「なぜ泣いているのか」
2001年4月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ20・1‐18
●マリアは墓の外に立って泣いていた
週の初めの日、つまり日曜日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリア は墓に行きました。他の福音書によりますと、マリアは一人で行ったのではな く、同行者たちがいたようです。彼らが墓に行ったのは、主イエスの遺体に香 油を塗るためでした。それが彼らにできる、せめてもの愛の行為でありました。
彼らがどんなにイエスを愛していようと、主イエスの死は動かし難い事実です。
その事実に対しては、彼らは何もできません。再び涙を流しながら死を悼み、 香油を塗ることぐらいしかできないのです。
ところが、彼らが墓に着きますと、その遺体さえも無くなっておりました。 マリアは急いで引き返し、ペトロともう一人の弟子に伝えます。「主が墓から 取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。 」ペトロと他の弟子は墓に走ります。着いてみると、墓の中には遺体を包んで いた亜麻布が置いてありました。その様子が細かく描写されています。わざわ ざ、「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れ た所に丸めてあった」と書かれております。
その細かい描写は一つのことを明らかに意味しておりました。それは、マリ アは間違っていた、ということです。「主が墓から取り去られました」とマリ アは言いました。彼女は、誰かが持ち去ったのだ、と思ったのです。ところが、 亜麻布はそこにあるのです。持ち去ったなら、亜麻布はないはずです。だから マリアは間違っているのです。後に明らかになる重大なことに、彼女はまだ気 づいていないのです。
気付いていないから、マリアは泣き続けます。泣きながら、身をかがめて墓 の中を見ると、天使が二人見えたと書かれています。実際にはどのように見え たのでしょうか。マリアはなぜ驚かなかったのでしょうか。よく分かりません。
しかし、大事なのは、そこに記されている彼らの言葉です。彼らは、「婦人よ、 なぜ泣いているのか」と言うのです。つまり、マリアは本来泣いている必要は ないのだ、ということです。
しかし、マリアは泣き続けます。泣き続けながら先と同じ事を彼らに言うの です。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしに は分かりません。」こう言いながら、後ろを振り向くと、イエスの立っておら れるのが見えた、と書かれています。ところが、それが主イエスだとは気付き ませんでした。本当は主イエスが近くにおられるのに、マリアは気付かなかっ たのです。ですから、再び主イエスを背にして泣き続けるのです。
さて、ここを読みますと、マリアが「泣いていた」ということが、殊更に強 調されているように思えます。彼女の涙がこの場面を作り上げているのです。 彼女は泣くこと以外どうすることもできない人としてそこにおります。主イエ スが十字架へと向かっていたとき、彼女はどうすることもできませんでした。 主イエスが捕らえられた時、彼女はどうすることもできませんでした。主が十 字架の上で苦しんでいる時、彼女はどうすることもできませんでした。主が息 絶えようとしているとき、彼女はどうすることもできませんでした。主イエス が死んで葬られるとき、その死について彼女はどうすることもできませんでし た。三日目の朝が来て、彼女が墓に向かっていたときも、彼女はイエスの遺体 に油を塗ることぐらいしかできなかったのです。しかし、その遺体さえもなく なってしまいました。もはや何もできません。泣くことしかできないのです。
私たちはある意味でマリアの気持ちが痛いほど分かります。私たちにも、泣 くことしかできない時があるからです。そうです。人には、泣く以外にどうす ることもできないことがあるのです。その最たる場面は、ここに見るように、 愛する者の死に向き合った時であります。確かに、人間にとって最大の問題、 最後の敵は「死」であります。私たちは、この「死」というものに対しては、 まったく無力なのです。
●婦人よ、なぜ泣いているのか
しかし、泣くことしかできなくなるということは、ある意味で、私たちにと って大切なことでもあるのです。涙は目を曇らせます。しかし、もはや何も見 えなくなったその時に、初めて聞こえてくる声があるのです。マグダラのマリ アは、悲しみと無力さのどん底で、いったい何を聞いたのでしょうか。それは 主イエスの御声でありました。
