「神のもとに立ち帰れ」
2001年1月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア12・1‐15
ホセアはここで、イスラエルの古い物語を用いて、神の言葉を伝えています。
ホセアがここで用いているのは、彼らの先祖であるヤコブの物語であり、その 後の出エジプトの物語です。その使信の中心は7節の言葉に見ることができる でしょう。「神のもとに立ち返れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望 め」(12・7)。
●ヤコブを憐れまれた神
それでは、初めに1節から6節までをお読みします。
エフライムは偽りをもって
イスラエルの家は欺きをもって
わたしを取り巻いた。
ユダはいまだに神から離れてさまよい
偶像を聖なるものとして信頼している。
エフライムは風の牧者となり
一日中、熱風を追って歩く。
欺瞞と暴虐を重ね
アッシリアと契約を結び
油をエジプトへ貢ぐ。
主はユダを告発される。
ヤコブをその歩みにしたがって罰し
その悪い行いに報いられる。
ヤコブは母の胎にいたときから
兄のかかとをつかみ
力を尽くして神と争った。
神の使いと争って勝ち
泣いて恵みを乞うた。
神はベテルで彼を見いだし
そこで彼と語られた。
主こそ万軍の神
その御名は主と唱えられる。 (12・1‐6)
ここにアッシリアとエジプトの名が出てきます。この二つの国名が現れる背 景は、列王記下17章に記されています。イスラエルの最後の王ホシェアの治 世のことです。「アッシリアの王シャルマナサルが攻め上ってきたとき、ホシ ェアは彼に服従して、貢ぎ物を納めた。しかし、アッシリアの王は、ホシェア が謀反を企てて、エジプトの王ソに使節を派遣し、アッシリアの王に年ごとの 貢ぎ物を納めなくなったのを知るに至り、彼を捕らえて牢につないだ」(列王 記下17・3‐4)。
イスラエルの本質的な問題は、いみじくもこの外交政策とその結果に現れて いるとホセアは見ております。つまり、国の危機に際して、真に自らの罪を悔 い改めて神に立ち帰るのではなく、ある時にはアッシリアにおもねり、ある時 にはエジプトの大国に頼り、その間を行ったり来たりしているということです。
「何が本当の問題であるのか」ということを考えず、ただ「この現状をどうし たらよいのか」ということしか考えていません。そうやって右往左往している うちに、自らに滅びを招くのです。そのような姿を、ホセアは、羊の牧者では なく「風の牧者」と呼びます。風の後を追うことは虚しいことです。目の前の 危機を回避することだけに捕らわれて、ひたすら人間的な策を講ずることしか 考えられないならば、それは風を追って歩くような愚かなことだと言っている のです。
そこで、ホセアはイスラエルの先祖であるヤコブに言及します。まず、その 第一の意味は、「あなた方は先祖の悪いところをそのまま受け継いでいる」と いう指摘です。ヤコブとはどのような人物だったのでしょうか。彼の誕生の次 第は創世記25章に出てきます。そこを読みますと、彼は産まれてくる時、双 子の兄であるエサウのかかとをつかんで産まれてきたと書かれています(創世 記25・26)。つまり、自力で長子となろうとしたのがヤコブであった、と 物語は伝えているのです。そのエピソードはヤコブの人生全体を象徴的に表し ています。事実、ヤコブはその後、エサウを騙して長子の特権を得、さらに目 の見えない父親を騙して本来エサウが得るはずだった祝福を奪い取るのです (創世記25、27章)。しかし、ヤコブはその結果エサウから命を狙われま す。結局、自らの為したことによって、自らを絶望の淵に追い込んでしまうの です。このようなヤコブの姿を示すことによって、ホセアは「人の力と策略に 依り頼んで、結局滅びを招きつつあるあなたも、彼と同じではないか」と言っ ているのです。
しかし、ここでホセアはヤコブの誕生の話で終わらせません。さらに、ペヌ エルでの出来事(創世記32章)に話を進めます。「神の使いと争って勝ち」 という表現は、創世記32章の物語から来ています。しかし、そこで実際にヤ コブがしたことは「泣いて恵みを乞うた」ことだったとホセアは語っているの です。彼は神によって打ち砕かれ、ただ神にすがりつくのです。そして、神は 御使いを通して恵みを示し、ヤコブを祝福したのでした。
そして、創世記と順序は逆になりますが、ホセアはさらにベテルでの出来事 (創世記28・10以下)について語ります。そこにはこう書かれています。 「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、 日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった 石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先 端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちが それを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。『わた しは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。…』」(創世記 28・10‐13)。
ヤコブが見た階段は、地上から天に向かって伸びていたのではありません。 天から地に向かって伸びていたのです。これは一方的な神の恵みを示します。 絶望の中でヤコブが神を見出したのではありません。神が闇の中にいるヤコブ を見出したのです。そして、彼と語られた。それは一方的な神の恵みでありま した。
