節を心に留めたいと思います。
「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに 満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛している ように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者 たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の 御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」 (1テサロニケ3・12‐13)。
パウロはテサロニケの信徒たちのために祈ります。主イエスが再び来られる 時を思いつつ祈るのです。パウロは、主の再臨を思いつつ、何を祈り求めてい るでしょうか。「わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころ のない者としてくださるように」と祈っているのです。若干表現は異なります が、これに類する祈りの言葉がフィリピの信徒への手紙にも見出されます。 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの 愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、 キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス ・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉 れとをたたえることができるように」(フィリピ1・10‐11)。このよう に、キリストの日に備えるということは、彼の内に常々あった祈りであること が分かります。
さて、このような祈りの言葉を読みます時に、多くの人は、「非のうちどこ ろのない者」とか「とがめられるところのない者」という言葉が気にかかるこ とでしょう。そして、いったいそのような人間になれるだろうか、と自問し始 めるだろうと思うのです。しかし、そのことはしばらく脇に置いておきましょ う。今しばらく、キリストの日に備えるとはいったいどういうことかを、まず ご一緒に考えたいと思うのです。
キリストの日に備えるということについて、パウロや初期の教会のキリスト 者たちがいかなるイメージを抱いていたかは、福音書に記されている主イエス のたとえ話を読めばわかります。例えば、マタイによる福音書24章45節以 下の主の言葉をご覧下さい。そこには、こう書かれています。
「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさ せることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来た とき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っ ておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い 僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲ん だりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけ ない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこ で泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタイ24・45‐51)。
このたとえ話において重要なポイントは、僕が主人の帰って来る時を知らな いということです。主人は思いがけない時に帰って来るのです。その点は、そ の前に書かれている主の言葉においても強調されております。「その日、その 時は、だれも知らない」(同24・36)。主人が帰って来る時が知らされて いないなら、僕の行動は一つのことによって決まります。すなわち、「主人を 待っているか、否か」ということによって決まるのです。
先のたとえ話において、罰せられた僕が「悪い僕」と呼ばれているのは、単 に酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしていたからではありません。問題は それ以前のことです。何と書いてあるでしょう。「主人は遅いと思い…」と書 かれているのです。「主人が帰ってくるのはきっと遅いに違いない」と思って 行動しているならば、その人はもはや主人を待っている人ではないでしょう。 この人が仲間を殴っている時、食べたり飲んだりして好き勝手に振る舞ってい る時、その心の内にあるのは、「まだ帰ってきて欲しくない」という思いであ ったに違いありません。この人は、主人を愛してもいなかったし、待ってもい なかったのです。それゆえに「悪い僕」と呼ばれているのです。
テサロニケの信徒への手紙に戻りまして、4章に入りますと、具体的な生活 についての指示が記されております。パウロはこう言います。「実に、神の御 心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなこ とで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前に も告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰 をお与えになるからです。神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方では なく、聖なる生活をさせるためです」(4・3‐7)。この言葉と、先の主イ エスのたとえ話が重なりますでしょう。情欲のおぼれ、兄弟を踏みつけるのは、 主人を待っていないからです。主人が帰るのは遅いと思っているからです。私 たちを愛し、私たちのために御自分の命さえ捨ててくださったその方にお会い する時に備えず、帰って来てもらっては困ると考えていることこそ問題の本質 なのです。
このように、先のパウロの祈りは、いわゆる完全無欠な人間になるように、 という祈りではなさそうです。大切なことは主を待つ僕であるということだか らです。キリストが来られる時に、悪い僕として見出されるのではなく、主を 待ち続けてきた忠実な僕として見出されるように。それが先のパウロの祈りが 意味するところであろうと思うのです。
●愛に満ち溢れさせてください
そして、もう一つ忘れてはならないことは、そのように主を待つ者として生 きる場は、教会の中においてであり、またこの世界のただ中においてである、 ということです。具体的な隣人との関わりの中においてである、ということな のです。それゆえに、12節において、「どうか、主があなたがたを、お互い の愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように」と 書かれているのです。新共同訳聖書では、12節と13節は別の文となってい ますが、この2節は原文においては切り離すことのできない一文なのです。
主人を待つ僕として大切なことは、ただ単に「清い個人」となることではあ りません。それ以上に大切なことは、他者との正しい関わりに生きることです。 以前用いていた讃美歌に、「われもなく、世もなく、ただ主のみいませり」と いう歌がありました。主に救われた身の幸いを歌う歌としては理解できますし、 私の愛する歌の一つでもあります。しかし、人がいつもそのような「われもな く、世もなく」という至福の内に漂うことだけを求めているとするならば、主 を待つ僕のあり方としては健全とは言えないでしょう。実際に、テサロニケの 信徒の間には、キリストの再臨待望の意識のあまり、労働を放棄してしまった り、普通の社会生活ができなくなってしまった熱狂主義者たちがいたようです。
終末を考える時に、現実の目に見える生活が意味を喪失してしまったというこ となのでしょう。しかし、それは主を待つ者のあるべき姿ではないはずです。
僕は与えられた自分の場を大切にすることによって、そしてそこにおける他 者との関わりの中で忠実に仕えることによって、主人の帰りを待つのです。そ れは私たちも同じです。与えられている教会における兄弟姉妹との関わりの中、 そして与えられている世界における隣人との関わりの中こそ、私たちが主を待 つ場所なのです。ですから、再臨のキリストを待つ者の祈りには、「お互いの 愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように」とい う祈りが伴うことは、至極当然のことであると言えるでしょう。
今日はパウロの祈りの言葉を共にお読みしました。この日からアドベントに 入ります。この期間、与えられた祈りの言葉を私たちの祈りとし、この祈りを 日々祈りつつ、キリストの到来を覚えるこの期間を意義深く過ごしたいと思う のであります。