「神の奥義の管理者」
2001年8月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント3・18‐4・5
●自分を欺いてはなりません
馬鹿にされたり、愚か者扱いされることは、しばしば悲しみや痛みに耐え ることよりも耐え難いものです。もちろん、「わたしは本当に愚か者です」 と自分を卑下して語る人もいないわけではありません。しかし、それを聞い た周りの人が皆一斉に頷いたらどうでしょう。やはりそのような人であって も、内心腹立たしい思いを抱くことでしょう。私たちは皆、自分が本当に愚 かだとは思っていないのです。心のどこかで自分は賢いと思っているもので す。そのように自分を見なしたいし、人にも認めてほしいのです。
そのような人間の心のありようは、神に対しても同じです。人は神に対し てさえも、自分は賢いと思っているものです。私たちはしばしば神のなさる ことを理に適わないと感じます。聖書に記されている神の姿や行為は、とて も受け難いように思える時があります。聖書を読んで、「こんな神さま、私 の考えている神さまと違う!」と言う人もいます。それは、言い換えるなら ば、自分の考える神さまの方がよほど神さまらしいということでしょう。こ のように、人は神がどのように行動すべきかを規定できるほど自分は賢いの だと考えていることさえあるのです。
さらに言いますならば、人は救いの事柄に関しても、自らの賢さを主張す るものです。救いは求めます。しかし、自分の思った通りの仕方で救われた いのです。メシアは欲します。しかし、メシアは自分の思った通りの救い主 でなくてはなりません。なにも現代人だけの話ではありません。イエスさま の弟子たちもそうでした。主はある時弟子たちに問われました。「あなたが たはわたしを何者だと言うのか」。するとペトロはこう答えたのです。「あ なたは、メシアです」。するとイエスさまは弟子たちに、ご自分が必ず多く の苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日 の後に復活することになっている、と教えられたのです。そこでペトロはど うしたでしょうか。「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(マルコ 8・32)と書かれているのです。
後にも先にも、イエスさまをいさめた弟子はペトロだけです。しかし、私 たちはペトロを笑えません。同じことは今でも起こります。現代のペトロは 言うのです。「イエスさま、十字架だ復活だなどと言っても誰にも理解され ませんよ。教会が語る言葉は、即座に理解され、感動を与え、その日から役 に立つことでなければなりません。そうでなければ現代人に通用しませんよ。 」キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださったこと、人は洗 礼を受けてキリストと共に死んで復活すること、聖餐を通してキリストの血 と肉にあずかり、キリストの命にあずかって生きることなどは、自分の考え 通りに救われたいと願う人にとっては、まことに愚かなことにしか聞こえな いことでしょう。
しかし、パウロは今日の聖書箇所で次のように語っています。「だれも自 分を欺いてはなりません」(3・18)。つまり、自分を賢いと思っている ことは、自分に対する欺きに他ならないとパウロは言うのです。つまり私た ちは皆、本当は賢くはないのだ、ということであります。厳しい言葉です。 しかし、言われて見れば、確かに事実ではないでしょうか。私たちが自分を 欺かず、正直になって自分を振り返ってみるならなどうでしょう。人間がど れほど口で偉そうに語ってみたところで、もともと人生の根本的な問題につ いては何一つ答えを持ち合わせてはいないのが人間の現実です。死に対する 答えを持っていません。生に対する答えもありません。人間を支配する罪に 対して何らの解決も持ち合わせておりません。我が身ひとつどうすることも できません。自分の生活の中の小さな問題一つ解決できません。罪と死のも とにある人生の目的と意義について、何の答えも持っていません。そのよう な私たちが、自分の救いようのない状態に目を塞ぎ、あたかも自分が神より も道理をわきまえていると考えているならば、それこそ自分を欺くことであ り、虚しい思い込みであり、思い上がりに他ならないのです。
それゆえ、パウロは言うのです。「もし、あなたがたのだれかが、自分は この世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるため に愚かな者になりなさい」(18節)。私たちはあえて愚かになる必要があ ると聖書は言うのです。それは正常な思考の放棄しろということではありま せん。むしろ正常な思考をもって自らを正直に省み、自分自身がまったく愚 かであることを認めることに他ならないのです。自分がしがみついていた賢 さと、その賢さゆえのプライドを捨てて、神の前にへりくだることです。そ して、神の知恵、神の救いの言葉、福音の真理に自分自身をゆだねることな のです。既に1章21節において次のように語られていたとおりです。「世 は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっ ています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、 お考えになったのです」。
●だれも人間を誇ってはなりません
さて、私たちは、ここに書かれていることが、そもそもコリントの教会の 中に生じた分派争いに関することであったことを忘れてはなりません。パウ ロもそのことを忘れてはおりません。「ですから、だれも人間を誇ってはな りません」(3・21)とパウロは続けるのです。こう言うのは、彼らが 「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」など と言っていたからです(1・12)。
