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「キリストの羊」

2001年5月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ10・22‐30

●あなたはメシアであるか

 私たちがクリスマスを迎える頃、ユダヤ人たちはハヌカの祭りを祝います。 ユダヤの暦ですとキスレウの月(9月)の25日から八日間です。別名「光の 祭り」とも呼ばれるハヌカには、丁度、私たちのクリスマスのように、飾り付 けをし、キャンドルを灯し、祝福の歌をうたって祝います。現代では、子供に プレゼントをしたりするそうです。これは恐らくクリスマスの影響だと思いま すが。

 さて、今日のお読みしました聖書箇所の場面は、現代でも祝われているその ハヌカの祭りです。ちなみに、「ハヌカ」というのは、ヘブライ語で「奉献」 という意味です。この聖書箇所では「神殿奉献記念祭」と呼ばれています。実 は、このハヌカの祭りは、過越祭や仮庵祭のように旧約聖書の中に定められて いる祭りではありません。比較的新しい祭りです。新しいと言いましても、始 まったのは今から二千年以上も前の話ですが。正確に言いますと、その祝いが 始まったのは紀元前164年のことです。

 簡単にその顛末をお話ししますと、こういうことです。紀元前2世紀、シリ アのアンティオコス四世は、支配下にある全域の人々が一つの民族となるよう に、おのおの自分の慣習を捨てるよう、勅令を発しました。その支配下にあっ たユダヤ人たちに対しても、子供に割礼をほどこすことを禁じ、聖所において 犠牲を捧げて自由に礼拝することを禁じたのです。さらに、彼はエルサレムの 神殿にゼウスの偶像を設置し、律法の書を焼き払い、ユダヤ人が汚れた動物で あるとしていた豚を礼拝のいけにえとして捧げさせるという暴挙に出ました。 王の勅令に逆らう者は、次々と処刑され、殺されていきました。そして、その 迫害は女性や子供にまで及んだのです。

 そのような中で、ついにハスモン家という祭司の一族の指導のもとに独立戦 争が始まりました。そして、最終的にユダ・マカバイという人物が率いる一軍 がシリア軍をやぶり、エルサレム神殿を奪回したのです。紀元前164年のこ とでした。その年のキスレウの月の25日に、ユダヤ人たちは、神殿から偶像 を取り除いて清め、神殿を再び奉献したのです。

 その時のことが、旧約聖書続編のマカバイ記IIの10章にこう記されていま す。「マカバイとその同志は、主の導きによって神殿と都を奪還した。異国の 者たちが市場に築いた盛り土の祭壇はもとより、その囲みまで跡形もなく取り 払い、神殿を清め、新たな祭壇を築いた。…またユダたちは、この日について 公に提案し、人々の賛同を得て、ユダヤのすべての民はこの日を、年ごとの祭 日として祝うことにした」(マカバイII 10・1‐8)。これがハヌカの祭 りの起源です。このように、この祭りは、民族の解放と礼拝の自由の回復を記 念する祭りだったのです。

 ですから、毎年巡ってまいりますこの祭りの時に、再び民族の独立への希望 が膨らんだであろうことは容易に想像できると思います。主イエスの時代にお いて、ユダヤ人はギリシア人ではなくローマ人の支配下にありました。そのよ うな人々がメシアを待望していたのです。そのメシアとは、政治的に彼らを解 放し、独立と自由を与えてくれるメシアに他なりませんでした。かつてのユダ ・マカバイのようにです。そのようなわけで、ここでユダヤ人たちがイエスを 捕らえて、「もしあなたがそのようなメシアなら、はっきりそう言ってくれ」 と言っているのです。つまり、お前は本当に我々を解放してくれるメシアなの か、ローマを倒してくれるメシアなのか、と問いただしているのです。

 それに対して、主イエスは直接答えることをされません。むしろ、「あなた がたが信じないのはわたしの羊ではないからだ」と言われるのです。これは何 を意味しているのでしょうか。主イエスを取り囲んでいる彼らには彼らなりの 要求があるのです。メシアならばこうあるべきだ、という彼らなりの理解と考 えがあるのです。それを持ってきて、「いつまで、わたしたちに気をもませる のか」と迫っているのです。しかし、主イエスは、ご自分が彼らの求めを満た すメシアであるかどうかという前に、彼らがメシア、キリストの羊かどうかを 問題にされるのです。彼らが信じないとするならば、それは主イエスの側の問 題ではなく、彼らの問題だと言っているのです。

