「栄光から栄光へと」
2001年2月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 2コリント3・12‐4・2
●主と同じ姿に
「自分が変われば、天地も変わる。自分が変わらなければ、なんにも変わら ない。自分が変わらずに、周囲のすべてを変えようといくら願っても、それは 不可能だ。」聖書の教えではありません。あるところで目にした言葉です。こ のような言葉は人間関係で悩んでいる人を捕らえます。それまではやっかいな 相手を変えようと一生懸命でした。しかし、思うようには行きません。相手が 変わらないことに苛立ちます。関係はますます悪化します。そこで上記のよう な言葉に出会います。「まずあなたが変わらなければなりませんよ。」そう言 われてハッとします。その通りだと納得します。それから自分を変えるための 努力が始まります。すると、不思議なことに相手の態度も変わります。関係も 変わります。めでたし、めでたし。
しかし、必ずしもこのようなめでたい話ばかりでもありません。自分を変え ようと頑張ります。少しは変わったつもりになります。しかし、相手はなかな か変わってくれません。腹立たしいことです。気が付くと、腹を立てている以 前の自分に戻っています。自己嫌悪に陥ります。性格がねじ曲がります。結局、 人間関係はますます悪化します。
自分が変わること。確かに大事なことです。人生の喜びも悲しみも、それに 関わっているのですから。しかし、そのことは百も承知の上であえて問いたい と思います。私たちが変わらねばならないということは、ただ単に周囲の状況 や相手を変えるためとか、人間関係を変えるためという程度の話なのでしょう か。私たちの人生において決定的な意味を持つのは、そのような目先のことで はなくて、私たちが最終的にどこに向かって変わっていくかという、その方向 そのものではないでしょうか。
「相手を変えるためにはまず自分が変わらねばならない」などと、聖書は教 えません。そんなこととは無関係に、私たちは変わらねばならないのです。そ して、私たちが変わって行かねばならない方向を聖書は指し示します。例えば、 ローマの信徒への手紙8章29節には次のように記されています。「神は前も って知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定め られました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ロ ーマ8・29)。本日与えられている聖書箇所の中にも次のように書かれてお りました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映 し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。こ れは主の霊の働きによることです」(2コリント3・18)。「御子の姿に似 たものに」と書かれ、「主と同じ姿に」と書かれています。これが聖書の指し 示す方向です。それは、キリストの御姿です。
しかし、主と同じ姿に変えられるとは、具体的にはどのように変えられるこ となのでしょうか。それは言葉としては理解できますが、意味するところは明 白とは言ません。ともすると、自分勝手なキリストのイメージを持ち込んでし まうことにもなりかねません。私たちは、あくまでも聖書の語るところに即し て考えなくてはなりません。
この章はパウロが自らの使徒職について語っている箇所であります。彼は使 徒としての職務を与えられたことについて、「神はわたしたちに、新しい契約 に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました」(3・ 6)と表現しています。そして、その新しい契約に仕える務めについて、古い 契約に仕えたモーセの職務と対比させながら語っております。先ほどお読みし ました18節は、そのような流れの中にあります。ですから、「主と同じ姿に 造りかえられる」ということに関しても、これを「新しい契約」との関連で理 解しなくてはならないのです。
●心に記される神の律法
では、その「新しい契約」とは何でしょう。この言葉はエレミヤ書に出てき ます。少々長くなりますが、31章31節から34節までをお読みします。 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と 主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプト の地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であった にもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべ き日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。 すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わた しは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、 兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい 者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪 を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31・31‐34)。
かつて神はイスラエルの民をエジプトから導き出し、十戒を与えて彼らと契 約を結びました。彼らは神の民となり、神は彼らの神となられました。その契 約に仕えたのがモーセです。彼らはモーセを通して与えられた律法に従い、こ の世界に神の支配と神の救いの計画を指し示す民となるはずでした。しかし、 彼らは神の戒めに背きました。神との契約を破ったのです。旧約聖書はその不 従順な民の罪の歴史を誤魔化すことなく記しています。神もまた彼らとの契約 を破棄されました。
