「小さな群れよ、恐れるな」             ルカ12・22‐34  本日お読みしましたのは、マタイによる福音書にも記されている、大変よ く知られた主の御言葉であります。「思い悩むな」と繰り返されるこの説話 は、誰の心にも忘れ難い印象を残すものなのでしょう。それは「思い悩み」 ということが、ある意味においては万人に共通して関わる事柄であり、そし て誰もが「思い悩まないで生きたい」と願っているからであろうかと思いま す。しかし、そのように良く知られている箇所であるからこそ、私たちは注 意深く読まなくてはなりません。と言いますのも、そのような箇所に限って 大切なことを見落としてしまいやすいからであります。この箇所も、読みよ うによっては「思い悩まないための心の持ちよう」程度の陳腐な勧めの言葉 として受け取られてしまいかねません。もちろん主はそのようなものとして この言葉を語られたのではないのです。そこで、ルカによる福音書のこの箇 所を丁寧に読みますと、これがいわゆる「話の続き」であるということに気 付きます。主は「だから、言っておく」と言いまして、この話をしているの です。前の話に続いているのです。今日の聖書箇所を理解するためには、そ の前に何が書いてあるかをまず押さえておく必要があろうかと思います。 ●あらゆる貪欲に用心せよ  どうぞ13節以下を御覧ください。「群衆の一人が言った。『先生、わた しにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』イエスはその人 に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したの か。』そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさ い。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも できないからである。』(13‐15節)」  ここで「群衆の一人」がしたことは、私たちの目には奇異に映りますが、 当時の社会においては決して異常なことではありませんでした。宗教的教師 が地域社会の民事において調停者の役割を果たすことはいくらでもあったか らです。ですから、この人は他のラビに求めるべきことを、単にイエス様に 求めたに過ぎません。さらに言えば、遺産相続に関しては律法にちゃんと規 定があるのです。この人が訴えているところを見ると、律法によって保証さ れている彼の相続分を兄弟に騙し取られたということなのでしょう。ですか ら、この人がしていることは社会的に見たら間違っていることでも不当なこ とでもないのだろうと思うのです。しかし、主はそこで調停人となることを 拒否なさいます。いやそれだけでなく、この出来事を足がかりとして、「ど んな貪欲にも注意せよ」と語られるのであります。考えて見れば不思議なこ とです。仮に場違いな訴えであったにせよ、この人が当然の権利を主張する ことが、どうして「貪欲」なのでしょう。  さて、そうしますと、主はここで誰の目にも明らかな「貪欲」について語 っているのではないことに気付きます。「あらゆる貪欲」と言われ、「注意 を払い、用心しなさい」と言われるのも、そのことに関係します。主は、当 たり前の日常的な事柄の中にこそ潜む、私たちがしばしば気付かない貪欲の 根っこを問題にしているのであります。それを明らかにするために、語られ たのが、その後のたとえ話です。主はいささか極端な例を持ち出します。し かし、その極端さに目を向けてはなりません。むしろ、誰の内にもある普遍 的な問題をそこに見なくてはならないのです。  16節以下を御覧ください。ある金持ちの家が豊作でした。この人が倉を 建て替えることは、ある意味で当然のことでしょう。しかし、そう思った晩 に命を失います。その人は「愚かな者よ」と呼ばれている。それは豊作も蓄 えも無駄になったからでしょうか。いや、そうではありません。問題は彼の 言葉の中に現れているのです。そこで語られる金持ちの言葉の特徴は、残念 ながら新共同訳聖書では分かりません。あえて言葉を加えて訳すならば、彼 はこう言っているのです。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がな い。」そして思い巡らしてこう言います。「こうしよう。私の倉を壊して、 もっと大きいのを建て、そこに私の穀物や私の財産をみなしまい、私の命 (魂)に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄え ができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」お分かり でしょう。