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「神の忍耐」

2001年3月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ13・1‐9

●他人事にしてはならない

 初めに1節から5節までをお読みしましょう。「ちょうどそのとき、何人か の人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエス に告げた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難 に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。

決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じ ように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレム に住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそう ではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅び る』」(13・1‐5)。

 ある人たちが、最近起こった悲惨な出来事を主イエスに告げました。ユダヤ の総督ポンティオ・ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたという のです。もっとも、これは文字通りに受け取る必要はありません。要するに、 ピラトの兵士たちが、神殿において犠牲を捧げにきたガリラヤ人たちを殺害し たということでしょう。「いけにえ」に言及されているところからして、事件 が起きたのは祭りの時であろうと思われます。この事件そのものは、聖書外の 歴史的資料に記録がありませんので、事情はよく分かりません。しかし、いく ら残忍さにおいて知られるピラトであっても、まったく無意味にユダヤ人を殺 すことはないでしょうから、恐らくは政治的な理由が背後にあるものと思われ ます。それは、わざわざ彼らについて「ガリラヤ人」と記していることからも 考えられることです。ガリラヤは、反ローマ的武装集団である熱心党の発祥の 地であり、当時においてもその運動の中心地だったからです。祭りの騒ぎに乗 じた小規模の武力蜂起があり、それをピラトが武力をもって鎮圧した、という ような事件だったのでしょう。

 いずれにせよ、犠牲を捧げにガリラヤから来た人たちがローマ兵に殺された という事件は、ユダヤ人たちにとって、かなりショッキングな出来事であった に違いありません。「なぜ神はこのような残忍な殺戮をお許しになったのか。 どうして聖なる場所において、異邦人がユダヤ人を殺すようなことが起こるの か。」そのような問いが当然起こります。あるいは、他の人々は次のように考 えたことでしょう。「このような災いに遭うとは、彼らはよほど罪深い人間で あったに違いない。人の目はごまかせても、神の目はごまかせないのだ。その 神が彼らを裁き給うたのだ」。このような因果応報の思想は、人々の間で一般 的でありました。主イエスに事件を伝えた人々は、主に後者の考えを抱いてい た人々であったようです。ですので、そのような彼らに主は問い返されたので した。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリ ラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」と。

 さて、何気なく書かれていますこのやりとりですが、その前を読みますと、 彼らの報告がいかに場違いであるかが見えてまいります。「ちょうどそのとき 」と書かれていますが、「ちょうどそのとき」主イエスはいったい何を話して おられたのでしょうか。主は「偽善者よ、このように空や地の模様を見分ける ことは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」(1 2・56)と人々に話していたのです。「今の時」とはどのような時でしょう。

それはその後の話に示されております。「あなたを訴える人と一緒に役人のと ころに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい」(12・ 58)と主は言われます。つまり、「今の時」とは「和解すべき時」です。人 間との間の話ではありません。神との和解の話です。和解と言いましても、神 と人との間では、悪いのは一方的に人間の方だけです。ですから、これは神に 立ち帰るべき時、悔い改めるべき時、という意味に他なりません。つまり、そ こでは、聞いている一人一人が、自らの罪を問われているのです。それぞれが 悔い改めを呼び掛けられている時なのです。

 「ちょうどそのとき」のことです。そこで幾人かが、自分のことではなくて、 他の人々のことを話し始めたのです。他の人々について、彼らが罪深いか否か を語り始めたということなのです。何という場違いな話ではありませんか!し かし、このようなことを人はするものです。神の言葉の前に、自分が引き出さ れるのを避けようといたします。神の言葉の前に、自分自身の生き方が問われ、 自分自身の決断を問われることを回避しようといたします。そして、他の人々 の罪について話し始めるのです。あるいは、罪と悔い改めについての一般論を 始めるのです。そこではもはや、裁かれる者の位置に自分自身は存在しません。

あくまでも自分自身は裁く者の位置にいるのです。

 ですから、主イエスは、彼らをもう一度神の呼びかけのもとに引き戻そうと してこう言われるのです。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったの は、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそ うではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅 びる」。つまり、神が最終的に正しい裁きをなさる時、そこで裁きの前にある のは他ならぬあなたがた自身なのだ、と言っておられるのです。

