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「平安あれ」

2001年4月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ20・19‐29

●あなたがたに平和があるように

 「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)。変だと思いませんか。十字架 にかけられた主が復活して現れたこと…ではありません。弟子たちが「喜んだ 」ことです。皆さんは、例えば既に亡くなったおじいちゃんが夕方突然現れた ら喜びますか。これは恐いことでしょう。いや、本当に愛していた人、慕って いた人ならば、「たとえ幽霊でもいい。現れて欲しい」と思うかもしれません。

しかし、こんな場合を考えてみてください。あなたがある人を裏切ってしまっ た。そして、その人は裏切られたまま、死んでしまった。あなたが謝ろうと思 った時には、もうその人は生きていません。あなたの心は思い出す度に疼きま す。さて、その人が、ある夕刻、突然姿を現したらどうでしょうか!あなたは 喜びますか。喜ばないだろうと思うのです。これは恐いことです。きっと、そ こに跪いて、「赦してくれ、俺が悪かった!」と言って泣き叫ぶに違いありま せん。主イエスが弟子たちのただ中に現れたというのは、喩えて言うならばそ のような状況なのです。どう考えても「主を見て喜んだ」というのはおかしい のです。

 主イエスが現れたこと自体が喜びをもたらし得ないとするならば、その喜び は主イエスの特別な行為と言葉から来ていると考えるしかないでしょう。主は 何をなされ、何を語られたのでしょうか。聖書をご覧下さい。主イエスは彼ら の真ん中に立たれます。そして、「あなたがたに平和があるように」と言われ たのです。そう言って、手とわき腹とをお見せになりました。これがすべてで す。私たちはまず、この意味をよく考えたいと思うのです。

 手には十字架に釘づけられた跡があります。わき腹には兵士の槍で刺された 跡があります。その傷跡はいずれも、目の前に立っておられる方が、確かに十 字架にかけられた主イエスであることを物語っています。その手とわき腹の傷 跡は、彼らの罪を思い起こさせるのに十分であったに違いありません。その意 味において、手とわき腹をお見せになるキリストは、まず第一には、人の罪を 明らかにし、問い給うキリストに他ならないのです。

 しかし、その方が「あなたがたに平和があるように」と言われるのです。こ れはユダヤ人にとっての通常の挨拶の言葉です。しかし、同じ言葉でありまし ても、十字架にかけられた方が言われる時に、その言葉は特別な意味を持って います。人の罪による十字架の傷を持つキリストが、「平和があるように」と 言われる時、その言葉は明らかに罪の赦しを意味するのであります。罪が赦さ れてこそ、初めて平和がもたらされるのですから。要するに、キリストはここ で同時に、罪の赦しをもたらされる御方として立っておられるのです。主イエ スは、かつて洗礼者ヨハネが語ったように、「世の罪を取り除く神の小羊」 (1・29)として屠られました。主は復活された後も、世の罪を取り除く神 の小羊として語っておられるのです。十字架の傷跡は、「あなたがたに平和が あるように」という言葉によって、罪の赦しのしるしと変えられているのです。

 そして、主イエスは重ねて彼らに言われました。「あなたがたに平和がある ように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす 」(21節)。彼らは恐れて、家の戸に鍵をかけていた人々です。彼らは恐れ のゆえに、自分たちの世界に閉じこもっていたのです。その彼らが、キリスト によって世に送り出されることになります。彼らは、恐れを取り除かれて、世 に送り出されるのです。恐れからの解放は、恐るべき状況が取り除かれること によってもたらされるのではありません。キリストの平和を、罪の赦しと共に 受け取ることによるのです。そして、キリストの平和を受け取った者たちは、 キリストの聖なる息吹を受けて、遣わされていくのです。

 主は彼らに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、 あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さな ければ、赦されないまま残る」(22‐23節)。彼らに託されたのは、罪の 赦しでありました。彼らはやがて罪の赦しの言葉を携えて、彼らが受け取った キリストの平和を携えて、世に出て行くことになるのです。

 ところで、今日の聖書箇所の初めには、これが「週の初めの日」であったこ とが、殊更に書き記されております。このことによって、彼らの姿と「週の初 めの日」に集まり礼拝するようになった後の教会の姿が重ね合わされているの です。もちろん、そこに私たちの姿もまた重なってまいります。私たちもまた、 キリストの平和を受けた者として、キリストの平和を携えて、罪の赦しの言葉 を携えて、この世に遣わされているのです。この世に教会が置かれているとい うこと、この世にキリスト者が生かされていることは、そのような意味を持つ のです。

●信じる者になりなさい  さて、続きをお読みしましょう。十二人の一人でディディモと呼ばれるトマ スは、主イエスが来られたときに、その場に一緒にいませんでした。その彼に、 主の復活が伝えられます。すると、彼は言いました。「あの方の手に釘の跡を 見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみ なければ、わたしは決して信じない」(25節)。この言葉のゆえに、この男 は「疑い深いトマス」などと呼ばれます。

