「新 し い 掟」                         ヨハネ13・31‐35  聖書の始めに天地創造の物語があります。そこでは人間の創造について次の ように語られています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかた どって創造された。男と女に創造された」(創世記1・27)。男と女は互い に異なります。互いに異なった性質を持つ複数の人間が創造されました。人間 というのは、孤独な者として存在するのではなく、互いに異なる者が共に生き るようにと造られているのだ、という人間理解がそこにあります。神は複数の 人間が共に生きることを望まれます。創世記の2章における人間創造の描写に も、それがよく現れております。  私たちがひとりではなく、他の人間と共にいることは、喜ばしいことです。 しかし、同時に、私たちがひとりではなく、他者と共に存在していることに、 私たちの人生の困難と苦闘もまたあることを、私たちはよく知っております。 人が複数でいるところに、互いに愛する、愛し合うという課題が生じます。そ れは喜びをもたらすと同時に、大きな苦闘をももたらすのです。  恋愛中の若いカップルにとりましては、互いに愛するということが負うべき 大きな課題であるなどとは夢にも思わないかもしれません。それは当然のこと であり、自然なことだと思うでしょう。しかし、結婚して一年も一緒に生活す れば、それは意志の力を要する大きな課題であることに気づくはずです。明ら かに、愛するということは、単に「好きである」ということとは異なります。  それは、結婚式においてしばしば読まれる聖書の言葉にも明らかです。愛と は何でしょうか。聖書にはこう書かれています。「愛は忍耐強い。愛は情け深 い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求め ず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、 すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(1コリント13・4‐7)。 これが「愛」だと聖書は言うのです。忍耐強くあることは何と難しいことでし ょうか。情け深くあることは何と難しいことでしょうか。いらだたないでいる ことは何と難しいことでしょうか。私たちが、他者との関わりにおいて、ただ 愛されることだけを求めて生きるのではなく、愛する者として生きようとする ならば、そこにおいて意志の力を要する苦闘は避けられないのであります。  それは、根本的には、自分自身の罪、この世界の罪との戦いであります。罪 の力はリアルです。それは私たちの具体的な現実生活において、「愛する」と いう方向とはまさに逆方向へと強烈に引っ張ってゆく力です。それは愛を遠ざ け、関係を破壊する恐るべき力です。その力が現にこの世界に働いており、私 たち自身の内にも働いているのです。 ●わたしがあなたがたを愛したように  そのような私たちに、今日、次の御言葉が与えられているのです。「あなた がたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛し たように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。主が十字架にか かられる前、弟子たちに語られた言葉です。これはいわば罪との戦いへの招き です。主イエスは、まず弟子たちを、教会を、私たちを、この世界のただ中に おける罪との戦いへと招かれたのです。主の弟子たちが、主イエスの十字架と 復活の後、バラバラになって個々の信仰者として生きていくのではなくて、共 に礼拝し共に生きる共同体を形作っていったのは、その戦いの具体的な形であ り姿でありました。そして、私たちもそのように、ここに共にいるのでありま す。  私はこの聖書箇所を読みます時に、随分以前に読みました、カトリック柏教 会の岡田武夫神父が書かれた言葉を思い起こします。  「罪は人と人とを引き離し、バラバラにし、対立させ反目させます。それは 人間のコントロールの外にある闇の力のようなものです。だれでも他者とひと つになりたいと願いながら、ついつい人と争ったり人を恨んだりしてしまうの です。それは罪のなせる業です。わたしたちは、ひとつになるためには、罪と たたかわなくてはなりません。」  さらに、岡田神父は、ある大雪の日にその悪天候にもかかわらずミサに集っ た人々のことを紹介し、次のように話を続けられます。  「この人々は、どのような気持ちでミサにこられたのでしょうか。ミサに参 加するということは、実際、ひとつの『たたかい』であります。わたしたちは、 ミサという共同の礼拝において自分の罪、そして世の罪とたたかうのです。た たかわずして、犠牲を払わずして、涙と血を流さずして、どうしてひとつにな ることができるでしょうか。このたたかいは命を賭したたたかいです。…(中 略)…ミサはナザレのイエズスの、命賭けのたたかいの記念であります。ミサ にあずかるということは、このたたかいにもあずかるということではないでし ょうか。戦争は集団のエゴイズムに起因しています。国と国との争いは、それ ぞれの国民が犠牲をささげずしてやむものではありません。平和とは、築いて ゆくもの、たたかいとってゆくものではないでしょうか。同じように、人と人 との一致も、努力して、苦しい思いをして、自分のすべてを失う覚悟さえして、 築き上げ建設してゆくものではないでしょうか」(岡田武夫著『宴への旅』2 6頁以下)。  