「栄光に輝くイエス」
2001年3月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ9・28‐36
ペトロ、ヨハネ、そしてヤコブは、主イエスと共に山に登りました。山の上 に日常の生活はありません。そこには主イエスの奇跡を求めて集まってくる群 衆もおりません。また、彼らに常々敵対し論争をしかけてくるファリサイ派の 人々や律法学者たちもおりません。煩わしい日常から完全に離れることができ る一時です。主イエスのみと共に過ごせる時間は、彼らにとって大きな安らぎ であったに違いありません。
しかも、その夕べは特別でした。不思議な夜でした。彼らが眠い目をこすり つつ見たものは、まさにこの世のものとは思えない光景でありました。そこに はいつもの様子とは全く違う、栄光に輝くイエスがおられたのです。その衣は 真っ白に輝いておりました。見ると、そこには栄光に包まれた二人の人が主イ エスと共におりました。なんと、それはモーセとエリヤでありました。この旧 約聖書を代表する二人の人物が、主イエスと語り合っていたのです。
ペトロは思わず叫びました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばら しいことです!」それはそうでしょう。今まで体験したことのないような、ま さに神の栄光に触れるような、素晴らしい光景が目の前に広がっているのです から。しかし、その時は長く続きませんでした。モーセとエリヤがイエスから 離れて立ち去ろうとしていたのです。ペトロはさらに言いました。「仮小屋を 三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエ リヤのためです」。
このようなことをペトロが口走ったことについて、聖書は、「ペトロは、自 分でも何を言っているのか、分からなかったのである」と説明しています。確 かに、山の上でにわかに仮小屋を三つ作るという提案は、理性的な判断による とは思えません。まさに神的栄光に触れた恍惚の中で、夢うつつの状態におい て語られた言葉であるに違いありません。しかし、それはともあれ、ペトロの 気持ちは理解できます。彼は少しでも長くそのままでいたかったのでしょう。 ずっとそのまま、主イエスとモーセとエリヤと一緒に、山の上に留まりたかっ たに違いありません。ペトロにとって、もはや山の下で待っている他の弟子た ちや群衆のこと、あるいはこれからも続けねばならない宣教の旅のことなど、 どうでもよかったのです。この状況から離れて日常の生活などに戻りたくはな かったに違いありません。
しかし、ペトロの提案は受け入れられませんでした。彼が語っていると、雲 が現れて彼らを覆います。すると、雲の中から声がありました。「これはわた しの子、選ばれた者。これに聞け」。モーセとエリヤはもはやそこにはいませ んでした。ただ一人主イエスだけが彼らと共にいたのです。私たちは、しばし この御方に思いを向け、山の上に留まることを求めたペトロに、また弟子たち に、神が「これに聞け」と語られたことの意味を考えたいと思います。
●エルサレムに向かうために
主イエスが山に登られたのは祈るためでありました。この福音書には、主イ エスがしばしば山の上に、あるいは寂しい所に退いて、祈っておられる様子を 伝えております。主は、日常の働きから退かれて、父なる神との親しい交わり を持たれました。しかし、主イエスにとって、山の上での父なる神との交わり は、山の下における様々な苦悩や戦いを忘れさせてくれる逃れの場ではありま せんでした。主は御自分が十字架へと続く苦難の道を歩んでおられることを常 に心に留めておりました。祈りの山は、その道から外れたところにあるのでは なく、確かにその途上にあったのです。主がモーセとエリヤと語り合っていた のは、「エルサレムにおいて遂げられる最期について」でありました。主は、 エルサレムに向かうことから逃れるためではなく、エルサレムに向かうために こそ、この一夜を山の上で過ごされたのです。
そのような主の祈りの姿は、その生涯の終わりに至るまで貫かれておりまし た。主イエスが捕らえられる直前にも、主は弟子たちと山の上におられました。
主は弟子たちと共にオリーブ山に行き、そこにある園において祈られたのです。
主は、父なる神に、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてくださ い」と祈られました。しかし、主イエスがそこに留まったのは、最終的に、 「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(22・4 2)と祈るためでありました。この祈りの山もまた、十字架への道の途上にあ ったのです。
