「満ち足りた者の高慢」
2001年2月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア13・1‐15
13章の預言は、紀元前721年に北イスラエル王国が滅亡する直前に語ら れたものと思われます。一つの国家が崩壊し、滅亡するということは、恐るべ き危機であります。その危機的状況にある人々に預言者は語ります。しかし、 彼は、単に危機を逃れる方法を語っているのではありません。安易な救いを約 束しません。国家的な危機であっても、小さな家庭のトラブルであっても、往 々にして人々は「どうしたらよいのか」とだけ問い、答えを得ようといたしま す。しかし、聖書は、安易に「どうしたらよいか」という答えを与えてくれま せん。その前に、「何が問題であるのか」を語るのです。そこで人間の罪を明 らかにするのです。それは私たちの耳に決して心地良い言葉ではありません。 しかし、私たちはまずその言葉をしっかりと聞き取らねばならないのです。病 が真に癒されるためには、腹が切り裂かれ、病巣が露わにされねばなりません。
それが神の方法です。
●欲望の投影である偶像礼拝
初めに1節から3節までをお読みしましょう。
エフライムが語れば恐れられ
イスラエルの中で重んじられていた。
しかし、バアルによって罪を犯したので
彼は死ぬ。
今も、彼らはその罪に加えて
偶像を鋳て造る
銀を注ぎこみ、技巧を尽くした像を。
それらはみな、職人たちの細工だ。
彼らは互いに言う。
「犠牲をささげる者たちよ、子牛に口づけせよ」と。
彼らは朝の霧
すぐに消えうせる露のようだ。
麦打ち場から舞い上がるもみ殻のように
煙出しから消えて行く煙のようになる。 (13・1‐3)
エフライムはイスラエルの諸部族の中で、特に北の十部族の中で、いつも優 位に立っておりました。モーセの後継者となったヨシュアはエフライム族の出 身でした王国が南北に分裂した時、北のイスラエル十部族の王となったのはエ フライム族のヤロブアムでした。しかし、そのようにイスラエルの中でどれほ ど重んじられてこようと、「彼は死ぬ」と言われるのです。「死ぬ」とは、神 に裁かれ、捨てられ、滅びることを意味します。なぜ神に裁かれるのでしょう か。バアルによって罪を犯したからです。子牛の像を造り、拝み、偶像に口づ けしたからです。
人間の罪は、しばしばその祈りと礼拝とに最も醜い姿を現します。聖なる御 方に向かうべき場が、人間のありとあらゆる欲望によって支配されるのです。 人は神の像を造ります。それは人間の欲望の投影です。神の像に向かう時、本 当は人は神に向かってなどいないのです。その人にとって重要なことは、自分 の願望が実現し、自分の欲求が満たされることでしかないからです。そこでは 神ならぬものが神とされております。そこには神と人との真実な関係は存在し ません。そのような礼拝によって、神と共に生きる生活、神の御前に生きる生 活が形作られるはずがありません。
神ならぬものが神とされているならば、それはやがて失われていくことにな ります。神ならぬものは消え去りるのです。それは朝の霧、すぐに消え失せる 露でしかありません。人間の欲によって神とされていたものが消え去る時、人 は神ならぬものを神としていた現実を思い知らされるのです。
●満ち足りた者の高慢
続いて4節から8節までをお読みしましょう。
わたしこそあなたの神、主。
エジプトの地からあなたを導き上った。
わたしのほかに、神を認めてはならない。
わたしのほかに、救いうる者はない。
荒れ野で、乾ききった地で
わたしはあなたを顧みた。
養われて、彼らは腹を満たし
満ち足りると、高慢になり
ついには、わたしを忘れた。
そこでわたしは獅子のように
豹のように道で彼らをねらう。
子を奪われた熊のように彼らを襲い
脇腹を引き裂き
その場で獅子のように彼らを食らう。
野獣が彼らをかみ裂く。 (13・4‐8)
主はエジプトの奴隷であったイスラエルの民を心に留め、救い出し、エジプ トの地から導き上られました。イスラエルの民が救われるに価する民であった からではありません。ただ神が彼らを愛し給うたのです。救いは一方的な神の 恵みと憐れみによるものでした。そして、神の方から「わたしこそあなたの神、 主」と名乗ってくださったのです。ただ神の恵みによって、イスラエルの民は 神のものとされました。そして、エジプトからイスラエルの民を導き出された 主なる神は、彼らを荒れ野においても養われます。こうして彼らは、乳と蜜の 流れる地、豊かなカナンの地へと導き入れられたのでした。彼らは神の賜る豊 かさに与りました。それは神との交わりの豊かさに基づくものでありました。 そうです、まず神との生きた関係がそこにあったのです。豊かさはその神から の賜物でありました。
しかし、豊かさの中に罠がありました。彼らにとって、豊作と繁栄は、神御 自身との生きた交わりよりも大切なものとなりました。神の言葉も、神への従 順も、神の恵みへの応答も、一切どうでもよいこととなってしまいました。 「養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、わた しを忘れた」と書かれている通りです。
それはいつの時代にも目にすることのできる人間の姿に他なりません。あら ゆる形における偶像礼拝の根元には、この人間の高慢があります。神を忘れた 人間の高慢があります。信仰生活の危機、神と共に生きる生活の危機は、苦難 と悲しみの荒れ野にあるのではありません。むしろ、満ち足りた生活の中に、 豊かさの中に、神ならぬものを手軽に神にしておけばなんとかなる生活の中に こそあるのです。
