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「常に喜びなさい」

2000年12月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピ4・4‐7

●常に喜びなさい

 パウロはフィリピの信徒たちに宛てて「喜びなさい」と書き記しています。 「喜びなさい」「喜べ」という命令文は、通常どのような場面で用いられるで しょうか。例えば、山で遭難して死にかかっている人々がいるとします。する と、遠くからかすかに捜索隊の呼び声が聞こえます。ライトの光が見えてきま した。一人が一番弱っているもう一人に言います。「喜べ。助かったぞ!」あ るいは、選考試験の結果を待っている人がいるとします。するとその人のとこ ろに知らせをもった人が駆け込んできて叫びます。「喜べ。合格だ!」あるい は、次のように語られることもあるでしょう。「喜べ。無罪釈放だ。」「喜ん で。男の子よ。」「喜べ。お前の大好物だ。」などなど。

 このように、「喜びなさい」という命令文には、たいていその理由が付随し てくるものです。理由があるからこそ「喜びなさい」と言えるのでしょう。と ころが、パウロはただ「喜びなさい」と言っているのではなく、「常に喜びな さい」と言うのです。これはおかしな命令文です。奇妙です。なぜなら、喜ぶ 理由は常にあるわけではないからです。

 それどころか、この手紙を書いているパウロにしても、この手紙を受け取っ ている教会にしても、むしろ喜べない理由の方が、遙かに多かったに違いない のです。その直前には何と書いてあるでしょうか。「わたしはエボディアに勧 め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」(4・2)。

こう書かなくてはならないのは、実際には、この二人が同じ思いを抱けずに、 むしろ仲違いしていたからです。いや、仲違いしているのは彼らだけではあり ません。この手紙の一章には、こんなことも書かれております「キリストを宣 べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者も います」(1・15)。宣教にまでねたみと争いが入り込むとは、いったい何 ということでしょう。

 そればかりではありません。内部の問題だけでなく、外からの迫害もありま す。パウロはこの時、獄中にいるのです。それは決して喜ばしい場所ではあり ません。しかも、裁判の成り行き次第では死刑になるかもしれません。考えて みれば、福音の宣教のために働き始めてからというもの、彼の人生は苦難の連 続でした。彼はコリントの教会に、このように書き送っています。「ユダヤ人 から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石 を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこと もありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人か らの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにお り、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その 上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事がありま す」(2コリント11・24‐28)。このように、これを書いているパウロ 自身にとっても、喜びを失わせる要因は数限りなくあったのです。

 では、「常に喜びなさい」とパウロに言わしめるものは、いったい何なので しょうか。ここで語られている喜びは、「喜べ、助かったぞ」「喜べ、合格だ 」という類の喜びではなさそうです。それでは「常に喜びなさい」とは言えな いからです。危機からの救助や病の癒しによって命が助かった喜びは、次に死 に直面した時には無くなっているのです。合格した時の喜びは、次に挫折した 時には失われているのです。子供が産まれた時の喜びは、その子供が不良にな った頃には忘れ去られているのです。ここで語られている喜びは、そのように 何かが生じたり、何かが起こったりした喜びはないはずです。様々な状況によ っても変わらないことに基づく喜びでなかったら、「常に喜びなさい」という 言葉は無意味でしょう。

 ここでパウロの言葉をよく聞いてください。彼はただ「常に喜びなさい」と 言っているのではありません。「主において常に喜びなさい」と言っているの です。「主において」という言葉は、パウロの手紙に実によく出てくる言葉で す。同じ言葉が他の箇所では「主に結ばれて」と訳されています。ここで語ら れているのはキリストとの関わりです。キリストを通しての神との関係です。 彼は、「何が起こるか」ということを自分の喜びの根拠として生きているので はないのです。そうではなくて、「誰と共にいるか」ということを自分の喜び の根拠として生きているのです。

 多くの人々は、「何が起こるか」ということにしか関心を向けようとはしま せん。それが一番重要なことであるかのように考えます。そして、起こる事々 によって一喜一憂して生きているのです。しかし、本当に重要なのは、「何が 起こるか」ではなくて、「誰と共にいるか」ではないでしょうか。しかも、そ れが過ぎゆくこの世の関係ではなくて、変わらざる御方と永遠の絆で結ばれて いることではないでしょうか。パウロは、その変わらざる真実なキリストとの 関係にこそ、喜びの根拠を見ているのです。そして、そのように生きるように とフィリピの信徒たちにも勧めているのです。喜びを失わせる要因に囲まれて いる彼らだからこそ、変わらざる御方に目を向けて生きねばならないのです。 だからパウロはさらにこう付け加えるのです。「主はすぐ近くにおられます」 (5節)。