私たちは、こうして主の食卓のまわりに集められ、主の体と血とにあずかり ます。それはまた、主御自身と一緒に、主の戦いにもあずかることであり、具 体的には、この新しい掟をもいただくことなのです。弟子たちは、主イエスか らこの言葉をいただきました。私たちも主イエスからいただきます。主イエス からいただくということが決定的に重要な意味を持っています。なぜなら、主 がまず私たちを愛してくださったからです。主にとって、私たちを愛すること が、何の痛みも苦しみをも伴わないことであったと考えてはなりません。主が 私たちを愛するということは、私たちの罪を背負って、十字架の上で死ぬこと を意味したのです。すなわち、私たちを愛するということにおいて、既に主が 命がけの戦いをしてくださったのです。それゆえ、主はただ「互いに愛し合い なさい」とだけ言われたのではありませんでした。「わたしがあなたがたを愛 したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われたのです。 ●主の愛に留まる者として  しかし、この言葉を聞くことができなかった人がおりました。イスカリオテ のユダです。31節には、「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」と 書かれております。ユダは、「わたしがあなたがたを愛したように…」という 主イエスの言葉を聞けなかったのです。主イエスはユダを愛していなかったの でしょうか。いいえ、主は彼をも愛しておられたに違いありません。13章の 冒頭にはこう書かれています。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、 この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを 愛して、この上なく愛し抜かれた」(13・1)。その弟子たちの中に、確か にユダもいたのです。ユダも、主イエスによって足を洗っていただき、主とと もにパンを食べていたのです。  21節以下に、主が弟子の一人の裏切りを予告するというくだりがあります。 私たちは、この箇所において、主が弟子たちの前であからさまにユダの罪を暴 き立てたかのように考えてはなりません。ここは非常に緊迫した場面です。弟 子たちが、主イエスの言葉から、主の死が近いことを予感し、不安におののい ている場面です。そのような場で、もし主がユダの裏切りをあからさまに告発 したらどうなっていたでしょう。ユダは、他の弟子たちによって殺されていた かもしれません。主は、そのような形で裏切り者を取り除くこともできたはず です。しかし、主はそうしませんでした。ユダが出て行った後でさえ、裏切り 者が誰であるのか、他の弟子たちには分からなかったのです。  不思議なことがあります。「イエスは、『わたしがパン切れを浸して与える のがその人だ』と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオ テのシモンの子ユダにお与えになった」(26節)と書かれています。これで は、どんな鈍い人の目にも、誰が裏切り者であるか明らかではありませんか。 しかし、それにもかかわらず、誰もユダが裏切り者だとは気づかなかったので す。  これが成り立つのは、ユダが主イエスの左隣り、すなわち最も親しい人の座 る席にいる場合だけである、と多くの人は考えます。一般的に、食事の席にお いて、主人がその友人や客人の席にいる人に、パンを汁に浸して与えるという ことは、当然の礼儀とされていたからです。要するに、ここで主はユダにしか 分からない形で、ユダの裏切りを明らかにしたのです。そう言えば、弟子たち の足を洗った時もそうでした。主は、「皆が清いわけではない」(10節)と 言われたのです。これもまた、本人であるユダしか分からない言葉でありまし た。  主は、ユダだけが分かる仕方で、隠れた彼の罪を明らかにし、ユダの心に語 りかけていたのでした。主は、ユダが立ち帰り、主の愛の内に留まり、弟子の 群れの中に残ることを、最後まで望んでおられたのです。「しようとしている ことを、今すぐ、しなさい」。この言葉が、留まるか、それとも主が言うよう に出て行ってしまうのか、最後の分かれ道でありました。これもユダと主イエ スにしか分からない言葉でありました。そして、ユダは出て行ったのです。 「夜であった」という言葉が悲しく響きます。主イエスがユダを御自分の愛か ら追い出したのではありません。彼が、自らを主イエスの愛から締め出し、闇 の中へと追い出してしまったのです。  私たちは、主イエスの愛から、自分を閉め出してはなりません。闇の中へと 自らを追い出してはなりません。主の愛の内に留まらなくてはなりません。  「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい 」。ユダは、この言葉を聞けませんでした。私たちは、今、この言葉を聞いて いるのです。これは、主の愛の内に留まっているからこそ、受けることのでき る新しい掟の言葉なのです。ですから、この言葉が与えられていること自体、 本当はこの上ない喜ばしいことなのです。確かに、これは罪との戦いです。戦 いは痛みと苦しみを伴います。犠牲を伴います。愛し合って生きるために、忍 耐しなくてはならないこともあるでしょう。涙を流さざるを得ないこともある でしょう。しかし、それでもなお、「互いに愛し合いなさい」という言葉を受 けとめて生きることは、喜ばしいことなのです。なぜなら、その時私たちは、 確かに主イエスの愛の内にいるからです。