「帰ってきた息子」                         ルカ15・11‐32  家庭から父親の権威が失われたと言われて久しくなります。思えば私の家庭 も例外ではありません。うちの娘は恐らく父親の権威など感じたこともなけれ ば、考えたこともないだろうと思います。私と父との関係も似たようなもので した。父は昭和二桁生まれです。私は父を恐れたり、父の言葉に服従しなくて はならないと考えたことはありませんでした。しかし、これが大正生まれにな りますと、事情は少々異なるようです。もう亡くなりました私の叔父はいわゆ る「がんこおやじ」でありました。私の従兄弟はかなり父親を恐れていたと思 います。叔父の言うことは、その家庭において、かなりの強制力を持っており ました。  それでは、主イエスの時代の平均的なユダヤ人の家庭はどうだったのでしょ うか。私は実際のユダヤ人の家庭を知りません。しかし、聞くところによりま すと、父親の家庭における権威は決して小さくはなかったようです。それは聖 書を読みましてもある程度理解できます。例えば、律法によりますならば、両 親に反抗的な息子は石打ちの刑に処してよいことになっておりました(申命記 21・18以下)。もっとも、これがどの程度実際に行われていたかどうかは 定かではありませんが。  ともあれ、そのようなユダヤ人の世界において、今日お読みしましたこのた とえ話は語られたのです。これを聞いた人々にとって、この物語はかなり異常 な響きを持つ話であったに違いありません。なんと言っても、この話の異常さ は、その父親の無力さにあるのです。 ●無力な父親にたとえられる神  話の筋を追ってみましょう。ある人に息子が二人いました。弟の方が父親に 言います。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をくださ い」。彼が求めているのは要するに遺産分けのことです。財産分与の仕方は律 法によって定められておりました。長男は他の者の二倍を受け取ります。です から、この場合、弟の分け前は三分の一です。確かに、弟には弟の取り分があ ります。しかし、それにしましても、まだ元気な父親に対して何という言いぐ さでしょう!親を完全になめています。しかも、その後に「下の息子は全部を 金に換えて…」と書かれているではありませんか。少なくとも財産を処分する 権利は、最後まで親が保有しているはずでありました。しかし、この息子は堂 々と財産を処分し、金に換えて出て行ったのです。つまり、この弟は、あたか も既に親が死んでしまったかのように振る舞っているということです。何とい う親不孝者でしょう!  こういう輩は、石打ちの刑にしないにしても、手酷く懲らしめてやるべきで はないでしょうか。しかし、なんとこの親は、この不埒な息子の言うとおりに、 財産を分けてやるのです。小言の一つもありません。「私の若い時には、そん なことはしなかった」と、説教をするわけでもありません。この親は、息子が 出て行くのを引き留めることもできません。何という無力な父親でしょう。こ のような親は、ユダヤ人の世界に、決して多くはなかったはずです。少なくと も、当時のユダヤの世界において、このような親は絶対に尊敬されることはな かったでしょう。  しかも、主イエスは、ただ単にこの無力な父親の話をしただけではありませ ん。主が語っておられるのは、世間話ではなくて、神と人との関係についての たとえ話なのです。主イエスは、この異常な父親の姿をもって、神のたとえと しているのです。そんなことをして良いものでしょうか。 しかし、考えてみ ますと、主イエスの話については、いろいろと思い当たるふしがあります。異 常なのはこのたとえ話だけではありません。例えば、その前に語っている二つ の話も同じです。そこには九十九匹を野原に置いたまま一匹を捜しに行くよう な、およそ後先のことをまともに考えられない、頭の悪い羊飼いが出てきます。 そこには一枚の銀貨を見つけ出すことに執念を燃やし、家中を掃いて捜し回り、 挙げ句の果てには銀貨を見つけたと言って近所中にふれ回る、およそまともな 神経の持ち主とは思えない女が出てきます。そして、そのような人たちの姿を もって、主イエスは神のたとえとしているのです。そんなことをして良いので しょうか。  私たちは、どうも主イエスの話について、「誰にでも分かりやすいように身 近な例を挙げて説明してくれたのだ」などと考えてはならないようです。主イ エスの言葉は、明らかに当時の常識的なユダヤ人たちにとってはつまずきであ りました。そして、本来、私たちにとってもそうなのだろうと思います。「イ エスさまのお話はとっても分かりやすい」などと言って感動している人は、恐 らくまともに聖書を読んだことのない人でしょう。主イエスの話は決して分か りやすくはありません。外から眺めていてもさっぱり分からないのです。  しかし、分かりにくいことには意味があります。そこで私たちは考えるよう になるからです。外から眺めるのではなくて、自分との関わりにおいて、その 中に身を置いて聞くようになるのです。主はしばしば「聞く耳のある者は聞き なさい」と言われました。確かに、私たちが話の中に身を投じて聞く時に、そ こに聞こえてくる言葉があるものです。見えてくるものがあります。そこには、 私たちの常識が描き出す神の姿とは異なる、イエスの父なる神の姿が見えてく るのです。 ●全能の父である神  では、下の息子の場所に身を置いてみましょう。