「わたしを愛するか」
2001年4月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ21・1‐19
今日お読みしました21章の場面はガリラヤです。なぜ弟子たちがガリラヤ にいるのかは良く分かりません。しかし、弟子たちはガリラヤ人なのですから、 そこはもともと彼らの生活の場であったところです。ペトロたちはかつての日 常の業務に戻っているのです。彼らがしていることは、およそ三年ほど前にし ていたことと基本的には変わりません。かつてしていたように漁に出ます。し かし、その夜は何も取れません。豊漁があり不漁がある。これもまた日常のこ とです。魚が捕れないときの惨めさ、虚しさ、そして疲労と困憊。それも何ら 特別なことではなく、彼らがこれまで数え切れないほど経験してきたことであ ったに違いありません。しかし、それにもかかわらず、彼らの生活は三年ほど 前に漁をしていた時と同じではないのです。なぜなら、主が復活したからです。
●復活の主との食事
その場面を思い描きながら読んでいきましょう。朝が白々と明けてきました。
主イエスが岸に立っておられます。しかし、弟子たちにはそれが主であること が分かりません。主は彼らに呼び掛けます。「子たちよ、何か食べ物があるか 」。彼らは答えます。「ありません」。すると、主は彼らにこう言われます。 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)。彼らがそ の声に従って網を打ってみますと、なんと夥しい魚が網にかかりました。もは や網を引き上げることができないほどです。その時、「主の愛しておられたあ の弟子」が叫びます。「主だ!」
ここで皆さんは、聖書の中に記されている一つのエピソードを思い出された ことでしょう。ヨハネによる福音書には記されてはいないのですが、恐らく初 代教会においては誰もが知っていた、一つの出来事です。ペトロやヨハネたち が、生前の主イエスに召され、弟子として従い始めた日のことです(ルカ5・ 1以下)。その日も、彼らは夜通し働いて何も捕れませんでした。しかし、疲 労困憊した彼らに主イエスは言われたのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、 漁をしなさい」(ルカ5・4)。シモン・ペトロは、「先生、わたしたちは、 夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網 を降ろしてみましょう」と言って、その言葉に従いました。すると、「おびた だしい魚がかかり、網が破れそうになった」(同5・6)のです。皆、この事 実に驚き、恐れます。すると主はペトロにこう言われたのでした。「恐れるこ とはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。
「主だ」と叫んだあの弟子が思い出したのは、かつての主イエスの姿であろ うと思います。主が思い出させてくださったのです。そして、ペトロは「主だ 」という言葉を聞くと、上着をまとって湖に飛び込みます。主に裸でお会いす るわけにはいかないと思ったのでしょうか。彼は二百ペキス(約900メート ル)を泳いで主のもとに行きます。他の者は舟で陸まで戻りました。
そこで非常に印象的な描写が続きます。陸に上がってみると、炭火が起こし てありました。主イエス自ら食事を備えて迎えてくださったのです。そこには 魚がのせてあり、パンもありました。そして、主は、「パンを取って弟子たち に与えられた。魚も同じようにされた」(13節)のでした。それは主によっ て備えられた主の食卓でありました。
さて、この魚とパンも、私たちに別な聖書の箇所を思い出させます。かつて キリストが五つのパンと二匹の魚を分けて群衆に食べさせられたという話です (ヨハネ6章)。パンがどのように増えたのかは分かりません。しかし、大切 なのは、その奇跡に続くキリストの言葉です。主はこう言われたのでした。 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、 わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)。主がなされ た奇跡は、ただ群衆の飢えを満たすためのものではなく、この御方こそ「命の パン」であるという真理を指し示すしるしであったのです。
6章においてキリストがパンと魚を分けられたように、この箇所では復活の キリストによってパンと魚が分けられます。そこにキリストを中心とした弟子 たちの交わりが造り出されています。そこで弟子たちは、キリストが備えてく ださった食卓に招かれ、「命のパン」である主御自身による養いを受けている のです。さて、ここに描かれている弟子たちの姿に、私たちの姿が重なってき ませんか。そうです、ここに見えてくるのは、聖餐へと招かれる私たち自身の 姿なのです。
キリストを信じる信仰は、私たちをこの世から切り離された別世界へとは連 れて行ってくれません。私たちは依然としてこの世の中におります。洗礼を受 けてキリスト者となっても、日常の生活の営みそのものは、大して変わらない かもしれません。同じように労働をし、豊漁の時もあれば不漁の時もあります。
一晩中働いて、まったく何も捕れないときのように、砂を咬むような虚しさと 惨めさを味わうこともあるでしょう。しかし、同じではないのです。復活のキ リストがおられるからです。主の食卓があるからです。そのような日常生活の ただ中にこそ、主の日の食卓はあるのです。私たちが囲んでいる聖餐卓は別世 界にあるわけではないのです。私たちはこの世の生活のただ中で、主の食卓に 招かれ、復活のキリストの備えてくださった食べ物をいただき、「命のパン」 なる主の養いを受けるのです。
●主イエスの問いかけ
