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「神の神殿」

2001年7月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント3・10‐17

 ここに集っています私たちは皆、この教会が良い教会であることを望んで いると思います。しかし、良い教会とは、はたしてどのような教会を言うの でしょうか。生き生きとした教会でしょうか。家族的な教会でしょうか。人 数が増えている教会でしょうか。若者がたくさん集っている教会でしょうか。 厳粛な礼拝が行われている教会でしょうか。あるいは形式に捕らわれない自 由な雰囲気の教会でしょうか。私たちが「良い教会」と言う時、それは往々 にして「私の好みや考えに合っている」というだけであるかも知れません。 そうならば、良い教会と言っても、それは単に「わたしにとって好ましい教 会」という程度のことでありまして、大した意味はないでしょう。そうなら ならないためには、まず良い教会であるための大原則を聖書から学ぶ必要が あろうかと思います。

●イエス・キリストという土台の上に

 今日の聖書箇所において、パウロは教会を家にたとえています。家であり ますならば、大切なのはまず土台です。教会の土台とは何でしょうか。彼は コリントの信徒たちに次のように書き送っています。「わたしは、神からい ただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、 他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるか に注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視 して、だれもほかの土台を据えることはできません」(1コリント3・10 ‐11)。ここに書かれていますように、教会の土台はイエス・キリストで す。

 ここで土台が「イエス」でもなく、「キリスト」でもなく、「イエス・キ リスト」と表現されていることは、それ自体大きな意味を持っています。 「イエス」というのは人の名前です。ナザレの人と呼ばれた、特定の個人の 名前です。私たちと同じように、この地上を歩まれた方の名前です。その名 前はある特定の日付を持っています。福音書記者のルカが、この方が公に現 れた頃を「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダ ヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコ ン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭 司であったとき」(ルカ3・1‐3)と書いているとおりです。この方は、 確かにポンティオ・ピラトという歴史的人物のもとで裁きを受けたのです。 そして、その権力のもとで処刑されました。ナザレの人イエスのかけられた 十字架は子供の絵本の中にあったのではなく、この地上に立てられていたの です。その流された血は、私たちの立っているこの同じ地面が吸い込んだの です。

 一方、「キリスト」とは、神によって油注がれた者、メシアを意味します。 神が遣わし給うた救い主です。ですから、この「イエス」と「キリスト」が 並べられること自体に、強烈な主張が込められていることが分かります。十 字架にかけられたあのナザレの人イエスこそ、神の遣わされたキリストであ るという主張です。他ならぬあの御方こそキリストなのだという信仰告白な のです。それは、あのナザレのイエスにおいて、決定的な神の御業がなされ たことを言い表しています。神は、この世界において、この歴史の中におい て、ただ一度限りの決定的なこととして、メシアを十字架にかけられたので す。そのようにして、事実として、罪の贖いを成し遂げられたのです。人間 の罪が事実であるように、罪の贖いもまた事実でなくてはならないからです。

 このナザレの人イエスにおいて起こった出来事、そしてその出来事を言い 表す信仰の告白こそが、私たちの土台、教会の土台であります。そして、誰 もこの土台以外の他の土台を据えることはできない、とパウロは言うのです。 パウロがコリントの教会の創設者でありましても、パウロ自身は教会の土台 ではないのです。また他の教師たちも、たとえいかなる知恵の言葉を語る教 師でありましても、その人は教会の土台とはなり得ないのです。いかなる深 遠な思想も、どんなに深い霊的な体験も、教会の土台とはなり得ないのです。 土台は人間の心の中にあることや心の中に起こることではありません。神が イエスにおいて為し給うた神の御業であり、その事実です。私たちが良い教 会であることを望むなら、私たち自身がいったい何を土台とし、何を支えと しているかを深く省みなくてはなりません。

●燃え尽きてしまわない材料によって

 続いて、建物を考える上で重要なのはその建築に用いる材料です。パウロ はこの材料について次のように語っています。「この土台の上に、だれかが 金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに 出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火 と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するから です。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けま すが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をく ぐり抜けて来た者のように、救われます」(12‐15節)。

