説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「ユダとマリア」

2001年4月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ12・1‐8

 「過越祭の六日前に」と書かれております。主イエスが十字架にかかられた のは過越祭のことです。主イエスの死が刻一刻と近づいていることが、この短 い言葉によって示されています。既に「イエスの居どころが分かれば届け出よ 」(11・57)との命令が当局から出されておりました。そのような緊迫し た状況の中で、主イエスはベタニアの村に現れます。エルサレムからは三キロ ほどしか離れていません。無謀と言えば全く無謀な行為です。しかし、自らの 死が目前に近づいたことを知っておられた主イエスは、あえてベタニアに赴か れ、そこにおいて信じる者たちと食を共にしようとされたのです。

 主イエスは、ベタニアに着くと、いつものようにラザロの家に行かれました。

そこでは夕食が用意され、マルタが給仕をしています。そこまでは普段と変わ らぬ情景でありました。しかし、そこで思いも掛けないことが起こります。突 然、マルタの妹マリアが、純粋で非常に高価なナルドの香油を持って現れ、そ の香油を主イエスの足に塗って、自分の髪でその足をぬぐい始めたのです。ナ ルドの香油は、後に書かれていますように、一リトラすなわち約330グラム ほどで三百デナリオンもする高価なものでした。三百デナリオンと言えば、約 一年分の賃金に相当します。そのような香油を、マリアは少しだけ塗ったので はなく、恐らく全部主イエスの足に注いでしまったのでしょう。その後のユダ の言葉からそれが分かります。

 家中が香油の香りでいっぱいになりました。実に異様な光景でした。マリア のしたことは、明らかに馬鹿げた行為であると、誰もが思ったに違いありませ ん。ユダは、この女を非難して言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオ ンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。至極当然の意見です。しか し、主イエスは、ユダの言葉を静かに退けてこう言われたのでした。「この人 のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置 いたのだから。」もちろん、マリアが意識してナルドの香油を主イエスの葬り のために取って置いたとは思えません。しかし、少なくとも、マリアは主イエ スが自ら死に向かいつつあることを理解していたのでしょう。そのことを主イ エスも認めておられたのだと思います。そして、主はさらにこう言われたので した。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒 にいるわけではない。」

 これが本日の物語です。さて、ここに見るユダの姿、マリアの姿、そしてキ リストの御姿は、私たちに何を語りかけているのでしょうか。

●イスカリオテのユダ

 まず、ユダの言葉を聞いていましょう。彼は「なぜ、この香油を三百デナリ オンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言いました。もちろん、そ こにいた弟子たちも皆、そのように思ったことでしょう。これと同じ物語が若 干違った形でマタイによる福音書にも記されておりますが(マタイ26・6‐ 13)、そこには「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った」と書かれている のです。

 「貧しい人々に!」善意に溢れた言葉です。誰も反対はしません。しかし、 善意に溢れた言葉が常に真実な動機から生まれているかと言うと、必ずしもそ うとは限りません。悲しいことに、私たち罪ある人間においては、しばしば善 意の影に偽善が潜み、熱心さの影に不純な動機が潜んでいるものなのです。実 際、彼らは「貧しい人々のために」と言うのですけれど、では、ユダが、そし て弟子たちが、いざ自分で同じだけの犠牲を貧しい人々のために払うかという と、そうではないのです。主イエスは、「貧しい人々はいつもあなたがたと一 緒にいる」と言われました。聖書に精通している人々ならば、これが旧約聖書 の申命記から来ていることをすぐに悟ったはずです。申命記15章11節にこ う書かれています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。 それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ 貧しい者に手を大きく開きなさい。」それはユダヤ人にとっては当然のことと して書かれているのです。そうです。いつでも善意を行いとして表す機会は備 えられているのです。何もこの時だけではありません。しかし、ではいつもそ のようにしているか、と言うならば、必ずしもそうではないのです。「彼がこ う言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない」という言葉 は私たちの心に突き刺さります。実際、私たちが「誰それのために!」と善意 に溢れた言葉を発している時、実はその人のことを少しも心にかけてはいない ということが、いくらでもあるのです。

 いや、単なる偽善性だけの問題ではありません。聖書は、さらに恐ろしいこ とを告げているのです。「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、そ の中身をごまかしていたからである」(6節)と。ユダは自ら犠牲を払わない だけではありません。彼は主イエスと弟子たちの共同体を、自らの益のために 利用していたのです。そして、それはユダにおいてこのように明らかな形で暴 かれておりますが、実は、ここに名前の現れない弟子たちひとりひとりについ ても同じではなかったかと思うのです。さらには彼らを取り巻く民衆も同じで す。結局は、自分自身の利益のこと、自らの願望の実現と欲求の充足のことし か考えていなかったのです。そのために、主イエスを利用しようとしていただ けなのです。そして、それはさらに時を越えて人間の普遍的な問題ではないか と思うのです。

