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「今の時を見分ける」

2000年12月10日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ12・54‐56

 今日与えられている御言葉はルカによる福音書12章54節から56節です。

「イエスはまた群衆にも言われた。『あなたがたは、雲が西に出るのを見ると すぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹 いているのを見ると、「暑くなる」と言う。事実そうなる。偽善者よ、このよ うに空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分け ることを知らないのか』」(ルカ12・54‐56)。

 天候が直接生活と結びついている農耕社会において、空や地の模様を正しく 見分けられるか否かは死活問題でありました。今日のように発達した天気予報 があったわけではありません。人々は真剣に天候の行方を判断して行動計画を 立てたのです。雲が西に出ます。地中海の方から湿った空気が移動して来るの でにわか雨が振ります。人々は、実際にそうなることを経験から知っているの で、雲によって判断します。あるいは南風が吹いてきます。南の荒れ野から吹 いて来る風は炎暑をもたらすと判断します。そして、事実そうなります。この ように人々は、地や空の模様を正しく判断して行動することに懸命です。しか し、主は言われるのです。「どうして今の時を見分けることを知らないのか」 と。彼らは本当に見分けるべき「今の時」を見分けていないと言うのです。さ て、主の言葉は何を意味しているのでしょうか。そのことを理解するために、 今日の箇所の前後をまず見ておきましょう。

●火が投ぜられた今の時

 この箇所の前には、非常に過激な主の言葉が記されています。49節以下で す。こう書かれています。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。

その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしに は受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむ ことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思う のか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五 人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父 は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめ と、対立して分かれる」(12・49‐53)。

 主は火を投ずるために来られたと言います。その火が既に燃えていたらと主 は願っています。しかし、火まだ燃えてはいません。その火が燃え上がる前に、 主が為さねばならないことがあるのです。それを主は「受けねばならない洗礼 」と表現します。それが終わるまで、私はどんなに苦しむだろうと主は言われ ます。この主の受けるべき洗礼が主の受けるべき苦難を指していることは明ら かです。その苦難を経た後に投ぜられるべき火があるのです。

 火とは何でしょう。旧約聖書において、主なる神は「焼き尽くす火」と表現 されています(申命記4・24)。それゆえに、火という表象は、しばしば神 御自身が臨んで為される力ある御業、特に裁きと清めの業を表すのに用いられ ます(イザヤ66・15以下など)。そして、この火と主イエスの到来とを結 びつけて語ったのは、洗礼者ヨハネでありました。彼はこう言うのです。「そ の方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持っ て、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのな い火で焼き払われる」(ルカ3・16‐17)。

 こうして見ますと、主によって投じられるべき火というのは、終末における 神の決定的な御業としての聖霊の降臨を指していることが分かります。ヨハネ は、このメシアの到来によって開始する聖霊の働きは、罪人を滅ぼし焼き尽く す火のごとき神の裁きとして理解していたのでした。麦は倉に入れられますが、 殻は焼き払われるのです。しかし、主イエスの到来によって、罪人を滅ぼし尽 くす神の業は始まりませんでした。後に、ヨハネが獄中から使いを送って、 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなり ませんか」(7・19)と言わせた背景には、そのようなヨハネの失望があっ たものと思われます。

 しかし、主イエスは言われるのです。火が投じられるためには、まず主イエ ス自身が受けるべき洗礼があるのだ、と。まず主イエスの十字架が立てられね ばならないのです。まず主イエスが、父なる神の怒りの火を身に受けなくては ならないのです。そのことを経て、地上に火が投ぜられるのです。そして、火 は投ぜられたのでした。私たちは、この福音書に続く第二巻を通して、そのこ とを知らされております。すなわち、聖霊の降臨と教会の宣教の開始です。し かし、聖霊の降臨、教会の宣教の開始は、直接的には罪人を焼き滅ぼす神の働 きではありませんでした。聖書は何と言っているでしょうか。この福音書の一 番最後をご覧ください。聖霊の火が投じられて始まる新しい時代を展望しつつ、 ルカはこのような主の言葉を記しているのです。「次のように書いてある。 『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを 得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国々の人々に宣べ伝えられる』 と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(24 ・46‐48)。つまり、そこから神の最後的な呼びかけが始まったというこ とです。罪の赦しを得させる悔い改めが、主イエスの名によってあらゆる国々 の人々に宣べ伝えられる、その新しい時が始まったのです。神の火によって始 まったのです。それは、主が受けるべき洗礼を受けることによって、投じられ た火であります。

 神が直接臨まれるならば、罪人は滅びるしかありません。火が直接に投じら れるならば、罪人は焼き尽くされるしかないのです。神は焼き尽くす火だから です。しかし、その火をもって臨むべき裁きを、主イエスが受けてくださいま した。主が罪の贖いを成し遂げてくださいました。それゆえに、同じ神の御業 として、罪の赦しを得させる悔い改めが宣べ伝えられるのです。しかし、それ は言い換えるならば、罪の赦しを得させる悔い改めを拒否するならば、もはや 罪の赦しはあり得ない、ということをも意味します。それは、まさに自らの上 に裁きとしての神の火を運命づけることになるのです。ですから、これは他の いかなる事よりも真剣に受けとめるべきことであります。天候によって人の生 活は左右されるかもしれませんが、神の御前に悔い改めるか否かは、永遠の運 命を左右する重大時なのです。

