「幸せな人」
2001年2月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編第一編
私たちは度々人生の岐路に立たされます。行くべき道を選択せねばなりませ ん。一つの小さな選択が、しばしば人生を大きく左右することを私たちは知っ ています。若くして世を去ったアメリカ第二十代大統領ガーフィールドは、か つてハーバードの学生たちにその卒業に当たって次のように語ったそうです。 「諸君の今の立場は丁度ロッキー山の高い山頂である。その山に鳥がいると仮 定して、その鳥に雨滴が落ちる。鳥が羽ばたきする時、一方の水滴は左に、一 方は右に飛ぶ。そのときの水滴の距離はわずかに五六寸に過ぎないが、流れ流 れて一方は太平洋に、一方は大西洋に注ぐのである。かく初めわずかな相違が、 ついには何百里何千里の距離を生ずる。卒業生諸君よ、君らは今右を選ばんか、 左を選ばんかの岐路にたたれるのである。諸君がいかなる職業、結婚または書 物を選択するかは、その当初は未来の結果を予想しないが、将来において大き な差を生ずる事を覚えて、今この卒業に当たり厳密なる選択をなすべきである。」
実際、職業、結婚、書物の選択は確かに重大な選択であります。その選択は 人生を大きく左右します。しかし、今日お読みしました詩編は、さらに大きな 決定的な選択、人生の方向の選択を私たちにの前に問うているのです。私たち の前には二つの道があります。それらの道の名は、この詩編の最後に記されて います。一つは「神に従う人の道」であり、もう一つは「神に逆らう者の道」 であります。それらは、直訳すると「正しい人の道」と「悪い人の道」です。 しかし、聖書が「正しい人」「悪い人」という言葉を使う時、それは単に道徳 的な話をしているのではありません。あくまでも問題は神との関係です。です から、「神に従う人の道」「神に逆らう者の道」という訳は適切です。これは 言い換えるならば、一方は信仰の道であり、もう一方は神に背を向けたこの世 の道であります。
私たちが今耳にしているのは、その一つの道、信仰の道をひたすら歩んでき た人の歌であります。信仰の道は必ずしも平坦な道ではありません。信仰は必 ずしも悩みなき苦難なき安泰な生活を約束しません。それは詩編全体を読めば よく分かります。しかし、今、私たちの前には、その道を歩んできた人の証言 があります。その道を力一杯歩んできた人の人生をかけた証言があります。彼 は開口一番、こう叫ぶのです。「いかに幸いなことか!」と。この世に幸福を 論じる人はたくさんいます。しかし、「ああ、なんと幸いなことか!」と叫び 得るのは、真の幸いを自ら生きてきた人だけです。私たちは机上の空論を聞き たくはありません。本当に幸いを生きた人、その道を知っている人の言葉を聞 きたいと思います。そして、実際、私たちが今耳にしているのは、そのような 言葉なのです。
●幸いなるかな、主の教えを愛する人
それでは、初めに1節から2節までをお読みしましょう。
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。(1・1‐2)
「いかに幸いなことか」と語り得る人は、またいかなることが真に不幸なこ とであるかを知る人でもあります。それゆえに、この人は幸いな人を、まず三 つの否定をもって表現します。「歩まず」「とどまらず」「座らず」です。こ の人は、人間の不幸を世の災いの中に見ていません。苦難の中にも見ていませ ん。神に背を向けた人間の生活の中にそれを見ています。そのような生活の中 に「歩み」「とどまり」「座る」ところにこそ人の不幸を見ているのです。
不幸は神に逆らうこの世の言葉に耳を傾けるところから始まります。この世 は神に逆らう者の言葉に満ちています。その計らいへと招く言葉に満ちている のです。それはしばしば手軽な幸福を約束する言葉であります。願望の実現、 欲求の充足を約束する言葉として耳に届きます。それは耳に心地よく魅力的で す。そして、人はその言葉に耳を傾けているうちに、その計らいに従って、歩 み始めるのです。
まだ「歩んで」いるうちは引き返すことも可能かも知れません。しかし、罪 は蜘蛛の糸のように獲物を捕らえます。罪の糸が巻き付いて離れなくなるので す。一つの罪は別のもう一つの罪を生み出します。人は連鎖的に罪を犯し続け ることになります。そのようにして、罪ある者の道に「とどまる」ことになり ます。「とどまる」ようになると、もはや引き返す意志は失われていきます。 心が痛まなくなるのです。心が麻痺してくるのです。心が痛まなくなることは 本人にとっては有り難いことですが、実際には少しも幸福なことではありませ ん。それは状態が深刻になったことしか意味しないからです。