問題は、くどいほど繰り返されている「私の」という言葉にある のです。そのような彼を神は「愚か者よ」と呼ばれるのです。そして、彼が 「私の命に」と言った言葉を取り上げて「今夜、お前の命は取り上げられる。 お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われるのであり ます。  「我が魂よ」という言葉は旧約聖書にもしばしば出てくる表現です。しか し、彼の場合はその伝統的な言葉遣いを用いながらも意味合いが違います。 彼は財産もさらには命までも自分の所有として扱っているのです。そんな彼 を神は「愚か者」と呼ばれます。なぜなら、彼のものではないからです。そ の厳粛な事実は、「私の命」と呼んでいるものが一夜にして取り上げられる ことによって明白になります。そして、同じことがいくらでも私たちの経験 の中にあるでしょう。私たちの所有だと思っていたものが一夜にして取り上 げられる。命さえも一夜にして取り上げられることがあるのです。決して私 たちの支配のもとにあるのではありません。そこに、すべての所有者は神で あるという厳粛な事実を見なくてはならないのです。私たちのもとにあるの は、財産に限らず、能力にしても時間にしても、この世における命にしても、 神から託されているものに過ぎないことを知らなくてはならないのです。  逆に言えば、その認識がないところに貪欲があるのです。神のものを「私 のもの」と主張して生きているところに貪欲がある。そのような人は「自分 のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」と呼ばれるのです。そ れらはこの世の観点からするならば決して不当なことではないわけです。だ から気付かない。それゆえ、そのような貪欲に注意せよと主は言われたので あります。 ●思い悩むな  それに続いて、「思い悩むな」という話が来るのです。ここで新たな問い が生まれます。いったい貪欲と思い悩みとは関係があるのでしょうか。多く の人が悩みと心配を抱えております。しかし、その多くは自分が貪欲だとは 思っていないことでしょう。悩んでいる人は、自分が必要以上の要求や願い を持っているなどとは思わないものなのです。そうしますと、22節の「だ から言っておく」という言葉によって、主が貪欲の事柄と思い悩みの事柄を 関連させているところに、実は大事なメッセージがあるということが分かり ます。私たちはその意図しているところをしっかりと聞き取らなくてはなり ません。  主はここで「思い悩むな」と言われます。そして烏を養われる神について 語られます。さらにさらに野原の花をソロモン以上に装われる神を語られる のです。主は思い悩まないための心の持ち方を語っているのではなくて、父 なる神について語っておられるのです。それは前のたとえ話と関連します。 先に主は命を取り去られる神を語りました。そのことによって、財産も、命 さえも、人に属するのではないことを示されたのです。すべては神のものな のです。同じことを、主はこの話において、烏を養われる神を語ることによ って示しておられます。花を装われる神を語ることによって示されるのです。 野に出て見ればわかることです。そこには神から食べ物を受けて生かされて いる烏がいる。自ら労して紡ぐわけではないのに、ただ神によってきれいに 装われている野の花がある。彼らの姿こそ、命や体はいったい誰のものであ るのか、命と体を支えるすべてのものは誰の所有であるかを明らかに現して いるのです。そして、すべての所有者である父の慈愛のまなざしが、汚れた ものとされている烏にも、明日は枯れゆく草にさえも向けられている。そし てさらに尊いものとして、人の命にも体にも目が向けられている。その事実 を、主は語っておられるのであります。  しかし、貪欲における問題の根は、思い悩みにおける問題の根と同じです。 人はすべてが神から来ていることを忘れてしまうのです。神の慈愛によって 養われていることを忘れてしまう。そして傲慢にも身の回りにあるものが自 分のものであるかのように主張し始めるのです。「私の、私の」を、いつの まにか繰り返しているのです。  私たちはここで、思い悩みはどこから来るのかを、よく考えねばなりませ ん。思い悩みは欠乏から来ると人は考えます。必要なものが不足している、 欠けている。もちろん、私たちの状況はそれぞれ違うでしょう。私たちの身 近なところでは食べ物と着る物についての思い悩みはないかもしれません。 しかし、ある時にはお金が足りない。時間が足りない。能力が足りない。夫 や妻の愛情が足りない。助け手が足りない。そこに問題があると考えるわけ です。しかし、本当は何かが欠けているところに問題があるのではないので す。そうではなくて、むしろ満ちているところに問題があるのです。何が満 ちているか。