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「神の愛は十字架の上に」

2001年1月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1ヨハネ4・7‐12

 人は様々な思いを抱いて教会に集います。どのような目的で教会の門を叩こ うと、それはそれでよいことです。物資が不足していたその昔、靴を盗むため に教会の門をくぐった人の話を聞いたことがあります。その人は、それがきっ かけで教会に通うようになり、キリスト者となりました。そのように、スター トの仕方はそれぞれですし、それでよいのです。しかし、その目的とするとこ ろはやがて一点に収束していかなくてはなりません。それは「神を知ること」 です。教会において、切に求められるべきこと、それは「神を知ること」です。

カルヴァンの著したジュネーブ教会信仰問答の第一問は次のように問います。 「人生の主な目的はなんですか。―神を知ることです。」教会は、そのような 意味では、真の人生の目的に向かうところであります。私たちは、そのように、 まず神を知ることを切に求めていく者でありたいと思うのです。

●神を知るとは

 しかし、一方、「神を知る」という言葉は非常に漠然とした言葉でもありま す。ある人にとっては、聖書についての知識、あるいは神学的な知識を持つこ とを意味するでしょう。別な人は、神秘体験を得、神人合一の経験をすること であると言うかも知れません。あるいは、自らが神のようになり、特別な神的 能力を得ることだと言う人もあるでしょう。

 本日はヨハネの手紙を読みました。この手紙が書かれた少し後、紀元二世紀 に非常に栄えたグノーシス主義という思想がありました。その走りとなった人 々がこの手紙が書かれた時代にもいたのです。そして、そのような思想が教会 の中にも入り込んでおりました。「グノーシス」というのはギリシャ語で「知 識」という意味です。グノーシス主義者にとっては、「神を知る」ということ は、特別な人間のみが受け、伝授し得る秘められた知識(グノーシス)を得る ことに他なりませんでした。

 しかし、ヨハネは次のように教会に語りかけるのです。「愛する者たち、互 いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、 神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だか らです」(4・7‐8)。神を知るということは、宗教的エリートのみが得ら れる特別なグノーシスを得ることでもなければ、神秘体験を得たり、超能力を 得て神のようになることではないのです。そうではなく、「神を知る」という ことと「愛する者となる」ということは一つなのです。ですから、どんなに神 についての特別な知識を持っていると言っても「愛することのない者は神を知 りません」と明言するのです。なぜでしょうか。彼はこう言います。「神は愛 だからです」(8節)。

 教会において私たちが真に求むべきことは「神を知ること」です。しかし、 更に言うならば、神を知るということは、愛なる神を知ることなのです。そし て、愛なる神を知るということは、私たちもまた愛する者となることなのです。

では、「神は愛である」という、その愛なる神を知るということは、いったい どういうことなのでしょうか。

●愛なる神を知るとは

 ヨハネはさらに続けて言います。9節以下をご覧ください。「神は、独り子 を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようにな るためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが 神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけ にえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(9‐10 節)。

 愛なる神のその愛はどこにおいて知られるのでしょうか。幸運な出来事の中 で「神は愛だ」と叫ぶ人もいます。しかし、そのような人は不運を経験して神 の愛を否定するようになります。聖書は、神の愛はイエス・キリストにおいて 究極的に現されたのだ、と言うのです。ですから、私たちが、本当の意味で愛 なる神を知るためには、私たちの目をイエス・キリストに向けなくてはなりま せん。特に、ヨハネは、「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償うい けにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と言って います。「いけにえ」すなわち「犠牲」ということで、彼がイメージしている のは、十字架において死んだキリストであります。神の愛は、この地上にてキ リストが十字架にかかって死んだ、というあの出来事において現されたのだ、 と言うのです。十字架のキリストを指さして、「ここに愛がある」とヨハネは 叫んでいるのです。

 しかし、考えてみますならば、これは世にも奇妙なことでしょう。想像して みてください。十字架刑というのは、手足を釘付けにして、ただ磔にして死ぬ のを待つという、世にも残酷な死刑であります。その光景は、本来ならばグロ テスク以外の何ものでもないはずです。あなたが十字架において死にゆく人を 目の前にしたら、そこで「神は愛である」と言うでしょうか。どう考えても、 その光景は神の愛とは結びつかないはずです。そこで私たちは、神の愛が何で あるかを、改めて考えねばならないと思うのです。

