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「聖霊に満たされて」

2001年6月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒2・1‐13

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風 が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そし て、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、 一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだし た」(使徒2・1‐4)。

 今日の聖書箇所には大変不思議なことが書かれております。しかし、重要な のはその出来事の特異性ではありません。その結果です。一同は聖霊に満たさ れたのです。私たちは、これを教会の誕生として見ることもできるでしょう。 その意味において、これは歴史の中において起こった一回限りの決定的な出来 事です。しかし、ここに語られています、「聖霊の満たし」そのものは一回限 りの事ではありません。すぐ後の四章において、彼らは再び聖霊に満たされま す(4章31節)。その後、私たちは聖霊に満たされて力強く働いているパウ ロの姿をも目にします。また彼自身、エフェソの信徒の手紙の中で次のように 語っています。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。

むしろ、霊に満たされなさい」(エフェソ5・18)。要するに、これは私た ちの誰もが求め、期待すべきことなのです。ですから、今日の箇所を読みます 時に、単に「何がそこで起こったのか」と考えて読むことは、この箇所の正し い読み方ではありません。むしろ、「何がそこから始まり、今日に至るまで続 いているのか」と問いながら読むべきです。では何が始まったのでしょうか。 そして、私たちは同じ聖霊の満たしにおいて何を期待すべきなのでしょうか。

●聖霊による従順

 まず第一に、私たちはこれが「五旬祭」に起こったことの意味をよく考えね ばなりません。現代においてもユダヤ人の間において守られています五旬祭 (七週の祭り・シャヴオット)は、農耕的意味と歴史的意味を持っています。 農耕的には、畑に蒔いて得た産物の初物を捧げる刈り入れの祭りです。しかし、 歴史的には、シナイ山においてモーセが律法を与えられた出来事とこの祭りが 結び付けられるようになりました。出エジプトの後、荒れ野を導かれながら旅 をして、シナイに着くわけですが、そこにおける出来事を記念しているのが、 この五旬祭であると考えられたわけです。

 しかし、そのように与えられた律法をイスラエルの民は守ることができませ んでした。彼らは、律法に基づいた最初の契約を破ったのです。そこで神は預 言者エレミヤを通して次のように語られたのでした。「見よ、わたしがイスラ エルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約 は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したとき に結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは この契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラ エルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法 を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼 らはわたしの民となる」(エレミヤ31・31‐33)。これが新しい契約の 預言です。

 新しい契約における律法は、先に石の板に書き記された言葉として与えられ るのではありません。心の板に書き付けられるのです。それは人間の為しえる ことではなく神の御業です。神の霊によるのです。私たちは、あの五旬祭に起 こった出来事を、この神の御業の開始として見るのです。それゆえに、私たち は五旬祭をユダヤ人のようにシナイ山における律法の授与の記念として祝うの ではなく、聖霊降臨祭として祝うのです。私たちが聖霊の満たしを求めるのも、 それは何よりも私たちが心に律法を書き記された民として、神に従順に生きら れるようになるためです。

●聖霊による一致

 第二に、私たちはここに「一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、 ほかの国々の言葉で話し出した」と書かれていることの意味を考えねばなりま せん。

 私たちがここで思い起こしますのは、旧約聖書に記されている有名なバベル の塔の出来事です。創世記の11章1節以下に出てくるこの物語の中で人々は こう言います。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」。そこ で神は彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまわ れました。きわめて単純な話です。その町は「バベル」と呼ばれました。バベ ルという言葉は、混乱(バラル)という言葉から来ていると創世記は説明して います。

 これは単なる昔話ではありません。神に背を向けて、自らの力で「天まで届 く塔のある町を建てよう」と言っている人間の傲慢な姿は、歴史を通じて少し も変わっていないからです。そこで互いの言葉が通じなくなり、混乱が生じて いる現実も、そのまま現代に当てはまります。単に多くの国語があるという事 ではありません。同じ国語を語りながらも言葉が通じないということがいくら でも起こります。ある時には親と子の間で意志が通じません。言い換えるなら、 言葉が通じないのです。夫婦の間で言葉が通じません。世代間で言葉が通じま せん。隣人同志でさえ言葉が通じません。あらゆる所に混乱が生じています。 人と人とが共に生きることができません。この世界はずたずたに引き裂かれた 世界です。それは人間の傲慢さの結果に他なりません。