「私の」という言葉が満ちているのです。あるいは、あえて欠 けているのが何であるかを言うならば、すべては神のものであるという認識 が欠けているのであり、「私」が満ちて「神」が欠けているところにこそ思 い悩みの根があるのです。それゆえ、主は「信仰の薄い者たちよ」と言われ るのです。思い悩みに深く関わっているのは、実は周りの状況ではなくて、 神との関係であり信仰なのであります。 ●あなたがたの父は神の国をくださる  このように、思い悩みは欠乏そのものから来るのではないので、不足して いるものをひたすら求めても本当の解決にはなりません。どうしたらよいの でしょう。まず求むべきものがある、と主は言われます。「ただ、神の国を 求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。(31節)」 神の国とは神の支配です。真の解決は「私の支配」を拡大するところにはあ りません。欠けていたり不足しているものが私の支配の内に置かれ、私の自 由になることによって、解決が来るのではないのです。そうではなくて、す べての真の所有者であられる神が御支配くださり、その支配の中において神 のものとして生きるところに、真の解決があるのです。だから必要なことす べてをご存知である神が治めてくださることを求めるべきなのであります。 そして、その神の御支配が完成することをひたすら求めるべきなのであり、 私たちが完全に神のものとして生きられることを求めるべきなのであります。  そして、これが「弟子たち」に対して言われた言葉であることも見落とし てはなりません。22節に書かれている通りです。主に従った弟子たちこそ、 まさに日毎の食物や着るものについて思い悩まざるを得なかった人々であり ました。また、この弟子たちに対する言葉をルカがここに書き記したのは、 他ならぬルカの時代の教会に対する言葉を、その主の御言葉の中に聞いたか らであります。迫害の時代、この世の権力の前にまったく無力であった小さ な群れがあったのであります。その群れに対しても、主は「神の国を求めよ 」と語られたのであります。この世にあっても、来るべき世にあっても、神 の支配のもとにあって、完全に神のものとして生きることこそ、彼らが求め るべきものなのです。そして、神の国を求める群れに対して、主は大いなる 約束を与えられるのであります。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの 父は、喜んで神の国をくださる。」  私たちもまた、この言葉を私たちへの語りかけとして聞かなくてはなりま せん。週毎の礼拝において捧げられる「主の祈り」において「御国を来たら せたまえ」と祈り続けている私たちであることを忘れてはならないのです。 「教会に必要なのは資金であり、有能な指導者であり、多くの働き人や協力 者なのです。」あなたはそのように言いますか。「私に必要なのは奉仕でき る力であり、時間であり、若さであり、健康であり、周りの理解なのです。 」そう言いますか。父なる神は何が私たちに本当に必要であるかをご存知で す。イエス様がそう言っておられるではありませんか。その上でなお「ただ 神の国を求めなさい」と言われるのです。そして言われるのです。「小さな 群れよ、恐れるな。あなたがたの父は、喜んで神の国をくださる。」  そして、その後に「自分の持ち物を売り払って施しなさい(33節)」と いう言葉が来ます。これもそれまでの話の流から理解する必要があります。 単なる慈善の勧めではありませんし、一切の経済活動を放棄せよということ でもありません。ここに言われているのは、神の国を祈り求める者の具体的 な姿なのです。貪欲、思い悩みいずれも、すべての所有者が神であることを 忘れ、自分の命までも「私のもの」として生きているところにありました。 ここで勧められているのは、まったくその逆のことなのであります。すべて のものは神のものであり、神の御支配のもと、神の御心のままに用いられる べきなのです。  もとより、これらが弟子たちに対して語られた言葉であるならば、彼らが 「売り払って施す」ことができるものなど、いくらもなかったことでしょう。 初期の教会においても、バルナバなど畑を売った人たちもいたにせよ、大方 は貧しい人々であったろうと思われます。迫害の時代ならなおさらでしょう。 しかし、いつの時代でありましても、たとえ貧しくても、その持てるものを 神のものとして用いるよう呼びかけられ、そして、その呼びかけに答えてい った人々の姿があったのです。もちろん、捧げ得たものはそれぞれ違ってい たことでしょう。同じ主の呼びかけは私たちにもなされています。それゆえ、 神の国を祈り求める者として生きるとは具体的にいかなることを意味するか をよく考えたいと思うのであります。