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「悪魔の誘惑」

2001年3月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ4・1‐13

 本日与えられています聖書箇所は、主イエスが洗礼を受けた後、ガリラヤに おいて公の宣教活動に入る前に、荒れ野において悪魔から誘惑を受けたことを 私たちに伝えております。私たちは今日、この箇所を通して、主が受けられた 誘惑について思い巡らし、私たちが主の勝利にあずかって打ち勝たねばならな い誘惑とは何であるかを共に考えたいと思います。

●人はパンだけで生きるものではない

 初めに1節から4節までをお読みしましょう。「さて、イエスは聖霊に満ち て、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き 回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期 間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子な ら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』イエスは、『「人はパンだ けで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった」(4・1‐4)。

 私は、今まで数多くの誘惑を経験してきました。しかし、石にパンになるよ うに命じることへの誘惑は経験したことがありません。私が命じたとしても、 石はパンにならないことが分かっているからです。出来ない者にとって、これ は誘惑とはなりません。では、仮に私にその力があったとしましょう。私には 父なる神より権威が授けられていて、その権威を行使するならば、石をパンに 変えることができます。しかも、主と同じように、非常に空腹だとします。す ると悪魔が現れて誘惑します。「この石にパンになるように命じたらどうだ。 」その場面を想像できますか。なんとも馬鹿馬鹿しい場面だと思いませんか。 こんなくだらないことを要求するために、悪魔はわざわざ現れたのです!悪魔 なら悪魔らしく、もっと悪いことを要求すべきではないでしょうか。ここで 「石」は単数です。ならば出てくるパンも一つです。空腹の時に、その欠乏を 一つのパンによって満たそうとすることが、そんなに悪いことなのでしょうか。

空腹ならば強盗でもして金を奪え、と言っているのではありません。パンをた くさん造り出して大儲けしたらどうだ、と言っているのでもないのです。

 しかし、皆さん、これが悪魔の誘惑なのだと聖書は伝えているのです。大き な悪への誘いだけが悪魔の誘惑なのではありません。「どこが悪いのか」と思 えるような小さな行為への誘いにこそ、悪魔の罠がしかけられているのです。 欠乏が満たされるのは良いことだと誰もが考えます。しかし、良いことに見え るところにこそ、悪魔の罠があるのです。

 この場合、何が問題なのでしょう。主イエスの答えを聞いてみましょう。主 は申命記の言葉を引用して、「『人はパンだけで生きるものではない』と書い てある」と答えられました。ということは、悪魔のこの小さな誘いの中に、 「人はパンだけで生きられる」と思わせる誘惑があるということでしょう。実 は、主の引用された申命記の言葉は、次のように続くのです。「人は主の口か ら出るすべての言葉によって生きる」(申命記8・3)。「パンだけで生きら れる」と思う人は、もはや「主の口から出るすべての言葉によって生きる」人 ではなくなります。自分の具体的な欠乏が満たされた時に、もはや神の言葉を 真剣に求めなくなる。隣人の具体的な欠乏を満たせた時に、もはや「あなたは 神の言葉によって生きるのだ」と言えなくなる。あり得ることではありません か。

 私が大阪のぞみ教会に赴任した時、この教会は20人に満たない人々――主 としてご高齢のご婦人たち――が、お葬式場を借りて礼拝している小さな群れ でした。互いの具体的な欠乏を満たす力もなく、教会に来られた方々の必要を 満たし得る力もありませんでした。しかし、そこには神の言葉によって生きよ うとしている人々の真剣な眼差しと気迫とがありました。「人はパンだけで生 きるものではない」と本気で信じる人々が集まっていたのです。

 それから十年以上経ちました。会堂が建ちました。人数も以前より多くなり、 会計規模も大きくなりました。先にも言いましたように、石をパンにできない ならば、欠乏が満たされ得ないなら、誘惑もまた存在しないのです。誘惑はこ れからです。私たちが様々な求めを教会において満たされるようになる。教会 が具体的に人々の欠乏を満たし得るようになる。それは悪いことではありませ ん。しかし、そこに誘惑もまたあることを忘れてはならないのです。私たちは その時になお、「人はパンだけで生きるものはない」と言い得るでしょうか。 そのように本気で信じて神の言葉を求める群れであり続けることができるでし ょうか。

●あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ

 次に5節から8節までをお読みしましょう。「更に、悪魔はイエスを高く引 き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。 『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、 これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、 みんなあなたのものになる。』イエスはお答えになった。『「あなたの神であ る主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある』」(4・5‐8)。

 これが第二の誘惑です。少なくとも「石をパンにせよ」という第一の誘惑よ りは分かり易いように見えますでしょう。というのも、人間の歴史において、 まさに悪魔に心を売り渡すようなことをして権力と繁栄を手に入れようとした 人は星の数ほどいるからです。

