「わたしは主、あなたの神」
2001年1月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ43・1‐7
イザヤ書43章全体には、実に希望と慰めに満ちた救いの言葉が満ちており ます。しかし、この章はその直前の42章と切り離してはなりません。42章 18節には、同じ人々に対して次のように呼び掛けられております。「耳の聞 こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見え ない者があろうか。わたしが遣わす者ほど、耳の聞こえない者があろうか。… 」(42・18‐19)。43章の救いの預言とは対照的な厳しい言葉が記さ れております。しかし、これは同じ神の言葉です。イスラエルの民は、救いの 言葉を聞く前に、まずこの言葉を聞かなくてはならなかったのです。人は、救 いの言葉を求めます。しかし、その前に聞くべき別の神の言葉があるのです。
●見なさい、聞きなさい
彼らは国を失った捕囚の民でありました。捕囚生活は長きに渡りました。希 望は虚しく潰えていきます。かわりにつぶやきの言葉が溢れてまいります。 「わたしの道は主に隠されている」(40・27)と。それは、「神はどうし て見てくださらないのか。どうして聞いてくださらないのか」という嘆きの言 葉に他なりません。そのような嘆きは、やがて「神は目が見えないのではない か、耳が聞こえないのではないか」という反抗に満ちた神への非難に変わりま す。
しかし、そのような人々に対して、主は言われるのです。「耳の聞こえない 人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ」と。つまり、「お前たちの方こそ、 耳の聞こえない者ではないか。目の見えない者ではないか」ということです。 ここに繰り返されている「目の見えない者」「耳の聞こえない者」という言葉 は、人々の神に対する非難が神によって突き返された言葉に他ならないのです。
人は苦難の中で神を非難します。しかし、神は問い返されます。おかしいの は私なのか、それともあなたなのか。物事が分かっていないのは私なのか、そ れともあなたなのか。見えていない、聞こえていないのは、あなたではないか!
そう主は言われるのです。主は「聞きなさい。見なさい」と言われるのです。 私たちこそ、本当に聞かなくてはならないこと、目を大きく開いて見なくては ならないことがあるのです。それは神の正しさです。そして、神の正しさを見 て人が為すべきことは悔い改めなのです。
それゆえ、預言者は民を代表して、悔い改めの言葉を語ります。「奪う者に ヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではない か、この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道を歩もうとせず、その教 えに聞き従おうとしなかった」(42・24)。
ただ災いを嘆いているだけの人は本当に不幸です。災いにおいて他者を責め、 神を非難し、自己憐憫の中に座りこんでいる人は本当に不幸です。そこには救 いがないからです。そのような人に、43章の言葉は無縁です。大切なことは、 この預言者のように、神の正しさに目を向けることです。へりくだって自らの 罪を認めることなのです。主の道を歩もうともしなかったし、その教えに聞き 従おうともしなかった自分自身であることを、まず神の御前に認めることなの です。
●わたしはあなたを贖う
しかしながら、自らの歩みを真実に振り返り、自分自身の罪を認めるという ことは恐ろしいことです。人はなんとか自分の正しさに依り頼んで生きている ものだからです。自分の正しさを他者に対しても自分自身に対しても主張し、 自己を弁護し他者を悪者にできるからこそ、私たちは生きていけるのです。罪 を認めることは、その拠り所を失うことに他なりません。しかし、人がその古 い拠り所を失った時、そこで初めて聞こえてくる言葉があるのです。それが4 3章です。主は言われるのです、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなた はわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と。
「贖う」とは「買い戻す」ことです。その昔イスラエルでは、借金などの理 由で奴隷になった者が自由になるには、最も近い親族が代価を払って買い戻さ なくてはなりませんでした。そのような奴隷において明らかなことは、自分で は自分のことをどうすることもできない、ということです。彼が救われる道は 全く他者の好意によるしかないのです。
それは神と罪人との関係においても同じです。自分の罪を認めた者は、自分 で自分を救い得ないことを知っています。罪の支払う報酬は死です。裁きであ り滅びなのです。罪あるところには絶望しかありません。そのような者が救わ れるとするならば、純粋に神の恵みによるしかありません。
それゆえに、神はただその恵みによって語り給うのです。「恐れるな、わた しはあなたを贖う。あなたはわたしのものだ」と。人は神の恵みによって買い 戻されて、神のものとなるのです。主の道に歩もうともせず、その教えに聞き 従おうともしなかった者に対して、「あなたはわたしのものだ」と主は言って くださるのです。
