「起き上がりなさい」                           ヨハネ5・1‐9  38年間も病気で苦しんできた人が主イエスによって癒されました。それが 今日の聖書箇所が伝える出来事です。長い間病気に苦しんでいる人にとって、 この箇所はとても身近に感じられることでしょう。しかし、元気な人にとって、 この聖書の言葉はまったく無縁なのでしょうか。  しかし、元気な人が読んでもドキッとするような言葉が、この箇所のすぐ後 に出てきます。ここで癒された人に、主は後にこう言われるのです。「あなた は良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いこ とが起こるかもしれない」(14節)。  もちろん、このような言葉には注意が必要です。私たちは、あらゆる病気が 常に罪の結果であるかのように、単純に結びつけることは避けねばなりません。 例えば、この福音書の9章には、弟子たちが生まれつき目の見えない人につい て、主イエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したか らですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねたという話があります。 そのとき、主は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもな い。神の業がこの人に現れるためである」(9・3)と言われたのです。  しかし、もう一方で、人間の病や苦しみが罪とは全く無関係であると論じる ことは現実的ではありません。というのも、私たちは事実、罪の結果として病 気に限らず多くの苦しみを経験するからです。しかも、長い間苦しみ続けるこ とがあるからです。そう考えますと、肉体的に元気な人も、この物語を他人事 にはできません。いや、さらに言えば、罪によって病気になるというよりも、 罪そのものが人間にとって大きな苦しみをもたらす根元的な病に他ならないの です。そうしますと、ここに登場する人の姿は、すべての人に関わる根元的な 「罪」という病、人間の命を深く蝕み滅びをもたらす恐るべき病に冒されてい る人間の姿を指し示していると言うことができると思います。  自分ではどうすることもできない病に苦しみ続け、もはや希望も潰えてしま ったような惨めな一人の人のところに、主イエスの方からおいでくださり、関 わってくださいました。彼は主イエスによって癒され、立ち上がることができ たのです。彼が身を横たえていたその床を、今度は自ら担いで歩き出しました。 今日は、その出来事の意味を、私たち自身とのかかわりにおいて深く考えたい と思います。 ●救いをもたらさないベトザタの池  「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があ り、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、 足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(1‐3節)。  その人は、エルサレムの羊の門の傍らにあったベトザタと呼ばれる池におり ました。そこには他にも、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の 麻痺した人などが大勢横たわっておりました。なぜ、彼らはそこにいたのでし ょうか。理由が書いてありません。新共同訳では4節が抜けていますでしょう。 その節は、この福音書の一番最後に付記されています。このように書かれてい ます。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に 降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、 どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(3節後半‐4節)。 これはヨハネによる福音書に後の時代につけ加えられた説明書きです。当時の 迷信です。このような話は世界中の至る所にあります。この迷信のゆえに、皆 自分が一番最初に飛び込もうと、人々は池の回廊にいたのです。38年もの間 病気に苦しんできたその人もまた、癒されるつもりでそこにいたはずでした。 しかし、現実には、その人にとって、ベトザタの池は全く救いにはならなかっ たのです。  さて、この池には「五つの回廊」があったと記されております。池を四角く 取り巻く四つの回廊があり、その真ん中を横切る五つめの回廊があったという ことでしょう。そのように、回廊が五つあったことを殊更に記しているのは、 それがモーセの五書、モーセの律法を象徴しているからであると、古くから理 解されてきました。  そうしますと、ここで象徴的に表されているのは、律法の無力さであるとい うことになるでしょう。律法は確かにそれ自体は何が正しいことかを示すもの であります。しかし、正しいことを命じる律法は、罪とその結果に悩み苦しむ 者を、癒し生かすことができないのです。律法それ自体は良きものであっても、 それが罪人にとって救いにはならないのです。その人が長きに渡ってその池の ところにいても、全く癒されることはなかったようにです。 ●救いをもたらすキリストの言葉  しかし、そのような人間の悲惨な現実の中にこそキリストが来られたのです。 物語は次のように続きます。