 しかし、よく考えますと、これはそれほど単純な誘惑ではないことに気づき ます。そもそも、キリストが自分の個人的な欲望を満たすために国々の権力や 繁栄を求めることはないでしょう。人が私利私欲のために権力と繁栄を求める とするならば、確かにそこに悪魔の誘惑があるということは分かり易いのです。

しかし、これが良きことの実現のためであったらどうでしょう。神の国の実現 のために、権力と繁栄を得るということであったらどうでしょう。

 具体的には教会を考えてみたら良いと思います。もし仮に、教会が国々の権 力と繁栄を得るという事態が起こった時に、果たしてそこに悪魔の誘惑がある と教会は考えることができるでしょうか。もし地元の有力者が回心して洗礼を 受けキリスト者となり教会に加わったとしたらどうでしょう。有力な政治家が、 あるいは各分野において指導的にある人々が、影響力の大きい著名人が次々と 洗礼を受けキリスト者となり教会に加わってきたらどうでしょう。それは喜ば しいことであるには違いありません。それは神に作られた一人一人の人間が神 に立ち帰ったことにおける喜びです。しかし、その時、教会はそのことを喜ぶ のではなくて、教会に影響力や支配力が加えられたことを喜ぶのではないでし ょうか。あるいは高額献金者が加わって教会が財政的に豊かになったこと、繁 栄を得たことを喜ぶことにならないでしょうか。そこに悪魔の誘惑があること を果たして考えることができるでしょうか。

 そのようなことが起こった時に、誰も自分が悪魔を礼拝しているなどとは考 えないのです。しかし、いつの間にか、「あなたの神である主を拝み、ただ主 に仕えよ」という神の言葉から引き離されてしまいます。ただ神のみを神とし て礼拝するという、信仰の生命に関わる一事が、いつの間にか疎かにされるよ うになるのです。それよりも力と繁栄を与えてくれる他のものの方が重要に思 えてくるのです。その時、人は知らず知らずのうちに、悪魔に膝をかがめてい るのです。それは信仰者個人としても、教会としても起こり得ることでしょう。

●あなたの神である主を試してはならない

 最後に9節から13節までをお読みしましょう。「そこで、悪魔はイエスを エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、 ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあ なたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」また、「あな たの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。 」』イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている 』とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離 れた」(4・9‐13)。

 私は高いところが苦手です。基本的に痛いことは嫌いです。勇敢でもありま せん。ですから、勇敢な人を羨ましく思います。命がけで行動した人の話を聞 くと単純に感動します。そのような人を神が奇跡的に助けられたという話なら なおさらです。しかし、それは私だけではないかもしれません。神に信頼して 大きな決断をなした人を、神が奇跡的に助けられたという話を、信仰の証しと して耳にすることがあります。人はそのような話に喜んで耳を傾けます。感動 します。そして、こう思うことでしょう。「そうだ。わたしもあのようであり たい」と。

 しかし、注意してください。聖書はそのようなところにも悪魔の誘惑がある と語るのです。悪魔は主イエスに、神の子として父なる神に信頼した命がけの 行動を求めたのです。悪魔は要求の正当性を聖書を引用して裏付けさえいたし ます。もし、主イエスが飛び降りるなら、その行為は父なる神への揺るぎ無い 信頼と、その信頼に応えて行動し給う父なる神のリアリティを証しすることに ならないでしょうか。それは賞賛すべきことではないでしょうか。しかし、主 はこう言って悪魔の要求を斥けたのでした。「『あなたの神である主を試して はならない』と言われている」。つまり、それは神を試みる行為への誘いだっ たのです。

 一見すると命がけの信仰の決断と行為が、実は神を試みることでしかない。 そのようなことが起こります。何が欠けるとそうなるのでしょう。それは神へ の従順であります。神への信頼は、神への従順によって表されねばなりません。

しかし、神に従順であり得るのは、神の御心を求める人だけです。神の御心に 関心のない人は、神が求めもしないのに神殿の屋根から飛び降りるのです。そ れは信仰の行為ではなく、神を試みる行為でしかありません。私たちは、特に 他者の信仰的な行為に感動して触発された場合は注意せねばなりません。神が 私たちに同じことを求めているとは限らないからです。それは悪魔の誘惑かも しれないからです。

 主イエスは、悪魔の求め従って神殿の屋根から飛び降りるようなことはしま せんでした。主にとって重要なのは、父なる神に従うことだったからです。主 イエスが父への信頼を示されたのは、神殿の屋根の上ではなく、十字架の上で ありました。主は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23・4 6)と言って、息を引き取られたのです。主は最後まで悪魔の誘惑に屈しませ んでした。

 私たちも、主の助けを求めつつ、悪魔の誘惑に打ち勝たねばなりません。そ のためには、何が悪魔の誘惑であるのかをしっかりと見極めねばならないので す。

 
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