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「神の愛と癒し」

2001年2月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア14・1‐9

 14章1節には次のように書かれています。

サマリアは罰せられる。
その神に背いたからだ。
住民は剣に倒れ
幼子は打ち殺され
妊婦は引き裂かれる。(14・1)

 内容的に見て、これは前の章に続きます。そこには満ち足りて高慢になり、 神に背いたイスラエルに対する厳しい裁きが宣告されておりました。最終的に は都サマリアがアッシリアによって陥落せられ、国家は滅びることになるので す。

 聖書は人間の罪を明らかにし、その罪に対する神の厳しい裁きを語ります。 それは神にとって私たちが、この世界が、どうでもよい存在ではないことを意 味します。預言者ホセアは妻であるゴメルの不貞という深刻な事態を経験しま した。ホセアは怒り憤り、嘆き悲しみました。ゴメルはホセアにとって真剣に 受けとめられるべき存在だったからです。神はイスラエルに対して真剣に関わ られました。同じように真剣にこの世界に、私たちに関わられます。それゆえ、 私たちは自らの罪の深刻さと、神の裁きの厳しさを真剣に受けとめねばなりま せん。

●立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ

 しかし、私たちにはさらに聞くべき言葉があります。神の裁きの言葉は最後 の言葉ではないからです。

 2節から4節までをお読みしましょう。

イスラエルよ、立ち帰れ
あなたの神、主のもとへ。
あなたは咎につまずき、悪の中にいる。
誓いの言葉を携え
主に立ち帰って言え。
「すべての悪を取り去り
恵みをお与えください。
この唇をもって誓ったことを果たします。
アッシリアはわたしたちの救いではありません。
わたしたちはもはや軍馬に乗りません。
自分の手が造ったものを
再びわたしたちの神とは呼びません。
親を失った者は
あなたにこそ憐れみを見いだします。」(14・2‐4)

 ホセアは語ります。「イスラエルよ、立ち帰れ」と。彼らがどんなに惨めな 状態にあっても、立ち帰るべき一人の御方がいるのです。立ち帰ることができ るのは、主がまだ「あなたの神」だからです。神に背き続けてきました。神の 呼びかけにも答えませんでした。神の警告にも耳を傾けませんでした。今や蒔 いた種を刈り取りつつあります。まさに「あなたは咎につまずき、悪の中にい る」と言われても仕方のない者でありました。しかし、それでもなお「主はあ なたの神」なのです。

 妻の不貞のゆえに苦しむホセアに、「行け、夫に愛されていながら姦淫をす る女を愛せよ」と命じられたのは、他ならぬ主なる神でした。神が命じるよう に、ホセアは自ら犠牲を払って妻を受け入れました。あくまでもゴメルの夫で あり続けることを主はホセアに要求したのです。ですから、主なる神もまた、 不貞の妻に等しいイスラエルの夫であり続けようとされる御方だということを、 ホセアは知っているのです。それゆえ、ホセアは「あなたの神に立ち帰れ」と 叫ぶのです。

 では、どのようにして、主に立ち帰ったらよいのでしょう。かつて預言者は こう語りました。「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが、見いだすことは できない」(5・6)。彼らは多くの羊や牛を捧げることにおいては熱心でし た。いつの時代でも、幸福を求め、自分の願いの実現を求めて、人はいくらで も熱心に儀式を行い、多くの犠牲を捧げるものです。しかし、神が求めておら れるのは犠牲の羊や牛ではありません。人の真実です。真実から出る言葉です。 どのような言葉でしょうか。3節以下にその言葉が記されております。

 まず語られている言葉は「すべての悪を取り去り、恵みをお与えください」 という祈りです。「すべての悪を取り去ってください」という祈りは、自分の 内に悪があることを認めなくてはできません。往々にして、私たちが自分自身 に悪を認めるのは一番最後です。災いにおいて、危機において、自らの経験し た不幸について、いくらでも他者を悪者にできるものです。最終的には神をさ え悪者にするのです。しかし、主は立ち帰る者に、まず自らの悪を認めること を求められます。へりくだって神の恵みを求める罪人として御前に近づくこと を求められるのです。