「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人 がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気で あるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。病人は答えた。『主よ、水 が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行く うちに、ほかの人が先に降りて行くのです』。イエスは言われた。『起き上が りなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床 を担いで歩きだした。その日は安息日であった。」(5‐9節)。  主はこの人が横たわっているのを御覧になられました。それがこの人の現状 です。しかし、主はただ今の彼の状態に目を向けておられただけではありませ んでした。「もう長い間病気であるのを知って」と書かれております。その人 の現状の背後にある過去の長い歴史に心を留められたのです。彼が何年も何年 も苦しんできたことを、主は知ってくださったのです。そして、主は言われた のでした。「良くなりたいか」。  良くなりたいに決まっています。だから長い間、池の回廊に留まっていたの です。しかし、素直に「良くなりたいのです」と言えません。「主よ、水が動 くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうち に、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)と彼は言うのです。無理もな いでしょう。38年間、だめだったのですから。失望の連続だったのですから。 そして、いつの間にか、彼の心を諦めが支配していたに違いありません。もち ろん、それなりに努力してきたのだと思います。しかし、誰も助けてくれませ ん。誰も自分のことを考えてなどくれません。どうせみんな自分のことしか考 えていないのです。そのように、彼には現状についての言い訳があります。諦 めに支配されている自分を正当化することのできる言い訳が確かにあるのです。  さて、この人の言葉は、しばしば私たちの言葉でもあります。努力しなかっ たわけではありません。何が正しいかを知り、その知識によって自分を律する ことができれば、そこに健康な生活があるのでしょう。しかし、病の人の体が 思うように動かないように、なかなか自分の願ったように、正しいと思えるよ うに、体が動きません。失望します。落胆します。どうせ私という人間はこん なものなのだと思ってしまいます。諦めに支配されます。そのような自分を、 いろいろな言い訳をもって正当化します。そもそもこんな自分になったのは、 周りの人間のせいなのだと言って、周囲の人々を悪者にします。誰も自分のこ となど考えてくれない、と周りの人間の冷たさのせいにすることもできます。 そんな言い訳をしても、何の役にも立たないことは重々分かっているのに、理 由を付けずにはおれないのです。  しかし、主イエスの声に耳を傾けてください。主はどうして今のような状態 なのかを聞いているのではありません。「良くなりたいか」と聞いておられる のです。私たちが言い訳として語るようなことは、もうご存じなのです。主は、 すべて分かっていてくださるのです。分かった上で、近づいてきてくださった のではありませんか。しかし、それでもなお、主は「もっともだね。仕方ない よね」とは言われないのです。私たちが罪の病の床の上で諦めてしまうことを 望まれないのです。主は、私たちが良くなることを望まれるのです。だから、 私たちにも、良くなることを望んでほしいのです。主は私たちが癒され救われ ることへの強烈な願いを持つことを望んでおられるのです。  ですから、主はこの病人の言い訳に耳を傾けようとはしませんでした。あえ て、その言葉を聞き流すかのように、あるいは彼の言葉に覆い被せるように、 こう言われたのです。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。今、こ の人に必要なのは、なぜ今もなお床に寝ているかを説明することではなくて、 そのような彼に近づいてきて、理解して、なお「良くなりたいか」と声をかけ てくださった方を信じることなのです。そうです、主とその御言葉を信じて立 ち上がることなのです。  もちろん、ここで彼は主の言葉を拒否することもできたでしょう。「起き上 がりなさい」と言われても、起き上がれないからこそ、今まで寝ていたのです から。しかし、彼はもう言い訳をしませんでした。彼はキリストの言葉を受け 入れたのです。信じたのです。この方こそ自分を癒してくださる方だと信じた のです。そして、立ち上がりました。彼は、今まで彼がその上にとどまってい た床を、力強く担いで歩き出したのです。新しい生活に向かって歩き出したの です。キリストとの出会い、そして主の御言葉が、信じ受け入れた彼を癒した のでした。  病んでいた彼にとって、彼の留まり続けたベトザタの池は、まったく無力で ありました。しかし、主はこの池のなしえなかったことを、神はキリストを通 してこの病人にしてくださいました。この出来事は、次のパウロの言葉を思い 起こさせます。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてく ださったのです」(ローマ8・3)。主は、私たちをも訪れ、「良くなりたい か」と声をかけられます。あなたはなおも言い訳を続けて諦めの中に留まるの でしょうか。それとも、主とその言葉を信じて立ち上がるのでしょうか。