 そもそも、「愛」とは何でしょうか。「愛」というのは、響きのよい美しい 言葉です。しかし、同時に、私たちは、この「愛」というものが、決してきれ い事では済まない現実と深く結びついていることも知っています。「愛し合い ましょう」と言うのは簡単です。しかし、実際には、決して簡単なことではな いし、きれい事では済まないのです。自分を愛してくれる人を愛するのは易し いことです。しかし、実際には、常に自分に好意を持ってくれる人に囲まれて 生きているわけではありません。それは家庭の中であっても、職場や学校にお いても同じです。ですから、そのような中で人を愛して生きようとするなら苦 しむことは避けて通ることができないのです。

 愛の定義について考えますとき、すぐに心に浮かぶ有名な聖書箇所がありま す。コリントの信徒への第一の手紙13章です。結婚式でしばしば読まれます。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼 を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。不義を喜ば ず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐え る」(1コリント13・4‐7)。結婚式でこの言葉を聞きますと、多くの人 は感動するのです。新郎新婦はなおさらでしょう。最近では新郎の方が良く泣 きます。しかし、結婚して一月もすれば、感動だけでは済まされないことに気 づくことになります。忍耐強くあること、情け深くあること…「すべてを忍び、 すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」言うは易し。しかし、実際 には、この部分において、どれだけ多くの人が泥沼の苦闘をしていることでし ょう。ある時は傷だらけになり、ある時には泥だらけになる。そうしないと成 り立たないのが、ここで言われている「愛」なのです。私はある説教者の言っ た一つの言葉が忘れられません。"If you don't want to get hurt, don't love anybody."(傷つきたくなかったら、愛することはおやめなさい。)確か に、愛するということは、自らが傷や痛みを引き受けることなのだろうと思い ます。

 皆さん、実際、神がしてくださったことも、そのことなのです。ここで言わ れているのは、そのような愛なのです。神は、自分を愛する者を愛されたので はありません。私たちが神を愛したから、神は私たちを愛されたのではないの です。ヨハネの手紙に戻ります。4章10節をもう一度ご覧下さい。「わたし たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償 ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。」私たちは神を愛さなかっ たのです。人間は自分本位な生き物です。神に対してさえ、そうです。ある時 には神を利用することしか考えない。ある時は、神を無視し、神を馬鹿にし、 神をあなどり、神を呪いさえする。歴史を通じて、そのどうしようもない人間 の本質は変わりません。しかし、そのような私たち人間を神は愛されたのであ ります。そのような私たちを神が赦し、愛し、受け入れようとされる時、その 愛は決して口先だけのきれい事では済まされないのです。それは神御自身が泥 をかぶり、痛みを引き受けることに他ならないのです。それは神が傷だらけに なることに他ならないのです。

 ヨハネが十字架に見たのは、まさにそのことだったのです。もちろん、その 時には分からなかったことでしょう。しかし、後になり、その場面を思い起こ す度に、彼の目の前に描き出されるその姿は、まさに傷だらけになりぼろぼろ になりながら愛を示された子なる神の姿だったのです。罪を償う犠牲となった 子なる神の姿です。またその背後にあって苦悩する父なる神の愛の姿でありま す。それは、どうしようもない罪人である私たちを赦し、愛し、受け入れるた めの苦悩に他なりません。それが十字架です。彼はその愛を見たのです。だか らヨハネは十字架を指し示して叫ぶのです。「ここに愛がある!」と。

 神を知るということは、そのような神の愛を知ることです。私は、この愛な る神に出会えたことを本当に幸いなことであると思います。そして、この愛を もっと知りたい。本当に知りたいと思います。皆さんはどうでしょうか。この 十字架に現された神の愛をさらに深く知ることを切に追い求めようではありま せんか。

 そして、それはまた、私たちが互いに愛し合うということと切り離せないこ とです。ヨハネは言います。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛 されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を 見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内 にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」 (11‐12節)。最初に読みました「互いに愛し合いましょう」という勧め もここから来ていることが分かります。それは、軽い呼びかけではありません。

キリストの十字架に現された神の愛を知っていくことによってのみ、初めて具 体化していくことなのであります。

 
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