これは驚くべきことではないでしょうか。しかし、さらに驚くべきことが3 節に記されております。「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、 あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあ なたの代償とする。」
神の勘定は人間の目には不可解です。かたや神に逆らって罪を犯し続け、神 の呼びかけにも耳を傾けなかった者たちです。その挙げ句の果てに国を滅ぼさ れ、異国の地に捕囚となっている惨めなイスラエルの民です。もはや何の役に も立ちそうにない、燃え滓のような民ではありませんか。一方、エジプトはそ の時代における強大な国家です。そこには力も豊かさもあるのです。ここに挙 げられているエジプトやクシュ、セバなどの国々は、この世の強いもの、大き いもの、豊かなもの、華やかなもの、その他ありとあらゆる価値あるものを代 表していると言って良いでしょう。しかし、主はそれらの国々を「あなたの身 代金とする」と言われるのです。神の栄光を汚し続けてきた不従順で罪深いイ スラエルを、主はこの世のありとあらゆる価値あるものよりも高価なものとし て御覧になられるのです。主は「わたしの目にあなたは価高く、貴いのだ。わ たしはあなたを愛している」と言われるのです。
まことに神の勘定は私たちには不可解です。しかし、そのように神の愛と赦 しが人間の勘定を越えているからこそ、後のさらに大いなる不可解な出来事も 起こり得たのです。神は、エジプトやクシュやセバではなく、御自分の独り子 を私たちの贖いの代価としてこの世に送られたのです。主イエスは言われまし た。「人の子は仕えられるためではなく使えるために、また、多くの人の身代 金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10・45)。この 御方を通して、神は私たちにも言われるのです、「わたしの目にあなたは価高 く、貴いのだ。わたしはあなたを愛している」と。そして、言われるのです、 「恐れるな、わたしはあなたを贖った。あなたはわたしのものだ」と。
●わたしはあなたと共にいる
このように、主に贖われ、主のものとされているという事実こそ、私たちの 真の拠り所なのです。私たちが主のものであるならば、主はいかなる時にも私 たちと共におられるからです。主はこう言われます。「水の中を通るときも、 わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。 火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43・2)。
主に贖われた民は、やがて捕囚の地であるバビロンを出てエルサレムへと向 かうことになるでしょう。しかし、その時、主は決して「あなたはわたしのも のなのだから、水の中を通るようなことはない。火の中を歩くようなことはな い」とは言われないのです。彼らは、あのエジプトを導き出された民がそうで あったように水の中を通るような、まさに通り得ないところを通されるような 経験をするでしょう。また火の中を歩くような危機を経験することでしょう。 しかし、それはもはや神の裁きを意味しません。主に贖われた民は滅びること はありません。なぜなら、主御自身が「わたしはあなたと共にいる」と言われ るからです。
これこそまさに、イエス・キリストを通して私たちにもまた与えられている 神の言葉であります。私たちもまた水の中、火の中を通ることがあるでしょう。
最後には、誰でも死という恐るべき大河の流れ、燃えさかる劫火の中を通るこ とになります。しかし、もはや死さえも私たちを滅ぼすことはできません。な ぜなら、「わたしはあなたと共にいる」と言われる方がおられるからです。何 ものも神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。なぜなら、私たち は神に贖われたものであり、神のものだからです。
パウロは、そのような確信を次のような言葉で言い表ました。「だれが、キ リストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。
迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日 中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してく ださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死 も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるも のも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わた したちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き 離すことはできないのです」(ローマ8・35‐38)。アーメン。