 そして、ただ神のみに依り頼んで生きていくことを、神の前に申し述べねば なりません。彼らはかつてアッシリアに頼りました。アッシリアこそ救いだと 思いました。しかし、アッシリアは救いとなるどころか、むしろ彼らを滅ぼす ものとなりました。また、彼らはエジプトにも頼りました。エジプトから多く の軍馬を得ようとしました。この世の力にこそ救いがあると思いました。しか し、その軍馬も、またエジプトも、最終的には何の頼りにもなりませんでした。 また、彼らは多くの偶像を作りました。神の像を据えることで安心していまし た。多くの偶像に囲まれていれば、あたかも神が身近にいて願い求めを聞き入 れてくれるものと思っていました。しかし、偶像はただ神との真実な関係を失 わせるだけだったのです。神との真実な関係を失った時、偶像にいくら「わた したちの神よ」と言っても、何の意味もありません。

 国家が滅亡へと向かうプロセスは、神ならぬものがあくまでも神ではないこ とを悟らされるプロセスでありました。人の経験する多くの苦難は、しばしば そのような過程であると言えるでしょう。神に立ち帰るということは、そこで 「アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に は乗りません。自分の手が造ったものを再びわたしたちの神とは呼びません」 と神に向かって言い表すことであります。そして、孤児のような自分を認めて、 ただ神の憐れみを求めることなのです。

●わたしは背く彼らをいやす

 人がそのように神に立ち帰る時、主は応え給います。5節から9節までをお 読みしましょう。

わたしは背く彼らをいやし
喜んで彼らを愛する。
まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。
露のようにわたしはイスラエルに臨み
彼はゆりのように花咲き
レバノンの杉のように根を張る。
その若枝は広がり
オリーブのように美しく
レバノンの杉のように香る。
その陰に宿る人々は再び
麦のように育ち
ぶどうのように花咲く。
彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。
ああエフライム
なおも、わたしを偶像と比べるのか。
彼の求めにこたえ
彼を見守るのはわたしではないか。
わたしは命に満ちた糸杉。
あなたは、わたしによって実を結ぶ。(14・5‐9)

 主は「喜んで彼らを愛する」と言われます。立ち帰る者たちに対して、自ら を彼らの癒し主として語られます。罪の中で人が滅びることなく、回復された 者として再び命に満たされて生きる道は、神の赦しと癒しにしかありません。

 主が立ち帰る者をどのように回復してくださるかは、6節以下に記されてい ます。主は「露のようにわたしはイスラエルに臨む」と言われます。乾燥した 地に生きる人々は、露がいかに草木を生かすものであるかを知っています。そ のように、命を失った枯れ草のようなイスラエルに、神は命を与える露のよう に臨んでくださるのです。その時、とうてい花が咲き得ないような枯れ果てた 茎に、再び蕾がつき花が咲くのです。死んでしまったような木から、再び大地 に向かって根が伸び始めるのです。赤茶けて葉もすべて落ちてしまったような 木々に、再び若枝が生じ、伸びて広がっていくのです。

 神はまた、常に青々とした糸杉、命に満ち満ちて立つ糸杉をもって自らをた とえます。実は命の現れです。命の満ちたところにつながってこそ、真の実り はあるのです。罪の中に死んでいた者が、再び生きて実を結ぶためには、命に つながっていなくてはなりません。「あなたは、わたしによって実を結ぶ」と 主なる神は言われます。このように、真の希望は神のもとにこそあります。唯 一の希望は人が神に立ち帰るところにこそあるのです。それゆえ、ホセアは言 うのです。「立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」と。これこそ、神の愛から 出た神の叫びに他なりません。

知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。
わきまえある者はそれを悟れ。
主の道は正しい。
神に従う者はその道に歩み
神に背く者はその道につまずく。(14・10)

 ホセア書は、このような言葉で終わっています。これはホセアの預言の言葉 が後に読まれるようになった時に書き加えられた言葉であろうと思います。北 イスラエルの崩壊という現実の一つの時代に生きた預言者の言葉が、後の様々 な時代に対して語りかける神の言葉として、繰り返し読まれ、そして聞かれた のでした。神はそのように、歴史を通じて、背く民の罪を明らかにし、なおか つ彼らをみもとに招き続けられたのです。

 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、 正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ル カ5・31‐32)とは、ホセアの時代から約七百年後、ナザレのイエスの語 られた言葉です。主イエスは、そのように罪人が神に立ち帰り、神との交わり のうちに回復せられるために、自ら罪の贖いとなられたのでした。この方の姿 こそ、預言者を通して語られた神の言葉が肉となり、一人の人格としてこの地 上に来られた姿に他なりませんでした。

 「そして、(キリストは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪 を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きる ようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされ ました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であ り、監督者である方のところへ戻ってきたのです」(1ペトロ2・24‐25)。 アーメン。

 
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