泣き続けるマリアに、主イエスはこう語られたのです。「婦人よ、なぜ泣い ているのか。だれを捜しているのか」。先ほど読んだのと同じ問いが繰り返さ れています。主イエスもまた「なぜ泣いているのか」と言われるのです。マリ アは、もはや泣いている必要はないからです。主の問いかけは、マリアに対し て「もう泣かなくてよいのだよ」という語りかけでもあります。なぜ泣く必要 はないのでしょうか。言うまでもありません。主イエスがそこにおられるから です。マリアは気付いていないだけだからです。マリアは間違っていたのです。
キリストは取り去られたのではなかったのです。マリアは、キリストがまだ死 の支配下にあると思っています。だから泣き続けます。しかし、キリストはも はや死の支配下にはおりません。キリストは死に勝利され、復活されたのです。
マリアの知らないところで、既に決定的なことが起こっていたのです。人生に おける最大の問題、最後の敵である死に、キリストは既に勝利しておられたの です。
しかし、まだマリアは気づきません。園丁だと思って、泣きじゃくりながら 答えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教え てください。わたしが、あの方を引き取ります。」すると、主イエスはただ一 言、「マリア」と声をかけられました。「マリア」――今まで幾度となく聞い てきたその声でした。幾度となく耳にしてきた主の呼び声でした。その声で十 分でした。マリアには分かったのです。その声で分かったのです。彼女は振り 向いて、「ラボニ」すなわち「先生」と主に向かって叫びます。いつもそうし ていたように、主イエスに向かって「ラボニ」と呼ぶのです。
「なぜ泣いているのか」――そうです、もう泣かなくてよいのです。涙は拭 われ、笑顔が戻りました。悲しみが去り、喜びが戻りました。マリアが強くな ったからでしょうか。いいえ、そうではありません。マリアは依然として無力 です。彼女自身は何も変わってはいません。しかし、それでよいのです。もは や、無力ではあっても、泣くしかないマリアではないのです。なぜなら、死に 勝たれたキリストが共におられるからです。いや、実はマリアが気づいていな かっただけなのであって、本当は彼女が絶望の中にいた時から、悲嘆に暮れて 嘆き悲しみ、涙を流していたその時から、復活のキリストは既に共にいてくだ さったのです。そのことをマリアは知ったのであります。
●わたしにすがりつくのはよしなさい
さて、物語の続きに戻りましょう。振り返ったマリアに対して、主イエスは 次のように言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のも とへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いな さい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であ り、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。
「すがりつくのはやめなさい」とキリストは言われました。これは厳密に言 いますと、「わたしに触ってはいけない」ということではありません。「すが りついているのはやめなさい」という言葉です。いつまでも、見える姿で現れ たキリストにしがみついていてはいけない、ということです。なぜでしょうか。
キリストは言われるのです。「まだ父のもとへ上っていないのだから」と。キ リストは父のもとに上って、見えざるお方となるのです。キリストはもはや、 目で見、手で触ることのできない方になられるのです。マリアは、それでよい のだ、ということを受け入れる必要がありました。なぜなら、彼女が、「なぜ 泣いているのか」と問いかけられた理由、彼女がもはや泣く必要がなくなった その理由は、ただ単に死んだと思っていた主イエスが生きていたということで はないからです。主が殺されたことによって失われた交わりが元の状態に戻っ たということではないからです。繰り返しますが、彼女がもはや泣く必要がな いのは、既にキリストが死に打ち勝たれたからです。その力ある御方が共にお られるからなのです。
私たちも、目で見える方として、キリストにお会いすることはできません。 そして、それでよいのです。キリストは、もはや私たちが目で見、手で触れる ことのできる世界には属しておられません。しかし、それでよいのです。死に 勝利されたキリストは今も生きておられます。そして、パンが裂かれ杯が分か ち合われるこのところにおいて、主の福音が宣べ伝えられるこのところにおい て、私たちがもはや泣くだけの者ではないこと、無力であってもただ泣くこと しかできない者ではないことを、明らかにしてくださるのです。主は生きてお られます!主の復活を、共に心から喜び祝おうではありませんか。ハレルヤ!。