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「信仰と行い」

2001年7月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 台湾基督長老教会宣教師 陳天賜説教
聖書 ヤコブの手紙1:22‐25、2:21‐22

 福音が台湾に初めて伝えられた頃、よくクリスチャンは「蛮人の宗教を信じ ているのだ」、「小麦粉の教えを信じている人だ」、「死んだ人に泣かない教 えを信じている人だ」、「先祖に背く人だ」等と軽蔑されました。また「道理 (真理)を聞く人だ」ともあざ笑われました。私の属します長老教会は改革派 の一つの支流ですので、確かに礼拝で神さまの言葉を聞くことを大事にします。

けれども、沢山の真理を理解するより、行いの方がもっと大事ではないかと思 います。いつの日か、クリスチャンの清い行いのゆえに、多くの人々が「御言 葉を聞く人だ」を「御言葉を行う人だ」と言い換えて呼んでくれたらうれしい なあと思います。

 パウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙において「信仰に よって義とされる」ことを強調していますが、ヤコブは「行いによって義とな される」と強調したと誤解され、パウロと対立していると思われてきました。 実は信仰と行いについてのヤコブの説明では、信仰は行ないの内的源を指して いるのです。心の奥底に信仰があれば、必ず外にも現れるのです。これは神さ まに対する態度です。コインの表と裏の関係です。

 パウロもガラテヤ5:6で、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の 有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言っています。二 人の見方が支え合っています。20節の意味をもっと簡単に言うと、信仰は良 い行いの原動力で、信仰による良い行いは本当のキリスト者の証拠だと言うこ とです。

 パウロとヤコブは二人ともアブラハムの事を例えにしていますが、パウロは アブラハムが信仰によって義とされたと述べ、ヤコブはアブラハムの行いが義 とされたと証拠を挙げています(21節)。だから、24節に「これであなた がたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによ るのではありません」と書かれています。ヤコブは救いの中に信仰は重要なこ とを否定していませんが、「信仰だけによるのではありません」と言っている のです。説明すると、信仰が唯一の存在ではない、本当の信仰は単なる真理の 理解だけではない、必ず行いを伴うのだ、ということなのです。これは本当の 信仰から自然に生じる行いです。

 そうすれば、「御言葉を聞く」と「御言葉を行う」とは同じ大事なことだと 解ります。片方だけ強調すれば、無意味になります。だから、22‐23節で ヤコブは、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる ものになってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいればその人は 生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ている」と書いているのです。

 最近、数年の間に、世界中の教会が、なぜ教会の成長はマイナスの状態にな っているかと言う課題について、広く反省、検討を行ってきたと思います。信 仰が弱いのか、行いがないのか、信仰の知識が不足なのか、世俗化したのか、 神さまを物質に換えたのか、いつの間にか個人主義になったのか、礼拝が形式 化したのか、あるいは教会の信徒が形式的な信徒に変わったのか、などいろい ろな問題がありますが、一体今日の教会はどうなっているのでしょうか。多く の人は心の中に理想を満たします。しかし、行ないは余り外に現れてきません。

ヤコブが23節において、「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人 は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています」と言っているとおりで す。

 中国の昔の哲人王陽明さんは「知行合体」と主張しましたが、現代の王陽明 さん(すなわち教会の牧師)は「知行不合体」と反対の主張をしているかのよ うです。今の人は依然として「分かるけれども行わない」からです。使徒パウ ロの、「信仰によって義とされる」と言う教えを、ヤコブは、「信仰は行ない の証拠が必要」と補っています。つまり、神さまに栄光を帰する信仰生活は、 内なる真の信仰が、表の行動として現されて完成するのです。

 ヤコブは信徒へ教える時、信仰の父と言われるアブラハムの行った信仰の実 例を引用しました。アブラハムの信仰と行ないの二つから「知行合体」と言う 実践を見ることができます。だから、私たちは「知」的クリスチャンだけでは なくて、同時に実際に行動するクリスチャンにならなければなりません。どち らのほうが大切かと問われれば、今日の多くのクリスチャンは両方とも同じく らい大事だと答えると思いますが、実際には知的信仰だけを強調する教会もあ るし、行ないだけを強調する教会もあります。実は理論的信仰を大事にし、実 践的な行いも大切にするのが、本当のクリスチャンなのです。

 今日の教会を実際に見ると、隠れた危機的試練の中に存在しているのではな いかという感じがします。ヤコブは1:22、23に、「御言葉を行なう人に なりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言 葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺 める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それが度 の様であったか、すぐに忘れてしまいます」と言っています。今日数多くの教 会が世俗の影響で形式的になっています。典型的な御言葉を聞くだけの群れで す、しかし、口だけなら従順に出来ます。しかし、行動に移すことが出来ない (必要ないと思っているかも知れません)。大勢の人々が教会に来ますが教会 に残りません。何十年毎週教会へ通っているけれども、聖書の基本的知識が分 からない人が少なくないし、教会と世界がつながっているということも分から ない人がいます。

 人々は健康な人になりたがっていますが、慢性病をまず癒さなければ、新た な健康は手に入りません、御言葉を聞くだけではなくて、本当に御言葉に従っ て行なうことが大切なのです。

 
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