すると、この息子の父に対 する行為そのものの中に、思い当たることがいくつか浮かび上がってまいりま す。息子は父に求めます。そのように、私たちは神に求めます。自分の願いが 満たされることを願い求めます。しかし、その願いは、父に対する尊敬と畏れ においてなされるのではありません。息子は父が既に死んだ者であるかのよう に振る舞いました。そのように、人はしばしば、神を死せる神であるがごとく に振る舞います。そして、息子は父のもとを立ち去ります。父は息子をその力 をもって留めることができません。無力です。そのように、人は神のもとを立 ち去ります。神は人をその力をもって引き留めることができません。  ここに描き出されているのは、確かに私たちとこの世界の姿です。この世界 は神が既に死んだ者であるかのように、己が望むところに向かって進んでいき ます。この世界を見るならば、あたかも神はそのことに関して、何もすること ができない、あの無力な父親のようではありませんか。神はこの世界に対して、 息子に侮られたままで財産を分けてやった、あの父親のようではありませんか。  息子の願いは聞き入れられました。しかし、父を侮ったままで願望が満たさ れることは、決して幸福なことではありませんでした。この息子の姿がそのこ とを示しております。彼が父のもとを離れて、望んだ道を進み行き、最終的に 行き着いた先は豚小屋でした。「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満 たしたかった」(16節)と書かれています。そして、その豚の餌さえくれる 者はなかったというのです。彼は豚以下になりました。何という惨めさでしょ う。しかし、これもまた人の世の姿に他なりません。確かにしばしば思わされ ます。人の世は、豚の世よりも悲惨であると。  しかし、その惨めさの中で息子は考えました。息子は我に返ってこう言いま す。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるの に、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言お う。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しま した。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』 と」(18、19節)。そして、彼はそこをたち、父の家へと帰って行ったの です。  さて、帰ってきた息子は、そこで父に再会します。どのような父に会ったの でしょうか。彼がそこで目にしたのは、あの無力な父親に他なりませんでした。 こんなボロボロの惨めな姿になるまで息子をどうすることも出来なかった父親 です。ただひたすら帰って来ることを待つことしか出来なかった父親なのです。 ひたすら待ちわびることしかできなかった父であるゆえに、帰って来た息子を 見つけて、父が息子に走り寄るのです。白髪を振り乱して一心不乱に走って行 くのです。その姿には、本来父親が持っているはずの権威のかけらも見られま せん。  しかし、帰ってきた息子は、自ら全く無力な者として、自ら罪を告白する者 として父の前に身を投げ出した時、この無力な父が、同時に全能の父でもある ことを知ることになるのです。話は次のように続きます。「息子は言った。 『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。 『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、 足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食 べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見 つかったからだ。』そして、祝宴を始めた」(21‐24節)。  息子は雇い人の一人となることを求めていたはずでした。しかし、父は、 「雇い人の一人にしてください」という言葉を言わせませんでした。父は、こ のボロボロになって帰ってきた地上の放浪者を、あくまでも息子として、父の 家の人間として、その権威をもって回復するのです。息子は確かに全能の父を 知ったのでした。それは力をもって服従させられることによってではありませ んでした。そうではなくて、父に背いた者が赦しを得、哀れな放浪者が息子と して、再び父の愛の中に回復されることにおいてであったのです。  この無力にして全能なる父の姿こそ、まさにやがてキリストが十字架の上に おいて現される神の御姿でありました。神の無力さは十字架において極まり ます。人の手によって神の御子が十字架にかけられるのです。キリストは神の 無力さを示して死んでゆきます。しかし、この無力さと共に、神の全能がある のです。この徹底して無力になり給うた神こそ、罪人を神の子として、神との 交わりの中に回復することのできる全能の神に他ならないのです。  話はこれで終わりませんでした。兄が腹を立てるのです。父の行為を冷やや かに外から見ている上の息子にとって、父の行為は最後までつまずきでした。 同じように、父なる神の行為も、救いをもたらす十字架も、他を裁く立場にい る正しい人にとっては、いつまで経ってもつまずきです。父の全能を知るのは、 帰ってきた惨めな罪人として、自ら無力な者として、徹底して無力となられた 神の前に身を投げ出す人だけなのです。