 しかし、この聖書箇所では、あのバベルの塔の出来事とまったく逆のことが 起こっています。彼らは突然、異なった言葉を話し始めます。しかし、彼らは バラバラではありません。神の霊によって一つとされているのです。異なる言 葉を話しながら、もはやバベルではありません。神の霊が彼らを満たし、支配 しているからです。自我の支配は人と人との関係を分断します。聖霊の支配は 異なる者たちを結びつけて一つにするのです。

 聖霊降臨によって宣教の働きが始まりました。あの五旬節に起こったことは 神のデモンストレーションです。そこに示されているように、やがて神の言葉 は、異なる言葉の異なる人々の中に宣べ伝えられます。そして、神の霊によっ て、それまで対立していたユダヤ人とサマリア人が一つにされるのです。さら にユダヤ人と異邦人が一つにされるのです。教会の一致と交わりは、この聖霊 の働きと支配によってのみ成り立ちます。私たちが聖霊の満たしを求めること は、個人的に霊的なエクスタティックな体験を求めることではありません。そ れは異なる多くの者たちが一つとなることを求めることでもあるのです。

●聖霊による解放

 第三に、私たちは彼らが何を語っていたのかに心を留めねばなりません。次 のように書かれています。「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エ ラムからの者がおり、…クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわた したちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(9‐12節)。 彼らはひたすら「神の偉大な業」を語っていたのです。

 人が神の御業だけに思いを向け、神の偉大な御業だけを誉め讃えるに至ると いうことは、決して自然なことではありません。人間は、どこまでも、神の業 よりも、人間の業、自分の業の方に関心があるからです。それが通常の姿なの です。神が何をしてくださったか、ということよりも、自分が何をしたか、何 を成し遂げたかということを語りたいし、人々にも認めて欲しいのです。それ は教会の外の話ではありません。それはしばしば、いわゆる熱心なキリスト者、 献身的なキリスト者においても同じです。

 しかし、そのような自分の業に対する捕らわれから解放されることは、人に とってどれほど必要なことでしょうか。人生において大切なことは、私たちが 何を成し遂げたか、ではないからです。私たちにおいて、私たちを通して、神 が何をしてくださったか、ということの方がよほど重要なことだからです。教 会において大切なことは、教会が神のために何を成し遂げたかではありません。

神が教会において、教会を通して、何を為してくださったか、ということが大 事なのです。そのようにして、私たちを、自己の行いへの固執から解放するの は、聖霊の御業なのです。聖霊の支配なのです。

 それゆえに、聖霊に満たされた人々の内に、まことの解放と喜びがありまし た。ある人々はそれを見て言いました。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔 っているのだ。」確かに、解放され、喜びに満ちあふれている姿は、酒に酔っ ているかのように見えたのでしょう。しかし、酒に酔うことと、聖霊に満たさ れることは根本的に異なります。人が酒に頼っても、それは本質的な人間の解 放をもたらしはしません。むしろ、酒に酔うことは、悪魔の力による多くの束 縛をもたらすのが常なのです。本当の解放と喜びの満たしは、聖霊の支配によ って現実となります。私たちは、あらゆる囚われから解放され、喜びに溢れて 生きるためにも、この聖霊の満たしを求めるべきなのです。

 さて、あのペンテコステの日に起こった最初の聖霊の満たしにおいて、いっ たい何が始まったのか、ということを私たちは見てきました。そこに神への従 順がありました。神の霊による一致がありました。御霊による解放がありまし た。喜びがありました。まさに、神の国が、聖霊によって具体的な形を取って 現れたのです。もちろん、その完成を見るのは終わりの日においてです。しか し、私たちはその完成に先駆けて、既に神の国を生きることができるのです。 その新しい時が、既に始まっているのです。それをパウロは次のように表現し ています。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたした ちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押し て、保証としてわたしたちの心に"霊"を与えてくださいました」(2コリント 1・21‐22)。保証というのは手付け金のことです。後に完全に与えられ るものの一部を先に与えられているということです。

 これこそが宣教の力です。「神の国は言葉ではなく力にある」(1コリント 4・20)とパウロは言いました。もちろん、私たちの宣教は言葉を用いて行 われます。言語によって神の国を宣べ伝えるのです。しかし、私たちの宣べ伝 える神の国が、私たちの間で、私たちの生きているこの世界の現実の中で、聖 霊によって具体的に形を取る時に、教会の宣教の言葉が力を伴った実質を持つ のです。私たちはこのことについては全く無力なのですから、あの最初の弟子 たちのように聖霊の満たしを切に求めるべきなのです。

 
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