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「バラバラにされたキリスト」

2001年6月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント1・10‐17

                  先週はこの手紙の書き出し部分をお読みしました。今日からこの手紙の本題 に入ります。パウロは、単刀直入にコリントの教会の問題に言及し始めます。 それは教会内に起こった分派争いの問題でありました。それは今日の私たちに とっても、決して無縁の話ではありません。人と人とを引き裂き対立させる罪 の力と、私たちもまた闘い続けねばならないのです。ここに語られている言葉 を、私たちもまた、私たち自身への語りかけとして聞きたいと思うのです。

  ●コリントの教会に起こった争い

   パウロは言います。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの 名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、 心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(1・10)。パウロ はキリストの使徒として、キリストの名によって語ります。教会は、イエス・ キリスト御自身の勧告として、これを聞かねばなりません。教会が一つになる ことを求めておられるのは他ならぬキリスト御自身です。仲たがいは単に不幸 な事態なのではありません。キリストの求めに逆らう罪なのです。

   コリントの教会がどのような状態になっているのかを、パウロはクロエの家 の人たちから知らされておりました。そこにはまず、「わたしはパウロにつく 」と言う人々がおりました。コリントの教会は、使徒言行録16章に記されて いるように、パウロとその一行の開拓した教会です。そこにおいて、あえて 「わたしはパウロにつく」という人々がいるということは、コリントの教会の 中に、既にパウロに対する反対者たちがいることを示唆しています。実際、そ のような事態は、手紙を読み進むにつれて、追々明らかになってまいります。 そこで、なおもパウロを使徒として受け入れ、彼を支持することを表明する人 たちがいたのでしょう。

   一方、ある者たちは「わたしはアポロにつく」と言っていたようです。アポ ロという人物は、使徒言行録18章に出てきます。「アレクサンドリア生まれ のユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家」(使徒18・24)と紹介 されています。そのような人物が、パウロがコリントの教会を設立した後に、 そこに渡ってきて活動したのです。パウロ自身は、コリントのある人々からは 「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらな い」(2コリント10・10)と評されていたように、決して雄弁ではなかっ たようです。そのような彼の後に、知恵の言葉を語る雄弁家が来て活動したわ けですから、パウロよりもアポロとの関係を強調する一群の人々が現れたとし ても不思議ではありません。

   また、ある人々は「わたしはケファに」と言っておりました。ケファという のはペトロのことです。もしかしたら、ペトロもコリントに滞在したことがあ ったのかも知れません。しかし、そうでなくても、ペトロは主イエスの直弟子 として、そしていわば教会の本家とも言うべきエルサレムの教会の代表的人物 として、大きな影響力を持っていたものと思われます。恐らくは、ユダヤ人を 中心としたエルサレムの教会の優位性を主張していたユダヤ人キリスト者の一 群が、ペトロとの特別なつながりを強調していたものと思われます。

   そして、最後に「わたしはキリストにつく」という人々が出てきます。人間 につくのではなくて、キリストにつくというのは、一見すると健全なことのよ うに見えなくもありません。しかし、それが分派争いの一派となっていること に、やはり問題を見出すべきでしょう。結局、それはキリストにつくことを、 他の人々につくことと同次元のこととしているのです。パウロは後の手紙で、 そのような人たちに次のように言っています。「自分がキリストのものだと信 じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのも のであることを、もう一度考えてみるがよい」(2コリント10・7)。キリ ストに結ばれていることを言うならば、他の人々をもそう見なくてはならない のです。しかし、そうでなく、「わたしはキリストにつく」と言ってキリスト との個人的な直接的なつながりだけを強調する人が、実際には争いの一因を作 ってしまうということはしばしば起こることであります。

   さて、これがコリントの教会の現状でありました。どうしたら良いのでしょ う。そのような彼らに対して、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心 を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」とパウロは勧めます。

  「勝手なことを言わず」というのは、我が儘を言うな、ということではありま せん。これは「同じことを語る」という意味の言葉です。それは同じ信仰の言 葉を語るということを意味します。「心を一つにし思いを一つにし」というこ とも、単なる心情的な一致の話ではありません。単に相互理解し心を通わせる ことではありません。腹を割って話し合えば良いのでもありません。「心」も 「思い」も信仰の真理の認識に関わっているのです。真理の事柄をいい加減に して「ハートで一つになろう」と言っている限り、一つにはなれないのです。 信仰の真理において一つにならなくてはならないのです。ですから、ここでパ ウロは、互いに良く話し合うようにと勧めるのではなく、キリストのことと洗 礼のことを話し始めるのです。