そして、ついにそこに「とどまる」だけでなく「座る」ようになります。自 分自身を正当化しはじめるのです。「傲慢な者」と訳されている言葉は「嘲る 者」「馬鹿にする者」を意味します。自分を正当化するためには、他者を嘲る しかありません。「自分はうまく立ち回っている賢い人間なのだ」を自らに言 い聞かせるためには、他者を軽蔑し、馬鹿にして生きるしかありません。こう して、人を嘲り、神を嘲る者と共に座るようになります。もはや人を人とも思 わず、神を神とも思わず、罪を罪とも思うことの出来ない傲慢な人となってい ることに、自分自身で気付くこともできません。これは、実に恐ろしいことで あり、また実に不幸なことであります。この人はその不幸を知っています。そ れゆえ、幸いな人を、そのように「歩まず」「とどまらず」「座らず」という 三つの否定をもって表現するのです。
しかし、これは消極的な側面に過ぎません。信仰の道を生きる幸いは、単に 何かを「しないこと」ではありません。むしろ、大切なのは積極的な意味にお いて「どう生きるのか」ということです。泥水を一生懸命にかき出すことより も、清い水をいっぱい流し込む方が賢明です。闇を追い出すために必要なこと は、そこに光を持ってくることです。この人は、幸いな人を、さらに「主の教 えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」と表現します。主の教えは傲慢な 心を打ち砕きます。主の教えは罪ある者の道から人を呼び戻します。主の教え は神に逆らう者の計らいを遠ざけます。大切なのは、主の教えを愛することで す。御言葉と共に生きることです。御言葉を昼も夜も口に置くことです。
●流れのほとりに植えられた木のように
そして、この詩人は、幸いな人と不幸な人を、さらにイメージ豊かな言葉を もって対比し、表現しています。
3節から5節までをご覧下さい。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
(1・3‐5)
主の教えを愛する人は、流れのほとりに植えられた木のように生きる人です。
彼は荒れ野に自生した木のようには生きません。彼はその流れから命を得、そ の命によって実を結びます。流れのほとりに生きているからこそ、葉も青々と 茂ります。
人の幸福はある意味で「どこにいるか」によって決まります。しかし、それ はいわゆるこの世的に恵まれた環境にいるかどうかではありません。何不自由 ない暮らしをしていながら不幸な人はいくらでもおります。大切なことは、流 れのほとりに植えられているかどうかです。人間の幸福は、真に命の流れのほ とりに生きているかどうかによって決まるのです。
神と共にあり、主の教えを愛して生き、命の流れのほとりに生きているなら ば、その木は必ず実を結びます。実とは命の現れなのですから。もちろん、実 がみのるには時間がかかります。「ときが巡り来れば」と書かれているとおり です。しかし、必ず実るのです。その事実は、さらに「その人のすることはす べて、繁栄をもたらす」と表現されています。ここに語られている「繁栄」は、 必ずしもこの世の誉れとは結びつかないかも知れません。しかし、神の命のほ とりにあるならば、その人を通して、神の御心が実現され、神の望まれるとこ ろが達成され、神の栄光がその人の人生を通して豊かに現されるのです。そこ には神の栄光のために造られた、人間の真の幸福があるのです。
一方、詩人は不幸な人についても語ります。それは、どんなに栄えているよ うに見えても、風に吹き飛ばされるもみ殻のような人です。農夫は脱穀した麦 を箕をもって空中に放り上げます。すると籾殻は風で吹き飛ばされ、中身があ り重みがある麦粒だけが箕の中に戻ってきます。風が吹く時にすべての真価が 問われます。その人生が永遠なるお方と結びつき、永遠なる価値とその重みを 持っているか、それとも中身のない籾殻でしかないのか、そのことが問われる のです。籾殻のようなものでしかないならば、その人の幸福も、その人自身の 存在も、風と共に吹き去られてしまいます。神の裁きの風は、人生のあらゆる 場面において、吹き付けます。人はそのことを経験します。たとえそうでなく ても、最終的には「死」という大風に吹き晒されることになります。その神の 正しい裁きの前におかれた時、吹き去られてしまうものと、そうでないものが 分かれるのです。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。(1・6)
人の前には二つの道があります。どの道を行くかは人生最大の選択です。悩 みがあり、困難がある険しい道を人は進んでいかなくてはならないかも知れま せん。しかし、その道を「主は知っていてくださる」ならば、主が伴い、顧み てくださる道であるならば、その道を歩む人は幸いです。
一方、どんなに平坦で安楽な道であっても、あるいは華やかに飾られた道で あっても、それが滅びに至る道であるならば、その道を行く人は不幸です。幸 福か不幸かは、人が自分で獲得した何かによってでなく、置かれている境遇に よってでなく、その人生の方向によって決定するのだということを、この詩編 の言葉は私たちに示しているのであります。願わくは、私たちもまた、この詩 人の歩んだ道を終わりまで歩み通し、私たちの人生をもってその幸いを証しす る者となれますように。