「十字架の言葉」
2001年6月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント1・18‐31
私どもの教会の屋根には銀色の十字架が立っています。礼拝堂の正面にも大 きな十字架が掲げられています。誰も不思議に思いません。しかし、これがギ ロチン台だったらどうでしょう。屋根の上と礼拝堂の正面に大きなギロチン台 が掲げられていたら、教会には誰も来なくなるだろうと思います。十字架はも ともとギロチン台と同じように死刑の道具でありました。ですので、教会に十 字架が掲げられているというのは、本来、とても奇妙なことなのです。この世 の観点からするならば、まことに愚かなことなのです。
その奇妙で愚かに見えることを、教会はその始めから行ってきました。他の 犯罪人と共に十字架にかけられた一人の男を指差して、この方こそ私たちを救 うメシアなのだと宣べ伝えてきたのです。ですから、その十字架の言葉は、本 来受け容れ難い言葉でありました。今日お読みしました箇所に「ユダヤ人には つまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(23節)とあるとおりです。
ですから、もう一方で、この十字架の言葉を宣教から取り除こうとする動き が、意識的にあるいは無意識の内に、起こってまいります。コリントの教会に も起こりました。十字架のキリスト抜きで、直接的な神認識について語られま す。そのような神認識をもたらす特別な知識(グノーシス)による救いが宣べ 伝えられます。そのような神認識に至り、全き自由を得た霊的人間であると自 ら主張する人々が現れてきます。人々は、そこに見られる霊的な現象や体験に 惹かれてゆきます。もはや十字架のキリストというつまずきはありません。
しかし、パウロは言うのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては 愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(18節)。十字 架の言葉こそが、救いと滅びに関わっているというのです。このことを、今日、 私たちは共によく考えたいと思うのです。
●十字架の言葉を神の力として知る人
そもそも、あることを私たちが「愚かである」と見なすとはどういうことで しょうか。それは、言い換えるならば、「私はそれほど愚かではない」と考え ているということでしょう。もちろん、口では「私は賢い人間である」とは言 わないかも知れません。しかし、私たちは往々にして「私こそ物事を分かって いる人間だ。私の判断は正しいのだ」と思って行動しているものです。そして、 そのような自分の賢さをもって神にさえ向かいます。あたかも自分の思考や判 断が優位にあるかのように神の前で振る舞うのです。
しかし、私たちは本当にそれほど賢いのでしょうか。むしろ、賢くない者が 賢いと思い込んでいることにこそ問題があるのではないでしょうか。神はその ような人間の傲慢さに敵対されるのです。パウロはイザヤ書の次の言葉を引用 します。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないも のにする」。そして言うのです。「知恵のある人はどこにいる。学者はどこに いる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではな いか」(20節)。確かに、この人類の歴史は、人間が神の前に誇っている賢 さが、実はいかに愚かなものであったかを暴露され続けてきたプロセスである と言えるでしょう。そして、それは個人の人生においても同じです。神は世の 知恵を愚かなものにされたのです。
神は、そのような人間の内から出る知恵をもって人が神を知ることを、良し とされませんでした。それがどれほど宗教的な装いを伴っていてもです。その ように神を知ることにおいて、人は高ぶることはあっても、決してへりくだる ことはないからです。神は、むしろ、御自分を啓示するために、この世のただ 中に十字架を立てられました。キリストを十字架にかけられました。そのよう にして、キリストをもっとも低いところに下らせたのです。言い換えるならば、 神は人間が登りつめることのできる高いところではなく、低いところで神を知 るようにされたのです。十字架の言葉は、上から見下ろしている限り分かりま せん。十字架の言葉は、低いところにあるのですから、低くならない限り分か りません。ですから、十字架の言葉は、私たちが神の前に低くなるのかどうか という決断を迫るのです。
それは、私たちが自分の罪を認めるかどうかということにも関わっていると 言えるでしょう。十字架の言葉は、この十字架にかけられている御方は、私た ちの罪のために死なれたのだ、と語ります。言い換えるならば、十字架の言葉 は、「あなたは神の御子が十字架にかかって罪を贖わなければ救われない罪人 なのだ」と告げているのです。自分が正しい人間だと思っている人にとって、 これほど受け容れ難い言葉はありません。この言葉を受け容れることができる のは、十字架のもとで自らの罪を言い表す者だけです。
思い起こしてください。キリストの両側には二人の犯罪人がはりつけにされ ておりました。一方は、十字架のキリストにこう言います。「お前はメシアで はないか。自分自身と我々を救ってみろ」。しかし、もう一方は彼をたしなめ て言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我 々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この 方は何も悪いことをしていない」。そして、彼は主イエスに願います。「イエ スよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」 (ルカ23・42)。一方は、キリストと同じように十字架にかかっていなが ら、キリストより上におりました。一方は、自らの罪を認める者として、キリ ストの下にいて憐れみを乞うたのです。そして、救いの言葉を聞いたのは後者 だけでありました。