同じことは、主イエスと聖書との関係においても言えるでしょう。モーセは 旧約の律法を代表します。エリヤは旧約の預言者を代表します。この二人で、 旧約聖書全体を表しております。主イエスは、山の上における一時、天上の世 界の事柄について、モーセやエリヤと対話を楽しんでいたのではありません。 主が律法と預言者とから聞いた言葉は、十字架へと向かう地上での具体的な歩 みに関わることでありました。主イエスにとって、律法の言葉と預言者の言葉 は、主をエルサレムへと向かわせる言葉に他なりませんでした。
●主イエスに従うために
このように、ペトロたちが山の上で目にした栄光に輝くイエスは山の上に留 まるべき御方ではなく、山から降りられ、この地上を再びエルサレムに向かっ て、十字架へと向かって歩みだそうとしている御方でありました。そのイエス を指して、父なる神は「これはわたしの子、選ばれた者」と言われたのです。 主イエスが洗礼を受けられた時に、父なる神が語られた言葉が、再び弟子たち に対しても語られます。そして、神はさらに弟子たちに対して「これに聞け」 と言われたのです。「これに聞け」とは「これに聞き従え」という意味に他な りません。弟子たちは、山上において栄光に輝く主イエスと共にあることを喜 んでいるだけであってはならないのです。そこに留まろうとしてはならないの です。大切なのは、その御方に従うことです。十字架に向かわれる方に従うこ となのです。
そうしますと、28節において「この話をしてから…」という言葉で前の段 落と結びつけられている意味が見えてまいります。その直前において、主は弟 子たちにこう語っておられるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨 て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9・23)。主 に従うのは「日々」のことです。それは非日常的な状況においてではなく、日 常の生活においてのことなのです。栄光に輝く主イエスにまみえたその時は、 「日々、自分の十字架を背負って」従うためにこそあるのです。「これに聞け」 という言葉と共に、弟子たちは山の下の世界へと向かわなくてはなりません。
このように読んでまいりますと、ここに書かれていることは、ある時にペト ロたちが体験した特殊な出来事の単なる報告ではないことに気づかされます。 ここに、代々の教会が守ってきた、そして私たちもまた守っている主の日の礼 拝が重なって見えてくるのです。
ルカは、この出来事が起こった日を、わざわざ「八日ほど経ったとき」と記 しております。(マルコとマタイは「六日の後」と記しています。)それは古 代の教会が、主の日を「第八日」と呼んだことと関係しています。創世記はこ の世界が七日で創造されたと語っています。「第八日」という呼び名には、そ れが古い創造による世界に属する日ではなく、七日で創造されたとされるこの 世界を越えた世界、古い創造による世界ではなく、新しい創造による来るべき 世に属する日なのだ、という主張があるのです。その日に、復活された主イエ スが、来るべき世の姿で現れたゆえに、教会はそれを「第一日」ではなく、 「第八日」と呼び、主の復活を覚えて礼拝をするようになりました。ルカが、 わざわざ八日という言葉を入れたのも、山上の変貌の物語と「主の復活」ある いは「主の日」との関連を強調するためであったと考えられるのです。
私たちは、日常の生活を後にして、この場所に集います。ここで聖書が解き 明かされます。礼拝の場において、聖書の言葉を通して、エルサレムにおいて 起こったあの出来事の意味が繰り返し明らかにされます。モーセと預言者とが、 あのエルサレムにおける出来事を証しするのです。そこで、十字架にかけられ たキリストが、私たちの前に明らかにされます。しかし、その十字架の先には 復活があります。私たちはまた、主の日の礼拝において、復活の栄光に輝くキ リストにもまみえるのです。
私たちは、古い創造の世界には属さない、来るべき世に属する「第八日」を 共に過ごします。しかし、私たちは留まるためにここにいるのではありません。
私たちが信仰者であるのは、日常から離れて、非日常的な世界に逃げ込むため ではありません。終わりの日に至るまで、教会が留まるべきところはあくまで もこの世界です。主の日において、私たちは雲の隙間から差し込む光のように、 来るべき世の栄光をわずかばかり垣間見させていただくに過ぎません。丁度、 ペトロが山上で経験したようにです。大切なのは、ペトロがその後に聞いた言 葉です。私たちもまた、父なる神が主イエスを指し示し、「これはわたしの子、 選ばれた者。これに聞け」という言葉を聞くのです。その御方は、わたしにつ いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従い なさい」と言われる方なのです。その「日々」の生活において、「わたしとわ たしの言葉を恥じる者」(9・26)と主が言われるような者となってはなり ません。私たちがここにいるのは、あくまでもこの世界のただ中において、主 に従う者として生きていくためなのです。