説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「深き淵より」

2001年8月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編130編

●深い淵の底からあなたを呼びます

   深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
   主よ、この声を聞き取ってください。
   嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
                    (1‐2節)

 ここに深い淵、底無しの深みに落ち込んでしまっているひとりの人がい ます。彼の置かれている具体的な状況は分かりません。それが病気なのか、 人生の失敗なのか、人間関係における苦悩なのか、外敵による迫害なのか 分かりませんが、とにかく彼は何らかの具体的な苦しみの中にいるようで す。

 しかし、彼の苦しみが、単に外的な状況の厳しさによるものと考えては なりません。「深い淵」という言葉には、それ以上のことが表現されてい るのです。彼はその底から呼んでいます。これは「叫ぶ」とも訳し得る言 葉です。「この声を聞き取ってください!」と叫んでいるのです。叫ばな いと聞こえないからです。そこに存在しているのは「距離」です。叫ばざ るを得ない、無限とも思えるような距離があるのです。誰との間にでしょ うか。そうです、彼が呼び掛けている方、すなわち神との間の距離であり ます。深い淵のその深さとは、神との隔たりなのであります。

 そこに彼の苦しみの本当の深さがあります。具体的状況もさることなが ら、彼の本当の苦しみは、人生の危機において、まことに「神」と呼べる 方を近い所に見出せないところにあるのです。その深さは祈りさえ届かな いのではないかと思えるほどの深さなのです。

 これは決してこの詩人だけの苦悩ではありません。私たちは人生の途上 において様々な境遇の変化を経験します。多くの問題を抱え、光が見えず、 まことに「深い淵の底」にいるように思える時があります。しかし、人間 にとって最大の問題は、もっと深い所にあるのです。すなわち、人が神か ら遠く隔たってしまっていること、そして具体的な苦悩の中でまことに 「神」と呼べる方が近くに見出せない所にこそあるのです。

 叫び呼ばわるこの詩人が、後に3節でこう語ります。「主よ、あなたが 罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」。この言葉 からわかりますように、彼の本当の問題は彼の不義と罪にあることが分か ります。私たちを神から遠く隔ててしまうのは、他ならぬ私たちの罪なの です。イザヤ書にも次のように書かれています。「主の手が短くて救えな いのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの 悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お 前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(イザヤ59・1‐2)。 この世には多くの不幸があります。しかし、罪が人と神とを隔てているこ とこそ、人間にとって最も大きな不幸です。私たちの深淵の深さは、私た ちの罪の深さに他ならないのです。

 この「深い淵の底から」という言葉は、詩篇69篇にも用いられている 言葉です。「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。 わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深い底にま で沈み、奔流がわたしを押し流します」(詩篇69・2‐3)。 ここで 「大水の深い底」と訳されているところに、詩篇130篇で「深い淵の底」 と訳されていた言葉が用いられております。

 ここからわかりますように、130編において詩人が「深い淵の底」と 言う時、それは努力すれば這い上がれるような場所を言っているのではあ りません。まさに、「足がかりもない深い沼」のような、もがけばもがく ほど深みにはまっていくような、そのような中に自分がいることを言って いるのです。

 それが罪というものです。罪が私たちと神とを引き離している時、それ ゆえに深い淵にいる時、そこから自力で這い出す足がかりとなるものは何 もないのです。私たちの努力も、良き業も、この深みから這い出す足がか りとはならないのです。私たち自身の内になんの可能性もありません。ど うしたら良いのでしょうか。この詩人はどうしているでしょうか。「深い 淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と彼は言っています。彼は呼んで いるのです。叫んでいるのです。「主よ、この声を聞き取ってください」 と、深きところより力の限り叫んでいるのです。叫ぶことしかできないか らです。深き淵に沈んでいく者にとって、希望は自らの内にはないからで す。希望はただ神の救いにしかないからです。だから叫び求めるのです。

 「神しか私を救い得ない」――彼の心を占めているこの一事を知るのに、 私たちは何と時間のかかることでしょうか。私たちはいつまでももがきな がら足がかりをさがして主に向かって叫びません。最後まで自分の内に可 能性を探して、主に向かって本気で叫びません。しかし、そうしている限 り救いはないのです。希望はないのです。救いは神にこそあるからです。

●赦しはあなたのもとに

   主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
   主よ、誰が耐ええましょう。
   しかし、赦しはあなたのもとにあり
   人はあなたを畏れ敬うのです。
                   (3‐4節)

