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「霊の人、肉の人」

2001年7月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント3・1‐9

 本日読みましたところには、「霊の人」と「肉の人」という言葉が出てきま す。「霊の人」とは、「信仰に成熟した人たち」(2・6)のことです。「肉 の人」とは、1節に記されていますように、「キリストとの関係では乳飲み子 」である人です。今日は、この「霊の人」「肉の人」という言葉を巡り、信仰 者としての成熟ということについて考えてみたいと思います。

●肉の人、キリストにある乳飲み子

 「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることがで きず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するよ うに語りました」(3・1)。

 私たちは「霊の人」「肉の人」ということの内容に入る前に、パウロが「兄 弟たち」と呼び掛けていることに注意しておく必要があります。つまり、彼ら は「肉の人」であったとしても、「兄弟」すなわち、キリスト者であるという ことです。「肉の人」は、「キリストとの関係では乳飲み子」と言われていま すが、これは直訳するならば「キリストにある乳飲み子」ということです。彼 らは、あくまでもキリストの内にいるのです。彼らは確かに洗礼を受けてキリ ストの内へと入れられたのです。私たちは、パウロがこの手紙の宛先として 「召されて聖なる者とされた人々へ」(1・2)と書いていたことをも思い起 こすべきでしょう。

 ですから、私たちもまた、他の者に対して、あるいは自分自身について、 「このような者はキリスト者ではない!」などと先走って裁いてはなりません。

「洗礼は受けているけれどあの人は偽物のクリスチャンだ」などと安易に口に すべきではありません。洗礼を受けているという事実、キリスト者とされてい るという事実を重んじなくてはならないのです。

 しかし、そのことを踏まえた上で、なお私たちは「霊の人」と「肉の人」、 成熟した大人と乳飲み子について考えたいと思うのです。私たちは、同じキリ スト者でありながらも、そのキリストにある状態は皆一様ではないという事実 を真剣に考えなくてはなりません。私たち自身はいったいどうなのだろうか、 私たち自身は成長しているだろうかと、真剣に問わねばなりません。召されて 聖なる者とされ、神に属する者とされていながら、なお肉の人、乳飲み子であ り続けることは、悲しむべきことだからです。私たちを召された主はそのこと を望んではおられないからです。

 そこでまず、「肉の人」について考えて見ましょう。「肉の人」あるいは 「肉的な人」と聞きますと、私たちは世俗的で霊的な事柄には無関心な人を想 像するかも知れません。しかし、パウロはそのようなことを意味しているので はなさそうです。というのも、コリントの信徒たちは、決してそのような意味 での肉的な人々ではなかったからです。

 この手紙の12章以降を読むと分かりますが、彼らは霊的な事柄に無関心な どころか、むしろ熱心に聖霊の賜物を求めていた人々であるようです。彼らの 間には聖霊の働きが豊かに現れておりました。彼らの多くは異言を語ります。 預言する者もおります。奇跡を行う者や病気を癒す力を持つ者もいたようです。

そして、彼らの捧げる礼拝は、霊に促されるままに詩編の歌を歌い、心を動か された者が啓示を語り、あるいは教え、あるいは異言を語り、そしてそれを解 釈するというような仕方で行われていたのです。定まった順序や秩序に従って 礼拝するよりも、定まった人が聖書を解き明かすよりも、このように各々の心 のままに自発性に任せた集会の方がよほど霊的に見えるではありませんか。

 しかし、パウロは彼らを霊の人とは呼ばないのです。むしろ、肉の人だと言 うのです。キリストにある乳飲み子だと言うのです。乳飲み子は固い食物を食 べることができません。乳飲み子を養うためには乳を飲ませるしかありません。

ですので、「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでし た」とパウロは言っているのです。

 乳とは何でしょう。固い食物とは何でしょう。この表現はパウロ固有のもの ではなく、初期の教会において一般的に使われていたようです。例えばヘブラ イ人の手紙にも次のように書かれています。