  ●キリストの体へと入れられる洗礼

   パウロは言います。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」 (1・13)。一般的に、争いがある場合、それに関わっているのは当事者だ けであると考えられるものです。ですから、直接的に利害関係のない他の者が 口を挟むならば、「これは私たちの問題だ。あなたには関係ないではないか」 などと言うものです。しかし、教会の中の出来事をそのように考えてはなりま せん。そこに争いがある時に、それは人と人との間のことではなく、キリスト に関わるのです。なぜなら、教会はキリストの体だからです。頭と体は一つで す。私たちが何と言おうと、聖書はあくまでも頭であるキリストと体である教 会の一体性を主張します。体である教会を愛さない人は、頭であるキリストを 愛してはおりません。体である教会を分裂させるなら、それはキリストをバラ バラにすることになるのです。この事態において、「キリストは幾つにも分け られてしまったのですか」とパウロは言います。これはキリストに対する罪で あることを認識しなくてはならないのです。

   そして、さらにパウロは主に「わたしはパウロにつく」と言っている人々に 対して、こう言います。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたの ですか」。先にも申しましたように、コリントの教会には、パウロには敵対す る者たちがおりました。先のアポロ派、ケファ派、そしてキリスト派とも言う べき人々も、多かれ少なかれ、そのようなパウロとの対立構造の中にあったも のと思われます。さて、もし誰かが私たちに敵対していたとするならば、私た ちは一人でも多くの人が自分を理解してくれ、味方になってくれることを求め るのではないでしょうか。しかし、そのような状態でありましても、パウロ自 身は、「わたしはパウロにつく」と言っている人々の存在を喜んではいなかっ たのです。彼にとっては、自分の味方がいることよりも、キリストの体が一つ となることの方が大事であったからです。キリストこそが重要なのです。なぜ なら、キリストこそ十字架にかかられた方だからです。パウロはキリストと並 べられてはならないのです。どれほどパウロとの関係が重要であったとしても、  キリストの体を傷つけてまでも守らねばならないほど、その関係は重要ではな いはずなのです。

   さらにパウロは言います。「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けた のですか」。「パウロの名によって」と訳されていますが、もともとは「パウ ロの名の中へ」という言葉です。「パウロの名の中に入れられる、パウロに結 びつけられる、そのような洗礼を受けたのか」と問うているのです。そうでは ありません。彼らは、キリストの名の中に入れられる、キリストに結ばれる、 そのような洗礼を受けたはずです。それが、具体的には教会に加えられるとい うことであったはずです。その後でパウロが「キリストがわたしを遣わされた のは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」(1・1 7)と言っているからと言って、彼が洗礼のことを重んじてはいないと考えて はなりません。むしろ、ここでキリストとの関連でどうしても話に出さなくて はならないほど重要に考えているのです。

   洗礼はご存じの通り水を用いて行います。水は手に触れることができるし、 目に見ることもできます。そして、洗礼式は、目に見える教会の中において行 われます。そこには目に見える具体的な現実の人々がいるのです。そのことに よって、洗礼は、目に見えないキリストとの信仰的な関わりを、目に見えるこ の地上の現実と結びつけるのです。洗礼というものは、キリストとの関係をた だ心の中のこと、頭の中のことにすることを許さないのです。私たちを目に見 えるキリストの体に結びつけるからです。

   ですから、逆に言うと、洗礼を重んじない人は、信仰をいつでも心の中のこ と、頭の中のことにしてしまいます。あるいはせいぜい、自分の人生に不可欠 なものというほどにしか考えません。私小説的な信仰理解の域を出ないのです。

  ですから、キリストを愛すると言いながらキリストの体を傷つけたり破壊した りするという矛盾に満ちたことが起こります。「わたしは人間ではなくキリス トにつく」という人々でさえ、そうなってしまうのです。

   決定的な出来事はただ一度かぎり、あのカルバリの十字架において起こりま した。聖書はその事実に私たちの目を向けさせます。十字架にかかってくださ った方は、あのイエス・キリストただお一人です。私たちのために、この地上 で、現実に血を流してくださって罪を贖ってくださったのは、ただこの方お一 人です。その御方の前では、すべてが相対化されます。あらゆる人間も、あら ゆる人間の体験も相対化されます。キリスト者となるとは、洗礼によって、そ のただ一人の御方の御名の内へと入れられることです。その御方の体の一部と なることです。そのことを、コリントの信徒たちはどうしても知る必要があり ました。そのことを、私たちもまた深く認識する必要があろうかと思います。

 
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