「キリストの証人となる」
2001年5月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒1・1‐11
来週は聖霊降臨祭です。その一週間前の今日、私たちに与えられている聖書 箇所は使徒言行録の初めから11節までです。ここにはキリストの復活から昇 天までが記されております。復活のキリストが使徒たちに姿を現された期間は 四十日間ありました。さて、主はその時に何をされたのでしょうか。今日は特 に二つのことに注目したいと思います。
●主は神の国について語られた
始めに3節をご覧ください。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きてい ることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現 れ、神の国について話された」(3節)。第一に、私たちは、キリストが「神 の国について話された」という興味深い記述に目を留めましょう。
私たちは、この聖書箇所を、勝手に「イエスは…天国について話された」と 読み替えてはなりません。確かに、キリストは四十日にわたって現れた後、今 日お読みしましたように、天に上げられました。しかし、キリストは使徒たち に、どうしたらキリストと同じように天に行けるかを語られたのではありませ んでした。天に行けることよりも重要なことがあるのです。それは神の国が来 ることです。
思い起こしてみてください。主イエスは、かつて弟子たちに何と祈れと言わ れましたでしょうか。「御国に行けますように」と祈れと言われましたか。い いえ、そうではありません。「御国が来ますように」と祈るように、主は教え られたのです。主は、「御心が行われない地を去って、天に行けますように」 と祈るように教えられたでしょうか。いいえ、そうではありません。「御心が 天で行われるように、地上でも行われますように」と祈るように教えてくださ ったではありませんか。
御国が来るのです。御国とは神の支配です。神の支配が来るのです。この世 界に神の支配が来るのです。国が興ったり滅びたり、繁栄したり傾いたり、闘 ったり和解したりしているこの世界に、神の支配が来るのです。私たちが笑っ たり泣いたり、怒ったり悔しがったり、失望したり立ち直ったりする、この私 たちの生きている現実の中に、神の支配が来るのです。御心が天で行われるよ うに、地上でも行われるのです。だから、御国を祈り求めている私たちは、こ の世界と私たちの現実に希望を持って生きてよいのです。希望を持つべきなの です。
いや、キリストは、私たちただ遠い未来を見つめて「御国が来ますように」 と祈るように教えられたのではありません。キリストは神の国の到来を宣べ伝 えられたのです。そして、御自身の業において神の国、神の支配の到来を示さ れたのです。キリストのなされた病気の癒し、悪霊の追放は、神の国のしるし でありました。
ルカによる福音書を読みますと、キリストが弟子たちに祈りを教えられた話 に続いて、悪霊追放の話が続きます。主イエスが悪霊を追い出されたことにつ いて人々の間に議論が湧き起ったのです。そこで、主イエスは人々に次のよう に言われました。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の 国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11・20)。キリストは人 々を縛り付けている悪しき力から人々を解放することによって、神の支配の到 来を示されたのです。
そして、最終的に、神の支配は、キリストの復活において現されました。復 活のキリストこそ、父なる神によって天と地の一切の権能を授かっている王の 王、主の主であることが明らかにされたのです。死の力、地獄の勢力さえも、 その支配下に置かれているのです。その王の王、主の主なる御方が、死を打ち 破ったその姿をもって使徒たちに現れて、神の国について語られました。それ が今日お読みした場面です。主がそうされたのは、彼らがキリストの復活の証 人となり、復活されたキリストこそ真の王であることを宣べ伝えるようになる ためでありました。
教会は使徒たちのこの証言を託されているのです。私たちは、このキリスト 復活の証言を託された者として、キリストへの信仰を告白し、キリストを宣べ 伝えるのです。神の国を宣べ伝えて、真の王がどなたであるかを、この世界の 中にあって指し示すのです。教会は、この世界から逃れて行ける別世界を指し 示すために存在しているのではありません。到来しつつある神の国の王である キリストを指し示すために存在しているのです。
そして、キリストを示すことは、この御方のもとにこそ、人間の最終的な救 いがあることを宣べ伝えることに他なりません。私たちが逃れていける天に、 私たちの救いがあるのではありません。天に行って救われるのではなく、キリ ストに結ばれ、キリストのものとされて救われるのです。なぜなら、この御方 こそ、すべての力に打ち勝ち、死にさえ打ち勝った御方だからです。その御方 に結ばれ、神の支配の中に生きる時、もはや何ものも私たちを滅ぼすことはで きないのです。キリストおられるところに、救いは既に始まっているのです。
●主は聖霊を待ち望むように命じられた
しかし、キリストの復活を証言し、キリストを真の王として告白して生きる ということは、決して易しいことではありません。なぜなら、この世界は神の 支配を受け容れていないし、キリストを王として従っているわけでもないから です。そのような世界の中にあってキリストを証し、信仰を告白して生きると いうことは、そこに必然的に戦いが生じるということをも意味します。