 彼は自らのいる所の深さを知っています。這い上がれない深さを知って います。なぜなら、彼は、主が罪をすべて心に留められるならば、だれも 御前に立ち得ないことを知っているからです。ある人はこの「心に留める 」と言う言葉を「書き留める」と訳しました。この人がいる「深い淵」の 深さを、自分のこととして理解しようとするならば、私たちの罪をひとつ 残らず書き留めておられる神の姿を思い描くとよいかも知れません。私た ちの罪と不義を、それが表に現れたものであっても、隠れたものであって も、行為であっても、心の中の出来事であっても、主がすべて記録してい るとするなら、誰が主の御前に立ち得るでしょうか。そのときたとえ苦悩 の中にあったとしても、誰がそこからの救いを当然のことのように求める ことができるでしょうか。むしろもし神が近くにおられるなら、私たちは 滅びざるを得ないではありませんか。

 彼はその深さを知っておりました。しかし、それにもかかわらず彼は主 を呼び求めます。彼はたったひとつの可能性に賭けているからです。それ は「神の赦し」です。彼はイスラエルの民によって言い伝えられてきた神 の慈しみと赦しを信じ、そこに依り頼むのです。彼は救いを求めて叫びま す。しかし、もし救いと呼べるものがあるなら、それは最終的には「神の 赦し」によって神との交わりが回復するところにしかありません。もちろ ん、具体的な問題が解決することを救いと呼ぶこともできるでしょう。し かし、「神の赦し」なくして、神との交わりの回復なくして、本当は何も 解決してはいないのです。神との関係が変わらないならば、その人は依然 として深い淵の底にいることには変わりないのです。

●わたしの魂は主を待ち望む

 主に叫び求めていた彼のかすかな希望は、やがてその祈りの中において 確信に満ちた待望へと変わっていきます。彼は言います。

   わたしは主に望みをおき
   わたしの魂は望みをおき
   御言葉を待ち望みます。
   わたしの魂は主を待ち望みます
   見張りが朝を待つにもまして
   見張りが朝を待つにもまして。
                  (5‐6節)

 ここで「見張り」と呼ばれているのは、神殿を警備するレビ人であろう かと思われます。見張りが朝を待つのは必ず朝がやって来るからです。夜 がたとえ月の光さえない真っ暗闇であっても、必ず暁の光がおとずれるこ とを彼等は知っているのです。だから待つのです。

 そのように、この詩人も主を待ち望みます。見張りが朝を待つのにもま さって。今は夜の闇の中にいるようなものかもしれません。しかし、朝は かならず訪れるのです。このように、彼はもはやただ闇夜の中を生きてい る人ではありません。朝を待つ人なのです。そして、彼が朝を待つ人であ り得るのは、赦しが神のもとにあることを知ったからです。ですから、彼 はただ「主に望みをおく」と言うだけでなく、「御言葉を待ち望みます」 と語ります。彼が主を呼び求め、主が語り給う。この神の赦しに基づく、 神との交わりのあるところには、既にそこに救いがあることを知っている からです。

 先に述べましたように、彼がどのような状況にいて苦しんでいたかは、 この詩からは分かりません。この詩の前半と後半において、恐らく外的状 況はそれほど変わってはいませんでしょう。しかし、この詩の後半におい て、もはやそのような具体的な苦悩というものには捕らわれていない人を、 私たちここに見るのです。主の赦しを信じ、主を待ち望み、御言葉を待ち 望む彼は、もはや「深い淵の底」にはいないのです。

   イスラエルよ、主を待ち望め。
   慈しみは主のもとに    豊かな贖いも主のもとに。
   主は、イスラエルを
   すべての罪から贖ってくださる。
                  (7‐8節)

 救いを待望するイスラエルに対して、彼は「主を待ち望め」と語ります。 慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとにあるから、主を待ち望みな さいと語りかけるのです。

 主には慈しみがあり、また豊かな贖いがある。その主のみもとから一人 のお方が私たちのもとに来られました。その御方はこの人間世界の苦しみ のただ中に来られました。人間の経験する最も深い淵の底にまで、いやも っと深いところにまで、降られました。彼はそこから叫びました。「わが 神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。その御方の名は イエスと言いました。「主は救い」という意味です。もう一つの呼び名は インマヌエル。それは「神われらと共にいます」という意味です。

 あの詩人は深き淵の底より遠い所に向かって叫びました。私たちは救い 主が深き淵にまで降ってきてくださったことを知っています。救いが既に 来たのです。かの詩人が待ち望んでいた神の言葉は、一人の御人格として 私たちのもとに来られたのです。それゆえに、私たちはあの詩人よりも大 きな喜びと確信をもって「慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。 主を待ち望め!」と語り得る者とされているのです。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