さて、この場面は食事だけで終わりません。食事の後に、主イエスがペトロ に話しかけられるのです。ペトロに三回「わたしを愛しているか」と尋ねられ るのです。三回の主の問いかけは、明らかに主が捕らえられた時にペトロが主 を三回否んだことと関係しています。
最後の晩餐において、「あなたのためなら命を捨てます」と主イエスに誓っ たペトロでありました。しかし、主は言われます。「わたしのために命を捨て ると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしの ことを知らないと言いうだろう」(13・38)。やがて、主イエスが言われ たことは、そのまま実現しました。ルカによる福音書の描写は特に印象的です。
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは『今日、鶏が泣く前に、あ なたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22・61‐62)。しかし、そのよ うに三回も主を否んで、自らの弱さと罪深さをさらけ出したペトロに対して、 主イエスは三度、「わたしを愛しているか」と尋ねられたのであります。
キリストがただ「わたしを愛しているか」とだけ尋ねておられることを、私 たちは特に心に留めなくてはなりません。キリストはペトロの過去がどうであ ったかを問うてはおられないのです。ペトロの未来は過去の出来事によって決 定されてはいないのです。私たちはしばしば、失敗にせよ過ちにせよ災いにせ よ、過去の出来事が人生を決定してしまったかのように考えてしまいます。も ちろん、過去の事実は事実です。人生の汚点は汚点です。人は過去に遡って消 し去ることはできません。しかし、私たちにとって、そしてキリストにとって、 本当に重要なのは、私たちが今、キリストを愛しているかどうかなのです。
もとより、「わたしはあなたを愛しています」などと胸を張って言いようも ないペトロでありました。その彼の気持ちが、彼の言い方によく現れています。
「あなたのためなら命も捨てます」などと、もはや彼は息巻いて言うことはな いでしょう。ただ「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなた がご存じです」とだけ答えます。それが精一杯の答えでした。しかし、その答 えで十分なのです。三回キリストが尋ねられたのは、ペトロの答えが不十分だ からではありません。三回主を否んだペトロを新たに生かすためなのです。
そのようなペトロに託されたのは、キリストの羊の世話をすることであり、 教会に仕えることでありました。これから彼はキリストの委託を受けとめて新 しく生き始めるのです。しかし、不思議なことに、主イエスは、ペトロがどの ような形において教会を牧するべきかということについて、全く触れてはおら れません。その代わりに、次のように語られます。「はっきり言っておく。あ なたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しか し、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないとこ ろへ連れて行かれる」(18節)。
「手を伸ばす」というのは、古代の教会においては「磔にされる」ことを意 味しました。ここで語られているのは、ペトロが殉教するということでありま す。彼は、その晩年が決して自分の思うようにならないこと、そして、最後に は悲惨な死を遂げなくてはならないことを示されたのです。しかし、その後に このように書かれています。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現す ようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話 してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた」(19節)。
与えられた使命を全うして神の栄光を現し、そのようにしてキリストに従う のだ、と言われれば、それは容易に理解できるに違いありません。しかし、キ リストが言っておられるのは、そのようなことではないのです。ここに語られ ていることは、おおよそ、私たちの常識を越えたことです。たとえペトロの人 生がどれほど彼の願ったようにはならず、苦しみ悩みながら最後は悲惨な死を 遂げることがあったとしても、その死においてさえ神の栄光は現れ、その死に おいてさえペトロは主イエスに従うことができる、ついて行くことができるの だ、と主は言っておられるのです。
実際、私たちにとって、「どのように生きていくか」、ということと同じく らい、「どのように死ぬのか」ということは重大問題です。そして、どのよう に生きるか、ということが私たちの思い通りにならないように、どのように死 ぬか、ということも私たちの思い通りにはならないものです。私は、人生の終 わりには、牧師館で家族や教会の兄姉に囲まれて、皆に「ありがとう」と言い ながら死にたいと思います。最後には、にっこりと笑って、眠るように死んで いけたらいいなあ、とは思います。しかし、多分そうはならないでしょう。い ずれにせよ、それは本当は大したことではないのです。私たちがたとえどのよ うな老いを迎えても、たとえどのような死に方で人生を終えたとしましても、 そこにおいてなおキリストを愛し、死を越えてなおキリストについて行くこと ができるからです。
主は、今日こうして主の食卓を囲む私たちにも語られます。「わたしを愛し ているか」と問われます。そして、「わたしに従いなさい」と今日も私たちに 呼び掛けておられます。重要なことは、この主の言葉にどのようにお応えする のか、ということなのです。