 材料は明らかに二通りに分けられています。「金、銀、宝石」と「木、草、 わら」です。その違いは14節と15節に書かれているように、残るか、そ れとも燃え尽きてしまうか、ということです。イエス・キリストという土台 の上に教会が建て上げられていきます。しかし、それが残る場合もあるし、 燃えて無くなってしまう場合もあるということです。どのように建てられた かは、「かの日にそれは明らかにされるのです」と書かれています。「かの 日」というのは、「かの日が火と共に現れ」と書かれていますように、これ は終末における審判の日を意味します。それは神がまことの神として、キリ ストがまことの主として御自身を現される時に他なりません。その時に、神 に逆らっているか神に従っているか、キリストに逆らっているかキリストを 主として従っているかが問われます。そこに裁きがあるのです。その時に、 神の御前で、キリスト・イエスの御前で、教会において残るものと燃え尽き てしまうものとに分かれるのです。その時に教会は吟味されることになるの です。どのように教会が建てられてきたかが吟味され、明らかにされるので す。

 しかし、私たちはこの「かの日」を、ただ単に遙か彼方に見ているだけで あってはなりません。オランダのある神学者はその著書の中でこう言ってい ます。「すべての悪が、恐らく私たちがしばしば求めるようには、歴史の中 で裁かれ、報復されはしません。多くの悪が依然として存続しています。そ れはさしあたり神の愛と忍耐のマントによって覆われ、最後の審判の日の裁 きまで取っておかれます。しかし確かに歴史の中には、すでに先行している 神の審判もあります」。確かに、私たちはこの歴史的なプロセスの中で、終 末に先行する神の審判のもとにあると言えます。事実、社会の情勢が変化す る中で、私たちの生活環境が変化する中で、教会の置かれている状況が変化 する中で、私たちが主に従ってきたのかそうでないのか、主に従うつもりが あるのかそうでないのか、そのことを問われる時があるのです。そして、そ のような裁きの過程において、やはり残るものと燃え尽きてしまうものに分 かれるのです。それまでどんなに見てくれが良く、大きく豊かに見えていた としても、それが神の御心に適わないならば、それが本当は木や草やわらの 類で出来たものでしかないならば、燃え尽きてしまうのです。そのような試 練を経た教会はたくさんあります。私たちも決して例外ではありません。

 ならば、私たちが教会を考える時には、現在の状態の表面的なことだけを 見ていてはならないのです。良い教会であることを願うならば、神の審判の 火に耐え得る、燃え尽きないで残るものを求めていかなくてはなりません。 私たちの願いからではなく、神への従順から生み出されるものを求めていか なくてはならないのです。

●神の神殿を建てる

 さて、私たちは最終的に、そのようにして建てられる教会とは何であるか を知らなくてはなりません。パウロは次のように語っています。「あなたが たは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知 らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでし ょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」 (16‐17節)。

 私たちが求道を始めた時、多かれ少なかれ、私たちが考えていたことは、 「わたしにとって神は必要であるか否か。わたしにとって信仰は必要である か否か」ということであったろうと思います。そして、その延長上に、「わ たしにとって教会は必要であるか。教会に行くことは私にとって益であるか どうか」という問いもまた存在したことでしょう。しかし、それが求道の初 めだけでなく、洗礼を受けて何年経っても考えていることが同じであるなら ば、それはやはり問題であると言えるでしょう。教会が自分のために存在し ているかのように思ってしまう。最初に触れましたように、「良い教会だ」 という言葉が、「わたしにとって好ましい教会」という以上の意味を持って いない。教会が人間のためのものであり、人間の手でどのようにでもできる と考えている。もしそうでありますならば、私たちはパウロにこう言われる かも知れません。「あなたがたは知らないのですか」と。

 知らなくてはなりません。私たちは神の神殿なのです。神殿は人の手によ って作られますが神のものなのです。神のために存在しているのです。神の 栄光のために存在しているのです。神の神殿は聖なるものです。「聖なるも の」とは神のものであるということです。だから、あたかも私たちのための ものであるかのように扱ってはならないのです。「神の神殿を壊す者がいれ ば、神はその人を滅ぼされるでしょう」とまで言われているこの言葉を、私 たちは畏れをもって受けとめなくてはなりません。私たちは、自分たちが神 の神殿とされていることに対する畏れを失ってはならないのです。

 そして、神の神殿とされているという事実にこそ、私たちの喜びもまたあ るのです。教会が私たちにとって好ましいものであることが喜びなのではあ りません。教会が私たちの望みどおりになったら、そこに教会生活の喜びが あるのではないのです。このような私たちが形作る教会が神の神殿とされ、 神が住んでいてくださることにこそ、そのように神が共にいてくださること こそが、私たちの喜びなのです。良い教会であることを願うならば、自分た ちが神の神殿とされている事実に目を向け、この畏れとこの喜びを保ち続け なくてはなりません。

 
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