この人間の高慢にこそ、神の怒りは向けられます。神は怒りをもって、人間 の心の高ぶりを打ち砕かれます。エフライムは豊かでした。しかし、その豊か な国も滅ぼされます。ホセアは、かつて豊かであった都サマリアも陥落し、エ フライムが滅びることを予見しております。具体的にはアッシリアによって滅 ぼされるのです。その現実を、ホセアは野獣に獲物が裂かれる姿をもって描き ます。しかし、彼は国がアッシリアによって滅ぼされるとは語りません。その 背後に神の怒りがあることを見ています。高慢な民に猛獣のように攻め上って 来たのは、アッシリアではなくて神御自身なのです。
●頼りにならぬ王
そこで、主はさらにホセアを通して次のように語られます。
イスラエルよ、お前の破滅が来る。
わたしに背いたからだ。
お前の助けであるわたしに背いたからだ。
どこにいるのか、お前の王は
どこの町でも、お前を救うはずの者
お前を治める者らは。
「王や高官をわたしにください」と
お前は言ったではないか。
怒りをもって、わたしは王を与えた。
憤りをもって、これを奪う。
エフライムの咎はとどめておかれ
その罪は蓄えておかれる。
産みの苦しみが襲う。
彼は知恵のない子で
生まれるべき時なのに、胎から出て来ない。
陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。
死から彼らを解き放つだろうか。
死よ、お前の呪いはどこにあるのか。
陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。
憐れみはわたしの目から消え去る。 (13・9‐14)
ここで神は、人間の高ぶりがとったもう一つの具体的な形に言及します。そ れはイスラエルの王制です。そもそも、イスラエルはどうして王国という形を 採ったのでしょうか。その発端はサムエル記上8章5節に記されています。イ スラエルの長老たちが、宗教的かつ政治的指導者であったサムエルに要求した のです。「今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王 を立ててください」(サムエル上8・5)。20節にも同様の言葉が記されて います。「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、 王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」(同8・20)。
ここで問題は「ほかのすべての国々のように」「他のすべての国民と同じよ うに」という言葉です。これが民の求めたことでした。彼らは、エジプトから 彼らを救われた神のみがイスラエルを守り、治め、導くという伝統的なあり方 を放棄したのです。彼らは、エドムやモアブなど周りの国々が採っている人間 が統治する確かな制度を求めたのでした。要するに、危機的状況において「神 様に依り頼みなさい。信頼しなさい」などと言わなくても安心していられる、 目に見える確かさと救いを求めたということです。分かるような気がするでは ありませんか。「神を信じなさい。神に依り頼みなさい」などと言っていない で生活している方が、確かな安定した生活であるように見えるものなのです。 時は、ペリシテ人の支配が具体的に問題となっている時でした。そこで彼らは 「他の国々のようになりたい」と思ったのです。
神は民の要求に応え、王を与えられました。王と民が神に従順であるならば、 イスラエルはなお神の治める国として生きていくことができるでしょう。しか し、現実にはそうなりませんでした。王が神に背き、その結果として民が神に 背き、国は滅びへと向かっていきました。この預言が語られた時点で、最後の 王ホシェアはアッシリアの捕虜となっているのです。そこで主は問われます。 「どこにいるのか、お前の王は、どこの町でも、お前を救うはずのもの、お前 を治める者らは」(10節)。これこそ、人が傲慢にも神の支配を斥けて、人 であれ物であれ、目に見えるものによる確かさと安定を求めた結果でありまし た。人はそこで自らが頼りにしていたものが全く頼りにならず、そこで助けを 求めても、もはやどこにも助けがないことに気づくのです。
満ち足りて神を忘れたイスラエルを、産みの苦しみが襲います。産みの苦し みは、赤子が生み出されるならば意味を持つでしょう。しかし、イスラエルは 生まれるべき時なのに、胎から出てこない、知恵のない子と呼ばれます。子が 生まれないならば、そこにあるのは意味のない苦しみだけです。彼らが悔い改 めて神に立ち帰ることがないならば、ただ意味のない苦しみだけがあり、滅亡 という事実だけが残ることになるでしょう。そこで主は死と陰府に命じます。 「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか 」(14節)これは、「その呪いと滅びを今、イスラエルに向けよ。滅ぼせ」 ということに他なりません。その結果は15節に記されています。
エフライムは兄弟の中で最も栄えた。
しかし熱風が襲う。
主の風が荒れ野から吹きつける。
水の源は涸れ、泉は干上がり
すべての富、すべての宝は奪い去られる。 (13・5)
聖書は真の問題が何であるのかを語ります。人間の罪を明らかにするのです。
それは私たちの耳に決して心地良い言葉ではありません。しかし、私たちはそ の言葉をしっかりと聞き取らねばなりません。病巣が明らかにされるのは、真 の癒しがもたらされるためです。そこでこそ私たちは真の癒しをもたらす言葉 を聞くのです。
「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」(14・2)。