 「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれか に神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳 を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、 義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって 訓練された、一人前の大人のためのものです。だからわたしたちは、死んだ行 いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者 の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリス トの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」(ヘブライ5・12 ‐6・2)。

 ここを読みますと、乳とは「神の言葉の初歩」であることが分かります。そ れは悔い改めや信仰、洗礼等に関する基本的な教えです。これに対し、固い食 物とは、「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のた めのもの」だと言われています。ここに、乳飲み子と大人との区別が明瞭に示 されています。大人となるためには信仰の訓練が必要とされるのです。それは 現実の生活の中において、善悪を見分ける感覚を働かせるという訓練です。そ れはパウロの別の手紙の表現によれば、「何が神の御心であるか、何が善いこ とで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになる」(ロー マ12・2)ということでしょう。信仰の理解と現実生活とが、そのようにし っかりと結びついているのが大人です。信仰は信仰、生活は生活というように 遊離しているのは、乳飲み子なのです。

 実際に、コリントの信徒たちの問題はそこにありました。いくら自分たちは 霊的な人間であると言っても、いくら豊かな聖霊の働きの現れが集会の中に見 られても、いくら神秘的な体験がそこにあったとしても、現実の生活をどう生 きるのかということと結びついていなければ、その人は乳飲み子であり、肉の 人でしかないのです。ですので、パウロは彼らにこう言わざるを得ませんでし た。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、 ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わた しはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っている とすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。」(3・3 ‐4)。

 「ただの人として歩んでいる」というのは、あたかも信仰を持たない人であ るかのように生活しているということです。信仰を持たない人は神のことは考 えません。罪深い人間同士が神のことを考えず人間のことだけを考えて生きる ならば、そこにねたみや争いが生じるのは不思議なことではありません。生ま れながらの罪深い人間性は雨の後の地面のようです。ねたみや争いは雑草のよ うに後から後から生えてくるのです。しかし、コリントの信徒たちは、洗礼を 受けてキリストと共に葬られ、新しい命に生き始めたはずなのです。それにも かかわらず、現実には、ねたみと争いに生き、「ただの人として歩んでいる」 のです。決して他人事ではありません。私たちもまた、そのような「肉の人」 であることは十分にあり得ることです。

●神に思いを向けて

 もちろん、パウロは単に彼らを非難するためにこのことを語っているのでは ありません。パウロは他の誰よりも、彼らが「霊の人」となることを望んでい たに違いありません。乳飲み子から成熟した大人の信仰者になることを望んで いたに違いないのです。ですから、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポ ロに」という言葉を取り上げて、成熟した信仰者が本来持つべき視点を示すの です。

 彼は言います。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、 あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた 者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださった のは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長 させてくださる神です」(5‐7節)。

 彼は、単に派閥争いのことを問題にしているのでもなければ、分争の原因を 取り除くことを目的として語っているのでもありません。「アポロもパウロも 大した人間ではないのだから、アポロにつく、パウロにつくなどと言っている ことは愚かなことなのだ」と言っているのではないのです。そうではなくて、 本当に言いたいのは、「成長させてくださる神なのです」という部分なのです。

つまり、彼らに関わってくださっている真の主体は神御自身なのだ、というこ となのです。目に見えるところでは、パウロやアポロが関わっているように見 えます。しかし、彼らは主に与えられた分に応じて仕えているに過ぎないので す。彼らは用いられているのです。彼らを用いて働きかけているのは神なので す。だから、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(9節)という話に なるのです。

 目に見える現実、目に見える人々、耳に聞こえる言葉など、これらが全てで あると思うなら、私たちは肉の人として生きざるを得ません。私たちが霊の人 として生きるためには、私たちに真に関わってくださっている方のことを考え ねばなりません。私たちは神の畑、神の建物なのです。植える者でもなく、水 を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神にこそ思いを向けねばなりません。 私たちはその御方との関わりに生きるのです。私たちは神の御前に生きるので す。それこそが私たちの信仰の訓練です。そこにこそ私たちの信仰の成熟もあ るのです。

 
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