「聖なる者とされた人々へ」
2001年6月10日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント1・1‐9
●コリントにある神の教会へ
今日からコリントの信徒への手紙を読んでいきます。手紙には差出人と宛先 がありますが、差出人としてまず記されているのはパウロです。彼は使徒であ り伝道者です。「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となった パウロ」という自己紹介には、彼には神によって使徒としての権威が与えられ ていることの主張が見られます。
興味深いのは、その後です。「兄弟ソステネから」という言葉が加えられて います。実は、ソステネという名前はこの後手紙の中に現れません。ソステネ の言葉らしきものも見あたりません。全体が「わたしたちは」という一人称複 数で書かれているわけでもありません。むしろ、4節のように「わたしは」と 書き出している文が非常に多いのです。全体を見ると、これはやはりパウロの 手紙です。これではソステネに失礼ではありませんか。
しかし、ここにソステネの名前があることは、大きな意味を持っているので す。ソステネは兄弟と呼ばれています。兄弟と呼べる他の者が共にいる。そこ にあるのは教会です。ソステネの名前は、この手紙が、そのように兄弟が共に いる場、教会から書き送られたことを示しているのです。
そして、それは教会に対して書き送られております。「コリントにある神の 教会へ」(2節)。ですから、後に10節には、彼らが「兄弟たち」と呼び掛 けられているのです。教会から教会へ。兄弟たちから別の兄弟たちへ。それが この手紙の性格です。
その手紙の性格は、この手紙の内容理解とも関係します。この手紙は具体的 な諸問題が多く扱われていることにおいて特徴的です。それは教会内の争いや 秩序の問題のみならず、結婚、家庭、性の問題にまで至ります。ある意味では 非常に個人的な事柄を取り扱っています。そのような問題に対して語られる言 葉をどのように聞いたらよいのでしょうか。私たちは、これらの言葉を、単に パウロの個人的な見解が述べられているかのように聞いてはなりません。ここ に語られているのは、パウロの言葉として語られていたとしても、それは同時 に教会の言葉だからです。ソステネもまたそこにいるのです。
また、私たちは、ここで取り扱われている諸々の具体的な問題を、単に個人 的な意識や道徳の問題と考えてはなりません。なぜなら、ここで語られている 言葉は、教会に宛てられた言葉だからです。私たちはどうしても、家庭の問題、 性の問題、結婚の問題などを個人的なことと捉えがちです。しかし、これらは 教会に関わる問題なのです。
いずれにせよ、あのコリントの信徒たちにとっても、ここにいる私たちにと っても、この手紙を読むに当たって、またここに見るような具体的な諸問題に ついて考えるに当たって、重要なことは「教会」というものを強烈に意識しつ つ読むことです。また、そのように意識して生きることをこれから学んでいく のです。
それゆえに、パウロはただ「コリントにある神の教会へ」と書いただけでな く、さらに彼らが教会であるとはいかなることかを語ります。私たちは特に二 つのことに心を留めたいと思います。
第一に、彼らは、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召さ れて聖なる者とされた人々」と呼ばれています。聖なる者というのは、いわゆ る聖人のことを言っているのではありません。「聖なる者とされた人々」とい うことは、「神のものとされた人々」という意味です。彼らの性質を語ってい るのではなくて、彼らの帰属を語っているのです。まず誰に属するか、という ことが大事なのです。
神のものとされるということについて、私たちは、パウロの言わんとしてい ることを、正確に捉えねばなりません。単に個々の人間が「自分は神のものな のだ」という意識を持つことではありません。パウロはユダヤ人です。ユダヤ 人であるパウロが「聖なる者とされた人々」と言った場合、念頭にあるのはま ず第一に神の民のことなのです。イスラエルの民のことなのです。
かつてシナイ山において、主はモーセにこう語られました。「ヤコブの家に このように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た、わたし がエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもと に連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るな らば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべ てわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる 国民となる」(出エジプト19・3‐6)。ここに「聖なる」という言葉が出 てきます。世界は本来神のものです。その神のものを神のものたらしめるため に、まず神は一つの民を御自分のために取り分けられました。世界に対する神 の御計画のもとに、一つの民が神のものとされたのです。それが「聖なる」と いう言葉が意味することです。