人は低くならないで得られる救いを求めるものです。「ユダヤ人はしるしを 求め、ギリシア人は知恵を探します」(22節)と記されているとおりです。 しるしを見て、奇跡的な証明を見て信じるということならば、自分の罪を認め て身を低くする必要もありません。しるしを要求する立場にいるまま、自分を 正しい者としたままでいることができます。人は、最後に極みに至るまで、 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言うかもしれま せん。そのように低くなる必要のない道を求めます。また、知恵によって神を 捉えるということでも同じです。人が思索によって、あるいは特別な知識によ って、神を知り救いを得ることができるとするならば、自分の罪を認めて身を 低くする必要もありません。自分を知恵ある者としたまま、自分を正しい者と したままでい続けることができます。
しかし、神はそのような道を退けられます。「そこで神は、宣教という愚か な手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」とパウロは言う のです。だから、パウロは神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えるので す。教会はそのように、十字架につけられたキリストを宣べ伝え続けてきたの です。人を救う神の力を知り得るのは、そして人を救う神の知恵を誉め讃える ようになるのは、人が十字架のもとに低くなる時だけだからです。
●召された人々
教会とは本来そのような者として召された人々の共同体であるはずでした。 しかし、十字架の言葉が失われゆくに従って、コリントの教会がそのような本 来の姿から離れていく危機にあったのです。それゆえ、コリントの人々にこう 語りかけます。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こし てみなさい」(26節)。「召されたときのこと」と訳されていますが、ただ 以前の状態を振り返れということではありません。これは神が召してくださっ たという事実の全体を指す言葉です。つまり、彼らがなぜそこにいるのかとい うことです。それは一方的な神の召しによるのだということを、彼らは思い起 こさなければならないのです。
知恵があるから、能力があるから、家柄がよいから召されたのではないので す。神は無学な者、無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられて いる者をあえて選ばれる方だからです。もちろん、実際には、知識のある者や この世の有力者が皆無であったわけではないでしょう。コリントの教会には、 ユダヤ人の会堂長であったクリスポなどもいたのです。しかし、そのような人 人もまた、自らの愚かさと無力さと罪深さを知って主の召しに応えたのです。 その意味では他の無力な人々と同じです。そして、神がそのような人々を召さ れるのは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためだと、聖書は教 えているのです。
それは私たちにおいても同じです。私たちもまた、神に召されてここにおり ます。私たちもまた、愚かさと無力さを見込まれて神に召されました。馬鹿に するな、と腹を立てますか?それとも、自分のような者が召されていることに、 大きな喜びを覚えますか?しかし、ともかく、召されるというのはそういうこ とです。そのことを忘れる時、教会は鼻持ちならない選民意識が支配するとこ ろになったり、人間的な力関係による分派争いが生じたりするようになるので す。私たちは常に十字架の言葉のもとに身を置かねばなりません。そして十字 架の言葉のもとにあって、私たち自身の召しを思わねばなりません。
「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わ たしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(30節)。
十字架の言葉は、最終的に私たちをそのように言わしめる言葉です。キリスト は私たちの義となられました。ただ十字架にかけられたキリストのゆえに、私 たちは罪を赦され、義とされ、神との正しい関係に入れられたのです。キリス トは私たちの聖となられました。ただ十字架にかけられたキリストのゆえに、 私たちは聖なる者、すなわち神のものとして、神に属する者として、神の民と して生きることができるのです。そして、キリストは私たちの贖いとなられま した。ただ十字架にかけられたキリストのゆえに、私たちは罪から、そして滅 びから救われるのです。それゆえパウロはエレミヤ書を引用して言うのです、 「誇る者は主を誇れ」と。十字架の言葉は私たちから人間的な誇りをはぎ取り ます。しかし、私たちを真の誇りに生きる者とするのです。それは何によって も奪われない誇りです。なぜなら、それは私たちの力によって獲得した誇りで はなく、召されて与えられた誇りだからです。召された私たちから、十字架に かけられた主、私たちの義となり聖となり贖いとなられた方が奪われることは ないからです。