しかし、神は御自分の民を、そしてこの世界を、見捨ててしまわれたのでは ありません。神の救いの計画はイスラエルの不従順にもかかわらず進められて ゆきます。神はエレミヤに「新しい契約」の預言を与えられました。神は再び 人と契約を結ばれます。罪の赦しに基づいて、新しい契約を結ばれるのです。 そこで主は言われます。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそ れを記す」と。古い契約において、律法は石の板に刻まれました。しかし、イ スラエルの民はその律法を守れませんでした。それゆえ、新しい契約において、 神はその律法を心に記すと言われるのです。
ここで聖餐式の度に読まれる御言葉を思い起こしてください。キリストは、 最後の晩餐において、杯を取って感謝の祈りをささげ、こう言われたのです。 「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わ たしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11・25)。エレミ ヤの預言がここに実現しています。キリストが十字架にかかられて流された血 によって、新しい契約が立てられました。今日もなお同じ主の言葉が語られ、 聖餐が行われております。キリスト者となって聖餐に与るということは、この 新しい契約の中に生きていくことを意味します。教会は、キリストの血によっ て立てられた新しい契約による神の民です。ですから、使徒パウロは自分自身 を新しい契約に仕える者として語っているのです。
新しい契約において、律法は石の板ではなく、心に記されます。心に記され るべき律法が何であるかは、既に十戒において示されております。主イエスは この律法を二つの最も重要な戒めとして要約されました。「第一の掟は、これ である。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である 主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさ い。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12・29‐31)。律法 が心に書き記されるということは、この戒めが私たちの内に実現することに他 なりません。すなわち、私たちがまことに神を愛し、人を愛する者となること です。
新しい契約に生きる者にとって、人生の意味は単純明快です。人生の意味は、 神を愛し、人を愛することにあります。家庭生活、社会生活における人生の課 題のすべてはこの原則の応用問題です。私たちは変わらねばなりません。その 方向は明瞭に示されています。神を愛し、人を愛する者となることです。その 完成はどのような姿となるでしょう。それが「主と同じ姿」なのです。キリス トこそ、まことに父なる神を愛し、そして人を愛された方だからです。その愛 の真実は十字架に向かう歩みにおいて現され、その栄光は復活において現され ました。私たちは、その姿へと向かっているのです。やっかいな相手を変える ためにまず自分を変えねばならない、などというみみっちい話ではありません。
これは人生の大目標であり、教会の歴史の大目標なのです。
●主の霊によって
さて、周りを変えるために自分を変えるという程度の話ならば、少々努力す ればなんとかなるかも知れません。しかし、まことに神を愛し、人を愛する者 となり、主と同じ姿となるということであるならば、人間の努力目標などとい うことではなくなります。ですから、パウロはここで、主と同じ姿に「造りか えられていきます」と語ります。人間はあくまでも受け身です。人間は、自分 の心に律法を書き記すことはできません。書き記していただくしかないのです。
それゆえに、「これは主の霊の働きによることです」と言われているのです。
主と同じ姿に変えられることが、「主の霊」によるならば、そこで最も重要 なのは主イエスとどのような関係にあるかということです。「主の方に向き直 れば、覆いは取り去られます」と書かれています。パウロがこのように書くの は、同胞であるユダヤ人のことを考えているからでしょう。相変わらず、モー セの律法の書が読まれます。彼らは律法を遵守するために真剣に努力します。 しかし、心には覆いがかかったままなのです。
覆いは取り去られねばなりません。そのためには、心に律法を書き記すのは 主の霊の働きであることを認めて、主の方に向き直って生きていくことなので す。主に向き直るということは、観念的なことではありません。単に心情的な ことでもありません。主に向いて生きていく生活は、具体的な形を取ります。 それは、聖餐において主の体と血とにあずかりながら生きる生活として形作ら れるのです。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」 という言葉を聞き、聖餐卓を囲んで主を礼拝して生きる生活です。そのように 具体的に主に向く生活を重んじることをしないで、「私は少しも変わらない」 と嘆いても、それは無意味な戯言でしかありません。
一方、私たちが新しい契約の民として主に向いて生きていくならば、「私は 少しも変わらない」と思えたとしても、少しも心配する必要はありません。主 の霊が私たちを主と同じ姿に造りかえてゆくのです。それは私たちの努力を越 えた、主の救いの御業なのです。私たちが新しい契約の中に生きるなら、その 御業がやがて完成する時が来るでしょう。パウロはこう言いました。「あなた がたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を 成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1・6)。私た ちもまた主の約束に信頼し、パウロのこの言葉に喜びと感謝をもって「アーメ ン」と唱和したいと思います。