「神の力による宣教」                         1コリント2・1‐9 ●知恵にあふれた言葉によらず  今日、私たちに与えられているのはコリントの信徒への手紙(1)2章の御 言葉です。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき…」という言葉をもって 始まっています。「そちら」すなわちコリントにパウロが初めて行った時の状 況は、使徒言行録18章に記されております。その前の章から見ていきましょ う。テサロニケの宣教においては、かなりの数のギリシア人がキリストを信じ たようです。しかし、テサロニケのユダヤ人の迫害と妨害に遭い、パウロはテ サロニケからベレアへ、そしてさらにアテネにまで逃れざるを得ませんでした。 そのアテネにおいて、パウロはその地の人々に請われ、アレオパゴスにて説教 をする機会を得ました。その内容が17章後半に書かれております。その最後 において、パウロはキリストの復活を語ります。するとどうでしょう。死者の 復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、 いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って去って行ったのです。  このように、彼の宣教の前には、大きな二重の壁が立ちはだかっておりまし た。一つは十字架のキリストを決して受け容れようとしないユダヤ人の宗教感 情です。そして、もう一つは、体の復活を愚かなものとしか見なさないギリシ ア的霊肉二元論の思想です。そのような困難な宣教の戦いの果てにたどり着い たのがコリントの町でありました。  使徒言行録18章には、コリントの多くの人々がパウロの言葉を聞いて信じ、 洗礼を受けたことが書かれています。しかし、もう一方で、その滞在中のある 夜の出来事を次のように伝えております。「ある夜のこと、主は幻の中でパウ ロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなた と共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わ たしの民が大勢いるからだ』」(使徒18・9)。主がこう語りかけられたと いうことは、実際にはパウロが恐れ、語り続けることができなくなっていたこ とを意味するのでしょう。今日お読みしたところにおいても、「そちらに行っ たとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(3 節)と書かれています。私たちが往々にして思い描いている、力強い大伝道者 パウロというイメージとはほど遠い言葉です。しかし、これがパウロの現実だ ったのだと思います。  このように、伝道者が弱ってしまう時があります。語り続けることが困難に なることがあります。いや、伝道者だけではありません。教会が全体として衰 弱してしまい、恐れに取りつかれ、不安になり、もはや語り続けることができ なくなってしまうことがあります。現代の多くの教会がそのような恐れを覚え ています。複雑な価値観の錯綜する現代社会において、教会は今なお語り得る 言葉があるだろうかと、自らに問わざるを得ないのです。  そのような恐れの結果、どのようなことが起こってくるでしょう。ともする と教会は、できるだけ人々のつまずきにならない言葉を語ろうとするようにな ります。どのような価値観の人が聞いても差し障りのない、耳に心地よい言葉 を語ろうといたします。あるいは、この世の論評に較べて遜色のないよう、各 専門分野の広い知識を身に着け、ありとあらゆる事柄を説得力をもって論じ得 るようになろうといたします。教会が決して時代遅れではないことを、一生懸 命に表現しようといたします。しかし……、そのような努力にもかかわらず、 衰弱し、恐れに取りつかれ、不安であることには変わりありません。今日、多 くの伝道者が、教会が、そのような状況を経験しております。私たちはどうで しょうか。  しかし、パウロは、そのような状況において、「イエス・キリスト、それも 十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(2節) と言うのです。ユダヤ人たちの神経を逆なですることになろうが、ギリシア人 たちに馬鹿にされようが、ただ十字架にかけられたキリストを語ることを決心 していた、と言うのです。  私たちは、このパウロの言葉を、私たちの言葉としなくてはなりません。私 たちがこの世の中において、今日語り得る言葉もまた、十字架のキリストを宣 べ伝える言葉以外にはないのです。私たちの為すべきことは、この世のニーズ に応えることでもなく、この世の人が喜ぶ言葉を語ることでもなく、人々を心 地よくさせることでもなく、人々をその知恵によって感心させることでもあり ません。教会は人間の罪を明らかにし、罪から救い、命を与えるキリストの十 字架を指し示すのです。最終的にはそのことしかできないのです。そして、そ れでよいのです。なぜなら、この世にとってつまずきであり愚かなものでしか ない十字架の言葉が語られる時、そこに信仰が起こるからです。そして、救い が起こるからです。十字架の言葉が語られる時、神の命の支配が現実の中に形 を取って現れるのです。  