戦いには力が必要です。それゆえに、キリストは、弟子たちが聖霊を待ち望 むべきことを命じられたのです。それが私たちの注目すべき第二の点です。主 は言われました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束さ れたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく 聖霊による洗礼を授けられるからである」(4‐5節)。その後、キリストは さらに次のように言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたが たは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土 で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。
私たちの戦いに必要な力とは、この世の武力ではありません。この世の権力 でもありません。かつて神は預言者ゼカリヤを通して、困難の中に置かれてい た無力なイスラエルの民にこう言われました、「武力によらず、権力によらず、 ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」(ゼカリヤ4章6節)と。同じ ことが教会にも言えます。私たちが、本当にキリストを指し示す教会となるた めには、この世にあってキリストを指し示すキリスト者となるためには、この 力が必要なのです。それは聖霊によって臨む力です。神から来る力です。神御 自身が私たちの内に来られ、生きて働き給うところに、私たちをキリストの証 人とする力があるのです。
さて、聖霊に満たされ、力を与えられて、キリストの証人となるために、使 徒たちはエルサレムに留まらなくてはなりませんでした。エルサレムは、彼ら が一番留まりたくない場所であったに違いありません。そこは、彼らの挫折の 場所でありました。「イエスさまのためならば命さえも捨てます」という弟子 たちの思い入れが挫折した場所でありました。ペトロを初め、弟子たちが主イ エスを見捨てた場所でありました。そして、強大なユダヤ当局の宗教的権力が 支配している場所であります。彼らがどんなに頑張ったところで、何も為し得 ないゴミのような存在であることを、認めざるを得ない場所であります。しか し、だからこそ、彼らが徹底して謙らされる場所であり、もはや神に期待し、 待ち望み、祈ることしか為し得ない場所なのです。そこに留まるようにと主は 命じられたのです。
確かにキリスト者が聖霊の力によって生きるためには、どこかで自分の無力 さと正直に向かい合わなくてはならないのだと思います。私たちが徹底的に謙 らされる場所に留まることは必要なことです。真の宣教の業を妨げるのは、人 間の弱さではありません。人間の強さです。神に祈り求めることのない人間の 強さと高ぶりこそが、真の宣教を妨げるのです。そのことに気付かないために、 教会が熱心に活動し、大規模に事を為し、世に向かって大声で叫んでいるよう に見えても、本質的には少しもキリストを指し示していないということが起こ るのです。個々のキリスト者は一見熱心に見えるのだけれども、そこに現れて いるのは人間の自我の支配だけで、一向に生けるキリストの支配が見えてこな い、ということが起こるのです。
使徒たちはキリストの命じられるように、都に留まって祈り待ち望みました。
それが聖霊降臨に至るまでの彼らの姿でありました。聖霊降臨祭を迎える私た ちもまた、改めて彼らと同じ場所に身を置かねばなりません。
さて、キリストはすべて語り終えますと、使徒たちの見ている前で、天に上 げられていきました。これは神の神秘に属する出来事ですので、現象としまし ては、どのようなものであったのかよく分かりません。しかし、確かに「昇天 」と呼ぶべき出来事があったことは事実でしょう。なぜなら、それ以後、キリ ストは目に見える復活の主としては現れなくなったのですが、使徒たちは全く 心配したり不安になったりすることはなかったからです。見えざるお方となっ たキリストは、彼らにとっては、さらに近い、さらに親しい、さらに確かなお 方となったのでした。
そして、キリストの昇天に続いて、使徒たちにはさらに次のような約束の言 葉が与えられました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。
あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがた が見たのと同じ有様で、またおいでになる」(1・11)。昇天と同じように、 キリストの再臨もまた、私たちの小さな想像力を越える出来事です。しかし、 確かなことは、私たちの戦いはやがて終わるということです。教会がキリスト を真の王として語る必要がなくなる時が来るのです。キリストが自らその事実 を現されるからです。キリストの到来において、「御国が来ますように。御心 が行われますように、天におけるように地の上にも」という祈りが最終的な答 えを見るのです。そうです、教会が置かれている今の時は、たとえどんな困難 な戦いの中にある時でありましても、その約束の成就への途上にあるのです。 だから私たちは希望を持ってよいのです。希望を持って、ただ聖霊に依り頼ん で生きていくべきなのです。