「キリスト降誕の意味」                            1テモテ1・15  アドベントに入ると、子供たちがクリスマス・ツリーを飾り付けてくれまし た。青年たちと共に、表の樅の木に電飾もほどこしました。玄関にはリースが 飾られました。礼拝堂にはロウソクが立てられ、正面にはやはりクリスマスの 飾りつけがなされました。教会のホームページもアドベントに入って新しくな りました。御覧になった方もおられると思いますが、綺麗なクリスマスのデザ インになっています。雪まで降っています。クリスマスの案内のページには、 オルゴールで「きよしこの夜」が流れています。  しかし、そのように綺麗に飾り付けをし、クリスマス礼拝への備えをしなが ら、一つのことだけは忘れてはならない、と思わされます。聖書の伝える、あ のキリスト降誕の日の出来事は、実際には決して美しく明るい出来事ではなか った、ということです。もし、私たちがそのことを忘れてしまうならば、私た ちがほどこす飾り付けは、街のクリスマスセールの飾り付けと、大して変わら ないものになってしまうでしょう。 ●罪のただ中に来られたキリスト  あの日、キリストはユダヤのベツレヘムに生まれたと伝えられております。 イエスの母マリアも、父親とされるヨセフも、ベツレヘムに住んでいたわけで はありません。彼らが生活の場を離れて、しかもマリアが身重であるにもかか わらず、どうしてもベツレヘムに旅をせざるを得なかったのは、皇帝アウグス トゥスによって住民登録の勅令が出されたからです(ルカ2・1)。奴隷も含 めて全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。 それは、特に貧しい人々の上に、ずっしりと重い重荷を負わせることになった に違いありません。そもそも、生活の場を離れて旅をせざるを得ないこと自体、 多くの人々の生活が脅かされることを意味しました。一人の権力を持つ人間に よって、力ない者がその生活を脅かされます。平和な生活の場から追い出され ます。弱い者はしばしばその命令に黙々と従わねばなりません。まことに理不 尽なことです。しかしこの世界において決して珍しくはない現実生活の一こま です。  いや、これは権力者と民衆の間のことだけではありません。抑圧されている 人々は、痛みを負う者同志、分かち合い助け合い生きていくかと言えば、実際 にはそうはなりません。そこでもまた場所の取り合いです。人は押しのけ合っ て生きていくのです。  あの日の出来事を、聖書は次のように淡々と綴っています。「ところが、彼 らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布に くるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからであ る」(ルカ2・6‐7)。淡々と語られているだけに、余計に何とも言えぬや るせなさを覚えます。  何一つ必要なものが揃っていないその場所で、恐らくまともに産湯も使わせ てもらうことなく、不潔な飼い葉桶の中に幼子は寝かされておりました。側に は命がけの出産を終えて、極度の緊張と疲労のためにぐったりとしているマリ アと、同じように緊張のために疲れ果てているヨセフがいたことでしょう。そ の日に羊飼いたちが来たとするならば、彼らが目にしたのは世にも悲惨な光景 であったに違いありません。  「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とルカは記します。そ うでしょうか?本当は泊まる場所がなかったのではないでしょう。彼らのため に場所を作ってやろうという人がいなかっただけではないですか。マリアが身 重であるのは、誰の目にも明らかだったはずです。馬や牛じゃあるまいし、家 畜小屋で簡単に赤ん坊を産み落とせるわけがありません。もし出産となれば、 それが生死に関わることは、どんな鈍い人にだって分かったはずなのです。し かし、皆は自分のことで精一杯だったのでした。彼らのことは気にはなったで しょう。でも自分のことはもっと大事でありました。  本当に暖かい場所を必要とする人たちが、宿屋から追い出され、家畜小屋の ようなところに追いやられる。それもまた、形は違いこそすれ、この世の現実 の姿です。誰の問題でしょうか。皇帝でしょうか。為政者たちでしょうか。社 会的な構造が諸悪の根元なのでしょうか。いいえ、彼らだけの問題ではありま せん。私たちがこの場面に見る異様な醜さと暗さは、他ならぬ人間の罪の醜さ であり罪の暗さなのです。幼子が飼い葉桶に寝ているのは、人間の罪のゆえな のです。  いえ、あの最初のクリスマスの暗さは、実はそれだけではありませんでした。 飼い葉桶に寝かされた幼子がどうなっていくのかは、それを記したルカには分 かっているのです。この飼い葉桶の中にいる悲惨な幼子は、やがて十字架の上 で悲惨な死を遂げることになっている幼子なのだ、ということです。生まれや 育ちは貧しくて惨めでも、後には幸福になりました。大成して人々に尊敬され る人になりました。そのような類の話なら、この世の中にはいくらでもあるで しょう。しかし、この話は違います。産まれた時も惨めでした。そして、最後 は人々に憎まれ、捨てられ、十字架にかけられて死にました。そこに寝かされ ているのは、そのような幼子です。あまりにも酷い話ではないですか。  クリスマスの物語には、暗い十字架の影が落ちています。「宿屋には彼らの 泊まる場所がなかったからである」。いや、宿屋だけではありません。キリス トには、地上のいかなる場所もありませんでした。最終的には、地からも上げ られ、十字架にかけられて殺されるのです。地上には「十字架にかけろ。あの 男を十字架にかけろ」という人々の叫びがこだましています。ゴルゴタの丘に は十字架の上のキリストを罵り、あざける声が響き渡ります。父なる神を愛し、 人々を愛された方は十字架の上に追いやられたのでした。  神の御心を行おうとする人は、しばしば苦難へと、死へと追いやられる。そ れもまた、形は違いこそすれ、この世の現実の姿であろうと思います。確かに あの方は、最終的にはローマ皇帝の権力のもとに十字架にかけられました。し かし、あの方を十字架に追いやったのは、ただ単にローマ皇帝やユダヤ人の指 導者たちだけではありません。私たちがあの十字架の場面に見る異様な醜さと 暗さは、他ならぬ人間の罪の醜さであり罪の暗さなのです。人間の罪が、あの 方を十字架に追いやったのです。  