それは神の霊の働きであり、神の力によるのであって、人の知恵によるので はありません。パウロが次のように証ししているとおりです。「わたしの言葉 もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、"霊"と力の証明によるもの でした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信 じるようになるためでした」(4‐5節)。教会が弱さを覚え、恐れに取りつ かれ、この世の力と知恵だけをひたすら求めるようになるならば、霊と力によ る宣教はもはやそこにはありません。私たちが神の霊と神の力を信じ、宣教の 愚かさに徹しない限り、霊と力による宣教はあり得ないのです。 ●神秘としての神の知恵  しかし、このように言いますと、必ずと言っていいほど、勘違いする人が出 てきます。教会が最終的に語るべき言葉は十字架のキリストだけだと言うと、 それは簡単なことだと思うのです。キリスト者が知るべきことはほんの僅かな ことだけしかないように考えてしまうのです。それこそ、伝道用のトラクト一 枚に書けるようなことぐらいを知れば十分であると思ってしまうのです。  しかし、パウロは今日の聖書箇所において、次のように言っています。「し かし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それは この世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありま せん。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、 神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたも のです」(6‐7節)。  この言葉を、じっくり読んでみてください。いろいろと見えてまいります。 これまで「わたしは…」と語ってきたパウロが、ここで「わたしたちは…」と 言い始めます。そして、「信仰に成熟した人たちに対して」ではなくて、「信 仰に成熟した人たちの間では」と言っているのです。つまり、パウロが個人的 に特別な知恵を得て、それを誰かに語るということではないのです。成熟した 人たち――信仰的大人の間にあって、パウロは彼らと共に語るのです。知恵を 語るのです。言い換えるならば、成熟した大人の信仰者であるということは、 この知恵を共に聞き、そして共に語ることができる人だということです。もち ろん、私たちもまた成熟した大人の信仰者とならねばなりません。いつまでも 乳飲み子であることは健康なことではありません。そうしますと、ここで言わ れている知恵もまた、私たちはしっかりと自分のものとしなくてはならないの です。  その知恵とは何でしょう。「隠されていた、神秘としての神の知恵」である とパウロは言います。さらに、「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を 理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなか ったでしょう」と彼は言います。そうしますと、「隠されていた神秘としての 神の知恵」の内容は、キリストの十字架による救いに他ならないことが分かり ます。  十字架による救いは、神が前もって準備されたものです。「目が見もせず、 耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛す る者たちに準備された」と書かれているとおりです。いつ頃から準備されたの でしょう。7節によりますと、「世界の始まる前から定めておられた」という ことです。ちょっと大げさな感じもしますが、要するに「始めから定められ、 備えられていた」ということです。その目的はなんでしょう。「神がわたした ちに栄光を与えるために」と書かれています。これは、私たちが完全に救われ た者となることを意味します。それは終わりの日における救いの完成に関する ことです。このように、十字架のキリストというのは、始めから終わりまでの すべてに関わっているのです。始めから終わりに至る、神の救いの歴史に関わ っているということです。言い換えるならば、キリストの十字架は、聖書全巻 に関わっているということなのです。  十字架につけられたキリストを知るということは、ある意味で単純なことで す。しかし、同時にこれは聖書全巻の広がりと深みを持つのです。また、これ はその救いの歴史の中に置かれているこの世界と私たちの人生のすべての領域 に関わるのです。それゆえ、十字架のキリストが宣べ伝えられるということは、 聖書全体が宣べ伝えられることに他なりません。十字架のキリストを本当に知 るようになるということは、聖書全体に渡る神の救いの計画を知るようになる ことに他ならないのです。その神の知恵にあずかるところに、私たちの信仰者 としての成熟もあるのです。  私どもが週毎に集まるこの会堂が立てられ8年の歳月が経ちました。私たち は、これからも変わることなく、ひたすら十字架のキリストを宣べ伝えていき たいと思います。そして、そのことを成熟したキリスト者として、成熟した教 会として為し得るようになることを目指していきたいと思います。