 あの時代のユダヤ人だけではありません。今日の私たちでも同じです。人は いつでも勝手な要求をキリストにつきつけます。キリストが自分の願っている ような存在なら受け入れもしよう、信じもしよう、と言うのです。あなたは私 の期待に応えてくれるのか。私の願いをかなえてくれるのか。あなたは本当に 私が考えているようなメシアなのか、私が求めているようなメシアなのか。そ のように問うのです。しかし、そのような私たちに主イエスは問い返されるの です。「あなたは何者なのか。あなたは本当にわたしの羊であるのか」と問い 返されるのです。どのような者であるかが問われているのは、主イエスではな くて、私たちなのです。

●あなたはメシアの羊であるか

 では、キリストの羊とはどのような者を意味するのでしょう。羊は羊飼いの 声を聞き分けます。そして、その声を聞き逃すまいと耳を傾けます。その声の 主である方についていきます。他の人の声にはついていきません。キリストの 羊であるとはそういうことです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わ たしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(27節)と語られていると おりです。

 私が洗礼を受けて後、よく言われた言葉に「あなたはそれでもクリスチャン か」という厳しい言葉があります。ある時は家族から、ある時は友人から言わ れたものです。どうでしょう。皆さんも一度や二度は経験があるのではないで しょうか。しかし、極端なことを言うようですが、もしこれが私たちの人格的 な欠点や人間的な弱さを指して言われた言葉であるならば、少しも気にする必 要はないと思います。なぜなら、それは何ら本質的なことではないからです。 私たちは人格的な完全さによってキリストの羊とされたのではないからです。 「あなたはそれでもクリスチャンか」―「はい、それでもクリスチャンです。 わたしはキリストのものとされたキリストの羊です。」そう答えれば良いので す。変えられなくてはならない点があるならば、成長の過程において、キリス トの手の内にあって、変えられていけばよいことです。

 しかしながら、もし同じ言葉が本質的な意味で言われたならば、それは心に 留めなくてはならないと思います。つまり、「あなたは少しもキリストに耳を 傾けようとしていないではないか。キリストについていこうとはしていないで はないか。自分勝手に彼から離れてしまっているではないか」―そのような意 味で、「あなたはそれでもクリスチャンか」と言われたならば、その時には大 いに悩み、悔い改めるべきだと思うのです。

 皆さん、主イエスについていくことを妨げるのは人間の弱さではないのです。

むしろ、強さなのです。羊飼いなどなしでやっていける、羊飼いなどいらない と思ってしまう傲慢さなのです。あるいは、自分勝手な要求だけを突きつけて その御声を聞こうとしない傲慢さなのであります。

 「わたしの羊はわたしの声を聞き分けてついてくるのだ」と主イエスは言わ れます。そして、さらに主は言われます。「わたしは彼らに永遠の命を与える。

彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(2 8節)。もし私たちがキリストという羊飼いの羊であるならば、羊飼いは羊で ある私たちを全力をもって守ってくださるのです。主イエスは、御自分の後に ついてくる羊に、永遠の命を与えてくださると言うのです。それは何によって も失われることのない命です。それは死の力によってさえも奪われることのな い命です。それゆえ、「彼らは決して滅びない」と主イエスは言われるのです。

それは何者によってもキリストの手から奪われないということを意味します。 死でさえも、キリストの手からその羊を奪うことはできないのです。

 この箇所を読みますときに、私は有名なハイデルベルク信仰問答の第一問を 思い起こします。そこにはこう書かれております。「生きている時も、死ぬ時 も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」あなたはどのように答えますでし ょうか。「慰め」という日本語の語感はいくぶん弱々しいので、これを次のよ うに言い換えてもよいでしょう。「生きている時も、死ぬ時も、あなたを最終 的に支え得る助けとは何ですか。」もっと簡単に言うならば、「生きている時 も、死ぬ時も、これさえあれば大丈夫と言えるものは何ですか」ということで す。あなたにとってそれは一体何ですか、そのようなものを持っていますか、 と問いかけているのです。「生きている時」だけではありません。「死ぬ時」 にもです。財産ですか、能力ですか、家族ですか、友達ですか、それらはどれ も大切なものであるには違いありません。しかし、それがあれば大丈夫なので しょうか。死ぬ時でさえあなたに希望を与え力を与え支え得る最終的な助けな のでしょうか。この書物は、この問いに対してこう答えるのです。「わたしが 身も魂も、生きている時も死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実な る救い主イエス・キリストのものであるということであります。」

 まさに、今日読みました箇所においてキリストが約束してくださっているの は、このことなのです。「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 」そして「だれも父の手から奪うことはできない。」私たちはただこの方の声 に耳を傾け、この方に信頼してついていけばよいのです。そうです、キリスト の羊とは、キリストの声に耳を傾け、キリストを遣わされた神の子、救い主と して信じ、この方に信頼してついていく者であります。私たちはわが身ひとつ どうすることもできないような者ではありませんか。しかし、大丈夫なのです。

主がこう言われるからです。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決し て滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と。

 
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