しかし、私たちはそのような罪の暗さに、常に気づいているわけではありま せん。あのベツレヘムにおいて、自分の居場所を確保するのに精一杯であった 人々は、そのように自分のために生きていることが、身重の女を馬小屋へ追い やっているなどと考えもしなかったに違いないのです。人が正当な権利を主張 し、当然享受すべきものを享受しているのだと考えて生活していること自体が、 実はすぐ身近にいる者に惨めさを強い、絶望と死の淵に追いやっている。その ようなことはいくらでも起こります。しかし、その当人は気づきません。  十字架の場面においてもそうです。人々が「十字架につけろ」と叫んでいた 時、彼らは自分が罪深い者だなどとは微塵も思っていなかったはずなのです。 むしろ、彼らの多くは正義感に駆られて叫んでいたのです。あるいは少なくと も自分の行為を正当化しながら叫んでいたはずなのです。人間の罪の最も深い 闇は、その罪に気づかないところにこそあります。あるいは気づこうとしない ところ、気づいたとしても認めようとしないところにあるのです。そのような 罪の深い闇のただ中で起きた出来事こそ、キリストの誕生でありました。それ は決して美しく明るい出来事ではなかったのです。 ●罪人を救うために来られたキリスト  しかし、それにもかかわらず、私たちはこの日のために飾り付けをし、キャ ンドルを灯し、ホームページも新しくし、喜びをもって祝います。なぜでしょ うか。  今日お読みしました聖書箇所に、その答えが書かれています。「キリスト・ イエスは、罪人を救うために世に来られた」(1テモテ1・15)。クリスマ スの出来事は、ただ単に、この罪の世のただ中にキリストがお生まれになった ということではありません。罪人を救うためにこの世に来られた、という出来 事なのです。もはや罪人は罪の中に希望なくうち捨てられている存在ではあり ません。この世界は、もはや罪のゆえに滅びるしかない世界ではありません。 キリストが他ならぬ罪人を救うために来られたからです。そして、これを書い ているパウロ自身が言うのです。「わたしは、その罪人の最たる者です」と。  先ほど、「人間の罪の最も深い闇は、その罪に気づかないところにこそある 」と申しました。それはパウロについても当てはまります。彼は、もともと自 他共に認める「正しい人」でありました。彼は他の手紙において「律法の義に ついては非のうちどころのない者でした」(フィリピ3・5)と語っています。 彼はもともとキリスト教会の迫害者でありましたが、それは彼の正義感に基づ いてのことでした。教会の最初の殉教者であるステファノが石で打たれて殺さ れた時、若きパウロは、恐らく何らかの責任ある立場として、その処刑に立ち 会っておりました。石で打たれ血塗れになって死んでいく一人の人をじっと見 守りながら、その殺害を肯定している自分自身について、なんらのやましさも 感じてはいなかったのです。それからのパウロの行動については、聖書が次の ように証言しています。「サウロ(すなわちパウロ)は、ステファノの殺害に 賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たち のほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々 がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から 家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」 (8・1‐3)。  その彼が、キリストに仕える伝道者となるのです。なぜでしょうか。彼の回 心の次第は使徒言行録9章に詳しく記されております。また、パウロの証言の 言葉としても22章と26章に二回記されております。それによりますと、サ ウロが迫害の手を伸ばすためにダマスコに向かう途上、突然、天からの光によ って照らされ、地に打ち倒され、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害する のか」というキリストの声を聞いたということです。そこで実際に何が起こっ たのかは、よく分かりません。恐らくパウロ自身も自らの言葉をもってして十 分には説明できなかったに違いありません。  しかし、少なくとも二つのことだけは確かです。第一に、パウロがそこで自 らの罪に気づいたということです。自分が正しいと思ってきたことが実は間違 ったことであり、自分が知らないで行ってきたことがいかに恐るべき罪である かということに気づかされ、打ちのめされたということであります。今まで他 者を裁き、死にまで定めてきた者が、自ら裁かれるべき罪人として主の前にい ることに気づいたということであります。  そして、第二に、自らの罪を知ったパウロは、そこで彼を罪のゆえに裁き滅 ぼそうとしているキリストに出会ったのではなく、彼を罪から救い生かそうと しているキリストに出会ったのだ、ということであります。彼は、主の怒りに 触れたのではなく、主の憐れみに触れたのです。その憐れみによって、彼は罪 を赦され、救われ、キリストに仕える者として新しい命に生き始めたのです。  そのようなパウロであるからこそ、確信をもってこう語るのです。「『キリ スト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、 そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」。 キリストは来られました。罪の世のただ中に来られました。罪によって闇とな った悲惨なこの世界のただ中に来られました。その御方は、飼い葉桶の中に寝 かされた赤ん坊となり、十字架の上にかけられた死刑囚となられました。それ は罪のない神の子が、この世の罪を背負われる姿に他なりませんでした。神の 子がそのような姿となられたのは、罪人である私たちが救われ、生かされるた めでありました。私たちが裁かれ、滅ぼされるのではなく、赦され、救われ、 生かされるためでありました。キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来 られたのであります。  この世はもはや神に見捨てられ、滅びへと定められた世界ではありません。 いかなる罪人も、神の憐れみの届かないところにいることはありません。それ ゆえ、私たちはあのベツレヘムに起こった醜く暗い出来事を祝うのです。飾り 付けをし、キャンドルを灯し、喜びに溢れて祝うのです。光が来たなら、もは や闇は闇のままではないからです。