 そのことを知る時に、一見不可解な51節以下の言葉も理解できるでしょう。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そう ではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)。確かに、このような言 葉は、「和を以て貴しとなす」この国の国民性にとっては、まことに受け入れ がたい言葉です。しかし、人が真に悔い改め、新しく神と生きようとする時、 古い生き方を求める周りの人々との間にある種の分裂が起こることは、当然あ り得ることなのです。確かに和は大事でしょう。しかし、真理を不問とし、罪 の問題をないがしろにし、救いと滅びに関わることをいい加減に扱ってまで守 らねばならぬほど、和は最重要事項ではないのです。

 しかし、それでも、「対立を生み出す宗教などまっぴらだ」と言われる方も あるかも知れません。そう思われるのは勝手です。しかし、少なくとも二つの ことは心に留めるべきでしょう。第一に、分裂や対立は即憎み合うことを意味 しません。主は弟子たちに「敵を憎め」とは言いませんでした。そうではなく て、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44) と言われたのです。主が「敵」という言葉を用いた時点で、既に対立が前提と されているではありませんか。しかし、本気で真剣に相対してこそ、愛すると いう言葉が意味を持つようになるのです。正義も真理もないがしろにして妥協 して和を保つことと「愛する」ということの違いが浮き彫りになるのです。

 そして、第二に、私たちが現実を良く見なくてはなりません。「対立はいけ ない」と言いながら、実にくだらないことで対立しているのが現実なのです。 神に従うか否かという真剣な問いによって対立することを忌み嫌いながら、実 につまらないことでいがみ合っているのです。我が儘のために対立し、利益を 守るために対立し、メンツを潰されたと言っては対立し、物言いが気にくわな いと言っては対立しているではありませんか。それでいて、本当に大切なこと では妥協しているのが現実なのです。繰り返しますが、天候によって人の生活 は左右されるかもしれませんが、神の御前に悔い改めるか否かは、永遠の運命 を左右する重大時なのです。

●神と和解すべき今の時

 同じことが、今日の聖書箇所を挟んでその後にも一つの喩えをもって語られ ています。57節以下をご覧下さい。「「あなたがたは、何が正しいかを、ど うして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行く ときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人 はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に 投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出る ことはできない」(57‐59節)。

 ここで語られていることは人々が一般的に目にすることです。主はその例を 用いただけです。一つ一つ、細かく寓話的に解釈する必要はありません。言わ んとしておられるのは単純なことです。「仲直りしなさい」ということです。 誰と仲直りしなさいと言っているのでしょうか。先の主の言葉においては「分 裂をもたらすために来た」と、かなり過激なことを言っておられたのですから、 ここで語られているのは、単に隣人と和解しなさいということではありません。

しかも、この話では、訴える者が百パーセント正しいという設定になっていま す。もはや弁解の余地がないのです。そうしますと、やはりここに重なってく るのは、神と人間との関係です。他の誰との関係をさしおいても、まず神と和 解しなくてはならない、ということなのです。

 もちろん、罪があるのは人間の側なのですから、人間の側から和解を成り立 たせることはできません。神と和解することに努めることができるのは、神が 和解を求めてくださっているからです。私たちが悔い改めて神のもとに帰るこ とができるのは、神御自身が私たちの悔い改めを求めていてくださるからです。

罪の赦しを得させる悔い改めが、主イエスの名によってあらゆる国の人々に宣 べ伝えられているからです。主イエスの到来、そして十字架と復活を通して、 そのような決定的な時が開始したのです。

 そのことについてパウロもまた次のように書いています。「これらはすべて 神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解 させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問う ことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわ たしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを 果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただき なさい」(2コリント5・18‐20)。

 「神と和解させていただきなさい」と語られていること自体が神の恵みです。

だから、さらに「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(同6・2)と言われ ているのです。しかし、それは恵みなのであって、その時が永遠に続くかのよ うに考えてはなりません。悔い改めが宣べ伝えられる宣教の時には必ず終わり があるのです。先の主の喩えではどう語られていたでしょうか。「途中でその 人と仲直りするように努めなさい」と言われているのです。永遠に途中である ということはあり得ないでしょう。

 ですから、今の時を正しく認識しなくてはならないのです。それが今日の聖 書箇所のメッセージです。人々は空や地の模様を一生懸命に見分けようとしま す。生活に関わっているからです。今日、都市部に住む人々は、彼らと同じよ うな意識で空を見上げることはないでしょう。むしろ、「為替と株価の動きは 見分けることは知っているのに」と言った方がピンとくるかも知れません。あ るいは、その他、自分の生活を左右すること、損得に関わることは、一生懸命 に見極め判断しようとするではありませんか。しかし、本当は、もっと真剣に 問い、判断し、見極めなくてはならないことがあるのです。神との関係におい て、今の時を見分けなくてはならないのです。主イエスが既に到来したゆえに、 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」だからであります。

 
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