人間を誇るところに分派争いが生じます。私たちが一人の人間を誇る時、 他の人を見下したり裁いたりするようになります。「わたしはパウロにつく 」と言っている人は、決してアポロやケファにはつきません。アポロやケフ ァを見下したり裁いたりするようになります。一人の人間を持ち上げる時、 他の人間をないがしろにするのです。
私たちは、この世の知恵が神の前に愚かなものであることを認め、神の前 にへりくだらなくてはなりません。そして、私たちはただ十字架にかけられ たキリスト、それゆえに「神の力、神の知恵であるキリスト」(1・24) よらずしては救われ得ない者であることを心に留めなくてはなりません。そ して、そのことを自分自身について考えるだけではなくて、他のいかなる人 も同じであることを思わなくてはならないのです。それは、パウロのような 偉大な使徒であっても、アポロのような雄弁家であっても同じです。彼らも また救われた罪人に過ぎないのです。
彼らは、パウロやアポロ自身にではなく、神が彼らに託している事柄に目 を向けるべきでありました。彼は次のように続けます。「こういうわけです から、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだね られた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実で あることです」(4・1)。自分はキリストに仕える者に過ぎないのだ、と パウロは言うのです。自分はゆだねられた福音の真理を管理している者に過 ぎないのだ、と。管理人は所有者とは違います。彼は託されているだけです。 本質的に彼が持っているのは管理する仕事だけなのです。
ここで直接的に語られておりますのは、パウロやアポロの教職としての務 めです。ですから、まず第一に、牧師である私に関わっている言葉です。私 は、ここに記されている言葉を重く受け止めなくてはならないと思います。 しかし、神の秘められた計画、すなわち福音の奥義を委ねられているのは教 職だけではなく、教会全体もまたこれに関わっております。私たちが考えな くてはならないのは、必ずしも牧師のことだけではありません。私たちは皆、 それぞれの仕方において、福音の真理を託されているのです。そして、それ ぞれの仕方において、神より務めを与えられているのです。それは必ずしも 教会の中の奉仕の話だけではなく、キリスト者の全生活がそれに関わってい ます。
そこで、私たち皆、人にではなく、神が各々に託している事柄に目を向け ることを学ばなくてはなりません。それぞれが最終的に有しているのは、神 から与えられた務めだけなのです。私たちが自分自身についても、他人につ いても、そのことをわきまえるならば、一人を持ち上げて他の者を見下した りすることはなくなるでしょう。また、他人をうらやんで自分自身を卑下し たりすることもなくなるでしょう。なぜなら、神が一人一人に託される務め は、その人固有の事柄なのであって、他者にゆだねられている務めと比較さ れるべきものではないからです。
ですから、パウロは自分が人からいかなる評価を受けるかということには、 まったく関心がありませんでした。人の誇りにされることだけでなく、裁か れることについても無頓着です。「わたしはアポロにつく」と言っている人 が、どんなにパウロを馬鹿にしようと裁こうと、それはどうでも良いことな のです。大事なのは、人からどのように見られるかではなく、主から委ねら れたことに忠実であるかどうかだからです。彼は言います。「わたしにとっ ては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問 題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分に は何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではあ りません。わたしを裁くのは主なのです」(4・3‐4)。そうです、人が どう考えるかではなく、主がどう見なされるかが大事なのです。
しかし、それは主の裁きを恐れて、戦々恐々として仕えていくということ ではありません。パウロはさらに次のように語ります。「ですから、主が来 られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されてい る秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、… 」(5節)。このように聞きますと、私たちは次のように続けたくなること でしょう。「そのとき、おのおのは神に罰せられることでしょう」。しかし、 パウロはそうは言いません。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずか ります」。彼は裁かれることではなく、報われることを考えているのです。
私たちが本当に主に忠実なしもべであるためには、人から見られ評価され ることよりも遙かに多くの「隠れたこと」が大事になってまいります。誰か らも理解されなかったとしても、行ったことの意図、心の企てそのものが重 要になってくるのです。そして、主がそのすべてを理解していてくださるの です。そのことを忘れると隠れた事柄を大切にしなくなります。その結果、 忠実でもなくなります。最終的に主の御前で意味を持つのは、忠実な管理者 として生きたかどうかなのであって、人から賢い者としての誉れを受けたか どうかではないのです。