 古代教会において合い言葉のように用いられていた言葉がありました。「マ ラナ・タ」という言葉です。これは「主よ、おいでください」という意味です。

もちろん、キリストの再臨を待ち望む祈りです。ですから、「主はすぐ近くに おられます」とは、第一義的には、キリストの再臨が近いという意味であった ことでしょう。しかし、キリストの再臨まではキリストが不在であり、その時 になって始めて遠くの方から来られるのだ、と考えられてきたわけではありま せん。主御自身が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる 」(マタイ28・20)と言われたからです。主が最終的な裁き主かつ救い主 として御自身を現される時に至るまで、主は教会のかしらとして、霊において、 いつも私たちと共にいてくださるのです。それゆえ、パウロが、「主はすぐ近 くにおられます」と言った時、もう一つの意味は「主は共にいてくださる」と いうことに他なりません。そのように、「主はすぐ近くにおられます」という ことこそ、信仰者の喜びの根拠なのであります。

●思い煩うのはやめなさい

 そして次に、パウロは「思い煩うのはやめなさい」と語ります。喜ぶことと 思い煩わないことは、同じ主に結ばれた生活の裏と表です。積極的な側面と消 極的な側面と言っても良いでしょう。どちらも大事です。片方だけでは成り立 ちません。ですので、「主において」と語ったパウロは、さらに具体的な勧め として祈ることを勧めるのです。「主において」生きる生活は、祈りと礼拝と いう具体的な形を取るのです。

 パウロにしても、フィリピの信徒たちにしても、思い煩いの種は数え切れな いほどあったに違いありません。しかし、思い煩わないで生きるために必要な ことは、思い煩いの種を取り除くことに一生懸命になることではないのです。 主にある者として生き、神に祈って生きることなのです。

 パウロはここで「神に打ち明けなさい」と言っています。これは単なる願い ごと以上のことです。それは「感謝を込めて」という言葉が伴っていることか らも分かります。しかしながら、「感謝を込めて」というのは、必ずしも常に 感謝の言葉だけをもって祈るということではないでしょう。それは旧約聖書の 詩編を読んでも分かります。そこには、神の前で嘆き、泣き、訴える人々がい るのです。詩編を読みますと、実に聖書が語る祈りの世界の広さと深さに圧倒 される思いがいたします。ですから、ここで語られている「感謝を込めて」と いうのは、無理をして、表面だけを繕って、感謝の言葉を神に献げるというこ とではありません。そうではなくて、いかなる言葉をもって祈ったとしても、 その祈りの根底に変わらぬ神への信頼と感謝があるということなのです。丁度、 強い風によって河面がどれほど波立とうが、その底流においてはゆっくりと確 実に一つの方向へ流れる大河のようにです。

 人間の自然な願望から生じた祈りはそのような祈りとはなりません。福音に よって生み出された、神の愛への応答としての祈りであってこそ、変わらぬ感 謝を底流に持つ祈りとなるのです。私たちが神を愛したのではなく、まず神が 私たちを愛して下さった。そのことを知って始めて「感謝を込めて祈りと願い を捧げる」ことが可能となるのです。言い換えるならば、それは神によって救 われた者として祈るということでもあるでしょう。それこそが、キリストに結 ばれた者として祈るということに他なりません。

 では、そのように「神に打ち明ける」時に、いったい何が起こるのでしょう か。パウロはこう言うのです。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和 が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7 節)。

 ここで語っているパウロは、獄中にある未決囚です。彼は自分の命を自分で 守ることができません。しかし、私たちは、ここに人知を越える神の平和によ って心と考えとを守られている人の言葉を聞いているのです。私たちは、この ような人をこそ、「神に守られている人」と呼ぶべきでありましょう。私たち は、一生懸命自分の命を守ろうといたします。自分の身を守り、立場を守り、 メンツを守り、病気から肉体を守り、経済的な困窮から生活を守ろうといたし ます。しかし、そのように自分を守ることに一生懸命になっているうちに、心 と考えはボロボロの廃墟のようになってしまっていることは、いくらでもある ではありませんか。私たちは、神の平和によって、心と考えとを守っていただ かねばならないのです。そして、それは主に結ばれている者として神に祈るな らば、パウロに対してそうであったように、私たちにも与えられることが約束 されている神の守りなのです。

 20世紀が終わりに近づいてきました。この世紀を振り返るならば、まこと に「喜び」に縁遠い世紀であったと言えるでしょう。また、来るべき21世紀 を展望する時に、いったいどれだけの人が、喜びと輝きに満ちた21世紀を望 み見ていることでしょうか。多くの人は来る21世紀と「喜び」という言葉を 決して結びつけようとはしないに違いありません。しかし、そのような時代に おいてなお、いや、そのような時代であるからこそ、私たちは主に結ばれてい る者の喜びに生き、神の平和によって心と考えとを守られ、その喜びと平和と を世界のただ中にあって証ししていかなくてはならないと思うのであります。 聖書は、今日の私たちにも語りかけているのです。「主において常に喜びなさ い。重ねて言います。喜びなさい」と。

 
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