 ところで、トマスはなぜこのようなことを言ったのでしょうか。死者の復活 は非合理的だから、合理的な説明と実証が必要とされるということなのでしょ うか。しかし、普通は「指を釘跡に入れる」などということは考えないでしょ う。他の弟子たちは「主を見た」と言っているのですから、「わたしも主を見 るまでは信じない」と言うのではありませんか。あるいはせいぜい言ったとし ても、「その顔を見るまで信じない」ということぐらいでしょう。

 要するに、トマスにとっては、その釘の跡、わき腹の傷というものが、特別 な意味を持っていたということなのです。トマスにとってイエスという存在は、 あの十字架の上に釘づけられた御方、そしてわき腹を槍で刺された御方以外の 何者でもなかったのです。トマスは、それ以外を思い出せないのです。主イエ スと労苦しながらも喜びをもって過ごしたあのガリラヤでの日々、その時の主 イエスの笑顔など、何一つ思い出せないのです。彼の頭の中には苦しみながら 死んでいったイエスの姿しかないのです。

 トマスはイエスと共に死のうと思っていた人物でありました。ヨハネによる 福音書だけが、このトマスの言葉のいくつかを伝えています。イエスがエルサ レムに近いベタニアに再び向かおうとした時、このトマスは仲間の弟子たちに、 「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11・16)と言ったの です。また、主が最後の晩餐の席で、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そ して、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。も しなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行 ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたし のもとに迎える。…」(14・1‐3)と言われた時のことです。その時、ト マスはすかさずこう言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちに は分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。トマス は、最後までついて行こうと思っていたのです。だから、主がどこへ行こうと しているのかを知りたかったのです。彼は死にさえも共に赴こうと思っていた のです。

 しかし、トマスはついて行けませんでした。トマスを残して、主イエスは死 んでしまいました。トマスは最後の最後において主イエスを見捨てたのです。 そこに、彼の背に鉛のように重くのしかかってくる、彼の罪責がありました。 人間には変え得ないものがあります。その最たるものは自分の過去です。過去 には手が伸ばせません。人は過去を生き直すことはできないのです。トマスに はそれが分かっています。だから、罪責を背負って生きるしかないのです。そ れがどんなに重かろうと、罪の負い目を一生背負って生きるしかないのです。 そんなトマスにとって、他の弟子たちが「主を見た」と言う言葉は戯言でしか ありません。だから、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみな ければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じ ない」と言ったのです。

 トマスは単なる合理主義者でもなければ、懐疑主義者でもありません。彼は 精一杯真実であろうとした人物です。彼は自分の過去をしっかりと見据えてい た男です。彼は、十字架の主イエスの釘跡とわき腹の傷を忘れなかった人です。

この世の中には、忘れてしまえば自分の過去も消え去ってしまうかのように思 っている人はたくさんいます。気にさえしなければ罪の重荷は消え去るのだと 考えている人はたくさんいます。トマスという人は、そのように考えている人 より、よほどまともな真実な人間です。

 しかし、主イエスは、トマスがただ罪の負い目を負い続けて生きることを望 まれませんでした。主はトマスにも現れてくださったのです。トマスにも、 「平和があるように」と言ってくださったのです。そして、彼に主は言われた のでした。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あな たの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる 者になりなさい」。もう傷に触れても大丈夫なのです。手を見ることができる のです。過去が水に流れて消えてしまったからではありません。傷は確かにそ こにあるのです。事実は消えません。しかし、トマスは、主イエスによって赦 され、平和を与えられた者としてそこにいるのです。それゆえ、トマスは主の 前にひれ伏して言います。「わたしの主、わたしの神よ」。彼はもはやただ罪 を負い続けて生きていく人ではありません。キリストを主として、神として従 って行くのです。彼もまた、他の弟子と同じように、キリストの平和を与えら れ、主を礼拝する者とされ、またそのような者として世に遣わされていくので す。外に向かって、そして未来に向かって生きてゆくのです。それは、キリス トの復活から八日目、同じ主の日の出来事でありました。  その八日目が繰り返し巡ってまいります。今日も、その日に当たります。ト マスは復活の主を見ました。私たちは見てはおりません。しかし、その違いは 本質的には重要なことではありません。主がトマスにこう言われたからです。 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。ト マスが主を見る前に、実は既に主の復活と罪の赦しの言葉は伝えられておりま した。同じ福音が、私たちにも伝えられているのです。主はトマスに言われま した。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。私たちも、同じよ うに呼び掛けられているのです。私たちも、主を礼拝する者として、そして、 主に遣われた者として、外に向かって、そして未来に向かって歩み出すのです。

 
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