ここにヤコブに言及していることの第二の意味があります。あのヤコブにさ え向けられていた神の恵みを示すことです。悔い改め立ち帰る者に、いやその 前から、神はいかに恵み深いお方であるか、ということです。それゆえに、ホ セアは続けて、声を大にしてこう呼び掛けるのです。
神のもとに立ち帰れ。
愛と正義を保ち
常にあなたの神を待ち望め。 (12・7)
●イスラエルを導き上った神
続けて、8節から11節までをお読みしましょう。
商人は欺きの秤を手にし、搾取を愛する。
エフライムは言う。
「わたしは豊かになり、富を得た。
この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは
だれも気づくまい。」
わたしこそあなたの神、主。
エジプトの地からあなたを導き上った。
わたしは再びあなたを天幕に住まわせる
わたしがあなたと共にあった日々のように。
わたしは預言者たちに言葉を伝え
多くの幻を示し
預言者たちによってたとえを示した。 (12・8‐11)
9節にはエフライム(イスラエル)の人々の言葉が記されています。彼らは、 「わたしは豊かになり、富を得た」と言います。しかし、ホセアは、来るべき 神の裁きによって国は滅び、彼らが築き上げてきた富もまた失われようとして いることを知っておりました。ホセアはここで出エジプトの物語を取り上げま す。主はホセアを通してこう言われるのです。「わたしは再びあなたを天幕に 住まわせる」と。イスラエルが天幕に住んでいたのは、カナンに定住する前、 荒れ野を旅していた時です。神は、再び彼らをその荒れ野の生活に戻すと言わ れるのです。
しかし、それは神が彼らを見捨ててしまうということではありません。その 意味するところは、既にこの預言書の2章において語られておりました。夫を 裏切った不貞の妻に等しいイスラエルの民に対して、主はこう言われたのです。
「それゆえ、わたしは彼女をいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよ う。そのところで、わたしはぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門 として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき、エジ プトの地から上ってきた日のように」(2・16‐17)。今日お読みしまし た箇所でも、主は言われます。「わたしは再びあなたを天幕に住まわせる、わ たしがあなたと共にあった日々のように」。主が望んでおられるのは、再び荒 れ野に戻された彼らが、かつてのように主と共に生きるようになることなので す。アコル(苦悩)の谷が実は希望の門なのだということが明らかになるのは、 彼らが再び主と共に生きるようになる時なのです。そこに神の本来の意図があ るのです。神はあくまでも自らを指して「わたしこそあなたの神、主」と名乗 られます。主こそ、人々が立ち帰ることを求め続けて預言者たちに言葉を与え て遣わし、呼びかけてこられた神なのです。
さらに12節以下には次のように書かれています。
ギレアドには忌むべきものがある。
まことにそれらはむなしい。
ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている。
その祭壇は畑の畝に積まれた石塚にすぎない。
ヤコブはアラムの野に逃れ
イスラエルは妻を得るために仕え
また妻を得るために群れを守った。
主は一人の預言者によって
イスラエルをエジプトから導き上らせ
預言者によって彼らを守られた。
エフライムは主を激しく怒らせた。
主は流血の報いを彼に下し
その恥辱を彼に返される。 (12・12‐15)
ギレアドにもギルガルにも聖所がありました。主の名によって礼拝が捧げら れていました。しかし、現実に行われていたのは、カナンの豊穣神礼拝、バア ル礼拝に他なりませんでした。「ギルガルでは雄牛に犠牲を捧げている」と書 かれています。各地の聖所に置かれていた雄牛の像は、生殖力を象徴します。 雄牛の像を拝むことによって追い求められているのは、ただ多産と豊作と繁栄 でしかないことが分かります。そこでは神との人格的な関係、真実に神と共に 生きる生活は求められてはおりません。それゆえ、その祭壇は「畑の畝に積ま れた石塚にすぎない」と主は言われるのです。そこでヤコブが再び引き合いに 出されます。アラムに逃れたヤコブは妻を得るために叔父であるラバンに仕え ました(創世記29章)。ヤコブは叔父であるラバンを愛していたわけでも、 敬っていたわけでもありません。妻を得るために仕えたのです。そのような姿 に、繁栄を求めてバアルを礼拝するイスラエルの民の姿が重なるということな のでしょう。
しかし、これに対して、ホセアは神とその民との関係が、本来どのようなも のであったかを、出エジプトの出来事を用いて指し示します。主は奴隷の民で あったイスラエルを一人の預言者、すなわちモーセによって、エジプトから救 い出されました。そして、その荒れ野の旅路を、モーセを通して守られたので あります。まず先に神の愛と恵みがありました。それがイスラエルと神との関 係でありました。神が求めていることは、御自分の民がただ神の恵みに信頼し、 神の愛に応えて生き、神と共に歩むことだったのです。
このように、ホセアは古い物語を用いつつ、イスラエルの罪を明らかにし、 それにもかかわらず神はなおも彼らの神であり続けようとしておられるその恵 みの大きさを語ろうとしているのです。その中心は既に申しましたように7節 にあります。これが今日、古い物語を通して、私たちにも語りかけられている 言葉です。
「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」。