今、パウロはコリントの人たちに、その言葉を用いているのです。「キリス ト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ 」。彼らはもともとギリシアの港町であるコリントに住んでいた異邦人です。 しかし、異邦人である彼らが、神の民に加えられました。キリストの血によっ て贖われた神の民に、同じキリストによって贖われた異邦人が加えられ、神の ものとされたのです。それゆえに、彼らは「コリントにある神の教会」と呼ば れているのです。それは、コリントにない、日本にある神の教会についても同 じです。私たちはもともと異邦人であった者が神の民に加えられたのです。
そして、第二は、彼らが、共に集まり主の名を呼び求める者とされている、 ということです。「すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリスト の名を呼び求めている人と共に」と書かれています。これも、漠然と個々の人 間が主を呼び求めているということではありません。パウロには一つの明確な イメージがあると思われます。それは国を失いあらゆる場所に散らされながら も、それぞれの場所で共に集まり礼拝をし、至るところで共同体を形作ってき たユダヤ人社会のイメージです。バラバラではありません。集まっているので す。集められているのです。そのように、今、至るところで共に集まり、主イ エス・キリストの名を呼び求め、礼拝している人々がいるのです。そのような 人々と同じように、コリントの人々も共に集まり、主を礼拝し、主の御名を呼 び求める者とされたのです。それが教会です。
信仰生活は具体的な目に見える形を取ります。彼らが「『コリントにある』 神の教会」と呼ばれているとおりです。神の民に加えられるということは観念 的なことではありません。心情的なことでもありません。個人的に心の中でキ リストとつながっているということでもありません。共に礼拝し主の名を呼び 求める共同体に連なって生きることです。それが、「召されて聖なる者とされ た人々」とされているということです。それがキリスト者である、ということ です。
●神は真実な方です
そのような彼らについて、パウロは神に感謝を捧げます。現状に目をやるこ となく漠然と「神様感謝いたします」と言うのは簡単です。現実を目の前にし て、なお神に感謝するというのは、しばしばとても難しいことです。その意味 では、パウロはとても困難なことをしているように思います。現実に存在する コリントの教会には、私たちがこの手紙の中に見出しますように、多くの現実 的な問題があるのです。そして、パウロとの関係も、決して良好とは言えませ ん。その教会を念頭において、なおパウロは「いつも神に感謝しています」と 言うのです。
パウロがそのように感謝を捧げることができるのは、目に見える現実から目 を背けているからではなく、この目に見える現実のただ中に生きて働き給う神 の恵みに目を向けているからです。この世に御子を送られ、この世のただ中で 十字架にかけられた神、この世に聖霊を送られ、この世の中に教会を形作られ、 徹底してこの世界に関わられる神を知っているからであります。そして、その 神の恵みが、現にコリントの人々を豊かにしていることを見ているのです。彼 らは、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされている のです。これは後に見ますように、多くの霊の賜物を受けていることを意味し ます。彼らは豊かなのです。
もっとも、豊かさが必ずしも幸いをもたらすとは限りません。実は、コリン トの教会の多くの問題、多くの混乱は、彼らの貧しさに起因するのではなくて、 むしろ彼らの豊かさに起因するものでありました。その豊かさは高ぶりという 問題をももたらしました。後にこの手紙にはこう書かれています。「あなたを ほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っ ているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのな ら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に 満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様に なっています。…」(4・7‐8)。確かに、豊かさを与えられた者は、ける 側としての責任を問われます。豊かさが不幸を生み出すことはいくらでもあり ます。しかし、豊かさそのものが悪なのではありません。それはあくまでも神 の恵みなのです。神によるのです。ですから、パウロはまず神の恵みを見て喜 ぶのです。感謝するのです。
そして、そこに神の恵みによって始まっていることがあるならば、神が完成 してくださる。今が途上の姿であっても、必ず完成される。それがパウロの確 信でありました。キリストが彼らを最後までしっかり支えて、主イエスが再臨 される日に、非のうちどころのない者にしてくださるのだとパウロは言ってい るのです。彼は、抽象的な一般論を言っているのではありません。この世界の 中に存在する問題だらけのコリントの教会を念頭において語っているのです。 どうしてそう語り得るのでしょうか。彼はこう言うのです、「神は真実な方で す」と。
すべてはこの一事にかかっているのです。私たちの真の希望の源は一つしか ありません。それは神の真実です。私たちが現実の問題から逃げないで格闘す る勇気の源は一つしかありません。それは神の真実です。この神の真実のゆえ に、私たちは信仰生活を観念的なものとせず、なおも自らを教会と呼び、実際 に具体的に、この世にある神の民として生きてゆくことができるのです。