 実際、今日においても、しばしば「宗教は人間にとって必要か」という議論 を耳にします。「宗教とは本当の意味で人間の益となるべきものであって、人 間に害をもたらすような宗教は間違っている」というようなもっともらしい言 葉が聞こえてきます。しかし、そのような人間中心的な思考で、本当に宗教を 論じ得るのでしょうか。いや、これは決して教会の外の話ではありません。私 たちもいつの間にか、キリスト教は私にとって役に立つか、教会は私にとって 益になるか、神を信じることは私に幸福をもたらすか、日曜日の礼拝に出席し て何か良いことがあるか…と、そのようなことばかり考えているのではないか と思うのです。そうであるならば、仮に教会の財布から盗み取るようなことは しないとしても、私たちにとってユダの姿は決して他人事ではありません。そ こに見るのは私たち自身の罪に他ならないのです。表面を敬虔さと善良さによ って繕っても、実は他者のことも神のことも考えていない、自分のことしか考 えていない、罪深い私たち自身の罪の姿がそこにあるのです。

●ベタニアのマリア

 そのような私たちのために、この醜い人間の思惑のただ中で、人間の罪のた だ中で、主イエスはひたすら十字架に向かって進んでおられたのです。主は自 らを父なる神に捧げ、自分の命を私たちすべての人間の罪の贖いのために捧げ ようとしておられたのです。私たちのような罪人が赦され、霊的に死んでいる 者が新しい命に生きるようになるために、キリストは自らの命を捨てようとし ておられたのです。そのような道の途上にあるのが、この場面なのです。主は かつてこう言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のた めに命を捨てる」(ヨハネ10・11)。そして、自らの言葉どおりの道を進 んでおられたのでした。考えてみれば、あの弟子たちにしても、私たちにして も、なんとも命の捨て甲斐のない羊たちであることでしょう。主イエスの行為 は、人間的に見るならば、何とも愚かな行為であると言えるでしょう。しかし、 それが主イエスにとって、「愛する」ということでありました。主イエスはた だ神のため、人間のため、すべてを捨てられたのであります。愛するとは、ま ことに愚かなほどに、自ら犠牲を払うことでありました。

 そのような主イエスの愛に触れた一人の女性がおりました。それがマリアで した。マリアがどれだけ具体的に主イエスの意図を理解していたかどうかは明 かではありません。しかし、少なくとも、「主イエスと共にいることが、どれ だけ自分にとって役に立つことか」などと考えていなかったことだけは確かで す。マリアはしっかりと主イエスに目を向けていたのです。そして、自らを捧 げ尽くそうとしておられる主イエスの愛を見たのです。命さえも与えようとし ておられるキリストの愛に触れたのです。それゆえに、マリアは自分のできる 限りのものを捧げたのでした。誰から強制されたのでもなく、見返りを期待し てでもなく、ただキリストの愛に応えて、自分のすべてを捧げ尽くそうとした のです。それは愚かなことでしょうか。確かにその行為自体は愚かな行為であ ったかもしれません。しかし、それは間違いなく、主の愛と真実に対して、自 らの愛と真実をもってする、マリアの精一杯の応答だったのです。

 一番真実が見えていたのは、実は物知り顔のユダではなくて、また他の弟子 たちでもなくて、このマリアに他なりませんでした。見えているようで見えて いなかったのがユダであり、また弟子たちでありました。なぜ主イエスの愛と 真実が見えなかったのでしょうか。それは視野の中心に主イエスがいなかった からです。その中心に自分がいるからです。人間しかいないからです。人間を 中心とする見方、自分を中心とする見方が、実は一番身近にあるキリストの真 実、神の真実を見えなくしてしまうのです。

 キリストと教会を自らの益のための存在としか考え得なかったユダは、結局 どうしたでしょうか。やがてキリストを売ってしまいました。その代金はマリ アの注いだ香油よりもはるかに少ない銀貨30枚でした。私たちもユダのよう な者であり続けるならば、たとえ一時的に主イエスのもとにいても、やがて僅 かばかりのものと引き替えに主を捨てることになるでしょう。一方、常に主イ エス御自身に目を向け、主の御言葉と主の御姿に向かい続けていくならば、マ リアのように主の愛と真実を知り、主イエスを愛し、主に従う者に変えられて いくことでしょう。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