●今は恵みの時

 そこで主はさらに一つのたとえ話をされました。6節以下をご覧下さい。 「そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの 木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。

『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたた めしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答 えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、 肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそ れでもだめなら、切り倒してください』」(13・6‐9)。

 ぶどう園と書かれていますが、実質的には果樹園のことですから、そこにい ちじくの木が植えられていることは不自然なことではありません。一般的に行 われていたことです。ここで強調されているのは、要するに、いちじくの木は、 良いところに植えられて、手入れをされていた、ということです。道端に生え ている木ではありません。そして、当然のことながら、植えた人は、いちじく の実がなることを期待して待っていたのです。しかし、その期待が見事に裏切 られたのでした。しかも一回ではありません。「もう三年の間」と書かれてい ます。つまり、繰り返し繰り返し、裏切られてきたということです。

 聖書に見られる神と人との関係は、ただ人が神を信じるという関係ではあり ません。神が人を信じるのです。人を信じて神は最善を尽くされます。そして、 その神の信頼に人が真実をもって応答することを期待されるのです。しかし、 その期待が裏切られます。聖書の中には、繰り返し繰り返し裏切られた神の嘆 きの声が満ちています。預言者イザヤは、神の嘆きを次のように歌いました。 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わ たしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、 良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶ どうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。…わた しがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるとい うのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが 実ったのか」(イザヤ5・1‐4)。

 私たちは、今日のたとえ話の中において、ただ短気で冷酷な審判者としての 神を思い描いてはなりません。旧約聖書に見るように、このたとえの背後には、 期待を裏切られ続けてきた神の深い嘆きがあるのです。主人が切り倒さねばな らない木は、他の誰かが植えた木ではありません。他ならぬ、自分が植え、実 りを期待してきた木なのです。その木を切り倒すということは、主人にとって も実に悲しい事ではありませんか。

 さて、実際には、この話は、いちじくの木が切り倒されたという筋書きには なっておりません。園丁の説得へと展開いたします。「御主人様、今年もこの ままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と園 丁が言うのです。さてここで私たちは、単純に、主人は父なる神を表し、園丁 はイエス・キリストを表すと考えてはなりません。父なる神は怒りと裁きの神 であり、キリストは愛と赦しの神であるというのは、まったく非聖書的な思想 です。なぜなら、聖書は、キリストを世に送られたのは、他ならぬ父なる神で あると教えているからです。他のキリストのたとえ話の場合と同じように、私 たちは登場人物のそれぞれに意味を持たせて寓意的に読むのではなく、この物 語全体の中に神の「慈愛と寛容と忍耐」(ローマ2・4)を見るべきでしょう。

つまりこの話の要点は、本来ならば切り倒されて然るべき実を結ばぬ木が、な おも残されてそこに立っている、ということなのです。

 このように、主イエスのたとえ話は園丁の言葉で終わります。この一年後に いちじくの木がどうなったのか、実をみのらせたのか、それとも切り倒された のか、語られておりません。それは何を意味するのでしょう。その話の続きを 語るのは、他ならぬこれを聞いた者本人であることを意味するのです。他の誰 でもありません。これを切り倒された木の話にしてしまうか、それとも実を結 んだ木の話にするかは、これを聞いた者にかかっているのです。悔い改めは、 私たち自身に呼び掛けられているのであり、神の言葉の前には、私たち自身が 引き出されているのです。他の人のことを語っていてはならないのです。

 この福音書の最後において、復活されたキリストは弟子たちにこう語ってお られます。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者 の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあ らゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたは これらのことの証人となる』」(ルカ24・45‐48)。この主の約束の言 葉の延長線上に、私たちの教会も存在します。罪の赦しを得させる悔い改めが、 主の名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられてきました。今日、このとこ ろにおいても、罪の赦しを得させる悔い改めが、主イエスの名によって宣べ伝 えられているのです。本来ならば、とうの昔に切り倒されていて然るべき私た ちが、今なお残されているという事実を、そこに現されている神の忍耐と寛容 の富を、神への畏れもって受けとめるべきでありましょう。そして、私たちに 今なお福音が宣べ伝えられているこの恵みの時を、私たちは決して無駄にして はならないのであります。

 
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