「受苦と救贖」
2001年4月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 台湾長老教会宣教師 陳天賜説教
聖書 マタイ16・21‐28
今日は全世界の教会が主イエスの受難の週に入ることを記念する主日です。 主イエスが我々の罪の為に受けた苦しみを記念し、すべての宴会、歓楽、旅行 など贅沢な生活を自粛し、受難に関する聖書箇所を読みながら、主が成し遂げ てくださった救贖の使命、そのために受けられたすべての苦痛を瞑想すべきで はないかと思います。
教会も聖餐式や断食祈り会または修養会などをして、素晴らしい主キリスト ・イエスの救いの恵みを記念します。聖餐式の制定の言葉では「これは、あな たがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい 」、また、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲 む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と語られます。また主が 十字架の上で語られた七つの言葉も心に留めましょう。「父よ、彼らをお赦し 下さい。自分が何をしているのかしらないのです」(ルカ23・34)。「は っきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同43節)。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(同46節)。「わが神、わが神、 なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)。「婦人よ、 ご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19・2 6)。「渇く」(同28節)「成し遂げられた」(同30節)。
ローマ人が使った十字架の酷刑とは、罪人を十字架に掛けて釘を打ちつけ、 血を流すにまかせ、風に吹かせ日に焼かせ、槍で刺し、鳥に啄ばむにまかせ、 死なせるのです。無罪の主は我々の罪の為に、人間が作った酷刑である十字架 の上にかけられ苦しめられたのです。苦しみの十字架に面して、主は、「父よ、 飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますよ うに」(マタイ26・42)と父神に祈りました。主はこの杯が苦い旅路であ り困難であるということを知っていましたが、父神の御心により従いました。 我々人類も色々な苦難に面しますが、主のように父なる神様に切に祈れるでし ょうか。
主は、弟子のペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言 い表した直後に、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学 者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている 」と打ち明け始めました。イエスは、メシアとは輝いたダビデ王様のようでは ないし、世界の人々が期待しているような威厳や力があって世界を支配する地 上のメシヤでもない、とはっきりと述べ、自分が罪人の為に苦しみを受け、罪 を贖う為に死ぬということを、弟子たちに分かって欲しかったからこそ、19 章22節以下と20章17節以下にも、繰り返して三度までも弟子たちに言わ れたのです。
愛する人が苦しみを受けたり殺されたりすることを誰一人望まないでしょう。
もちろん、イエスを愛したペトロも、イエスに苦しみを受けさせたいはずがな く、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とい さめたのでした。しかし、イエスは振り向いてペテロに言われます。「サタン、 引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のこと を思っている」。それから、また「わたしについて来たい者は、自分を捨て、 自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、 それを失うが、私の為に命を失う者は、それを得る」とイエスは弟子たちに言 われたのでした。私たちはこの箇所を読む時、ペトロの自己中心、死や苦しみ に対する臆病に憤りを覚えるかもしれませんが、あなたやわたしがその場にい たら、同じ反応をするのではないでしょうか。
主イエスは苦難を受ける時が近づいたときに、「人の子が栄光を受ける時が 来た」(ヨハネ12・23)と言われました。そして、自分が十字架の上で死 ぬことを、「麦が地に落ちる」(同24節以下)という例え話で話されました。
麦は土に埋もれて、成長して実を結びます。命を意味あるものとするためには、 まず自分が打ち砕かれなければなりません。主イエスは地に埋もれた麦として、 十字架で死なれたのです。
我々を救う為に主は苦しみを受けられました。主は、「これは、罪が赦され るように、多くの人の為に流される私の血、契約の血である」と言われました。
イザヤ53・5に、「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、 彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめ によって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたち はいやされた」と書かれています。
主イエスの苦しみのお陰で、私たちの命は罪の命から義とされた命に変わり ました。苦しみや死に対する恐れに満ちた命から、主の為に喜んで苦しみを受 け、主の為に生きる命に変わりました。こうして多くのクリスチャンが喜んで 主に仕えて、教会は今日に至っているのです。私たちが自分の野心や理想を捨 てて埋もれるつもりならば、神様が私たちを用いて下さるのです。信仰に依れ ば、主イエスが受けた苦しみをプラスに理解出来るはずです。主イエスの苦し みによって救われてキリスト者になった私たちは、もはや、自分の快楽、幸せ ばかりではなく、主が受けた苦しみに応えて、人々の苦しみの為に喜んで仕え る者となります。
パウロはローマ5・3‐5において、「そればかりでなく、苦難をも誇りと します。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達 は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わた したちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているか らです」と言っています。我々は主の苦しみの意味を深く心に留めたパウロの ように学ぶべきであろうと思います。また2コリント1・4‐7において、 「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたち も神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めるこ とができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるの と同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれている からです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いにな ります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、 あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。 あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、 あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、 わたしたちは知っているからです」と教えています。
最後に、イエスが強調したのは、「自分の命を愛する者は、結果的にはそれ を失うが、、自分の命を愛さない者は、その命を永遠に保つ」ということでし た。主の苦しみを覚えるこの季節に、感謝の心をもって、主が歩まれた苦しみ の道を共に歩みましょう。