「高慢の危険」
2001年9月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント4・6‐13
●高ぶることがないようにするため
これまでに述べてきたことは、コリントの人たちが「書かれているもの 以上に出ない」ことを学ぶためだ、とパウロは説明しています。「書かれ ているもの以上に出ない」という言葉が何を意味するのかは良く分かりま せん。しかし、意図はその後の言葉によって説明されています。「だれも、 一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないように するためです」と言うのです。パウロが問題にしているのは彼らの「高ぶ り」なのです。
「一人を持ち上げ、一人をないがしろにする」というのは、要するに人 間と人間とを比較するということです。私たちは通常、比較をし、優劣を 重要視する世界に生きています。もちろん、それは他の人々を比較するこ とだけではありません。他の人々を比較する人は、必ず自分と他人をも比 較するものです。そして、優越感に浸ったり、劣等感に苛まれたりして生 きるのです。
パウロは、そのような生き方から彼らを引き戻そうとしています。これ までに自分とアポロについて語ってきたのもそのためでした。そのために、 パウロは、人間にではなく、ひたすら神に彼らの思いを向けさせようとし ているのです。
パウロは言います。「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたの は、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったも のがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったよう な顔をして高ぶるのですか」(7節)。
痛烈な言葉です。しかし、私たちもまたしっかりと聞かなくてはならな い言葉です。確かに、有能な人について、英語で"gifted"と表現すること があります。それが"gift"であり贈り物であるならば、それは本来、能力 がもともとその人にあったのではなく、誰かから「与えられた」ことを意 味しているはずです。あるいは、日本の教会でも「あの人は賜物を与えら れている」というような表現を用います。賜物はもともと所有していたの ではなく「与えられた」ものです。しかし、そのいずれの表現が用いられ たとしても、私たちは往々にして与えてくださった方のことは考えていな いのではないでしょうか。確かに、パウロが言っているように「いただか なかったような顔をして」いるのではないかと思うのです。
さらに言うならば、ここで「あなたをほかの者たちよりも、優れた者と したのは、だれです」と訳されておりますが、それは直訳ではありません。 ここは直訳すると「ほかの者たちと異なる者としたのは」と書かれている のです。一人ひとりを異なる者とするのは、もちろん神に他なりません。 神が異なるものを与え、一人ひとりを異なる者とするならば、そこで重要 なのは「優劣」ではないはずです。そうではなくて、大事なのは目的と意 図の違いであるはずではありませんか。しかし、与えてくださった方が忘 れられる時、異なることの意味が考えられることはありません。優劣の意 識だけが一人歩きを始めます。
そこに人間の高ぶりの問題があります。何も自分の優秀さを誇るところ にだけ高ぶりがあるのではありません。自分を卑下する人にも高ぶりがあ ります。劣等感の中にも高ぶりがあります。そもそも、神からいただいて いることを忘れていることが高ぶりだからです。いただかなかったような 顔をして生きていること自体が高ぶりなのです。
さて、ここでパウロが語っていることは、もちろんこの世における一般 常識ではありません。この世の常識からは「いったいあなたの持っている もので、いただかなかったものがあるでしょうか」などという問いは生じ ません。ここに語られているのは、あくまでも信仰による認識です。しか し、問題は、本来あるべきはずの信仰による認識が失われているというこ とにあります。ここで語りかけられているのはコリントの信徒たちなので す。教会の人々なのです。彼らが、信仰者でありながら、信仰を持たない 人のように考えて生きているということが問題なのです。既に3章3節で パウロが言っていました。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、 あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということにな りはしませんか」。
パウロがこのように教会の人々に語っているということは、私たちにと っても、これが他人事ではないことを意味します。私たちは、繰り返し繰 り返し、信仰者としての正しい認識を呼び起こされなくてはなりません。 長く教会生活をしていても、役員であっても、牧師であっても、分かって いないこと、忘れてしまっていること、思い違いをしていることがあるか らです。特に高ぶりの問題は、気づかぬうちに信仰生活の中にしのびこん でいるものです。
●富み栄えた人々
正しい認識を呼び起こすために、パウロはさらに厳しい言葉を投げかけ ます。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたした ちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になってい てくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に 王様になれたはずですから」(8節)。
満足し、大金持ちになっているというのは、もちろんパウロの皮肉です。 コリントの信徒たちが、実際にはそうではないのに、そう思い込んでいる ということです。あたかも神の国の王にでもなっているかのように思って いるのです。すべてを神からいただいているという認識がないままに満腹 しているならば、そこにはもはや神の恵みの入る余地はありません。彼ら は本当の意味で神の恵みを求めることもないでしょうし、感謝することも ないでしょう。そのような姿は、ヨハネの黙示録に出てくるラオディキア の教会と同じです。黙示録3章17節には、主がラオディキアの教会に対 して語られた次のような言葉が記されています。「あなたは『わたしは金 持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分 が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが 分かっていない」(黙示録3・17)。
主イエスはかつて「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人た ちのものである」(マタイ5・3)と言われました。自分自身の貧しさを 知る人は神に求めます。神から与えられている小さなものについても感謝 します。既に富み栄えている人は、そうではありません。主イエスによれ ば、それはとても不幸なことなのです。
パウロは「わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっている」とコリ ントの人たちを表現します。パウロたちを抜きにしてということは、伝道 者を抜きにしてということであり、神の言葉を抜きにして、ということで す。パウロたちを通して語られる福音さえも必要としないということは、 言い換えるならば、キリストさえも必要としていないということに他なり ません。キリストなしで王様のようになっているということは、まことに 恐るべきことです。しかし、教会が、キリスト者が、そのような姿となっ てしまうことはあり得ることです。
●キリストに従う使徒たちの姿
そこでパウロは、自分たちと彼らの姿を、あえて対比させて語ります。 9節以下をご覧ください。「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まる で死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世 界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリス トのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者 となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは 尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたした ちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労 して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍 び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたした ちは世の屑、すべてのものの滓とされています」(9‐13節)。
パウロは自分たちの姿を、ローマの闘技場で戦いの見せ物として最後に 引き出される死刑囚と重ね合わせます。そこにはこの世的に尊敬され賞賛 される要素は何もありません。この世の栄光と結びつくものは何もありま せん。しかし、そこでこそ、彼はキリストと共にあるのです。パウロが宣 べ伝えるキリストは、十字架につけられたキリストに他ならないからです。
人間と人間とを比較し、その優劣こそが決定的な意味を持つ世界におい ては、賢い者とみなされること、強い者とみなされること、尊敬を勝ち取 ることが重要となります。そして、事実、コリントの信徒たちが求めてい たのは、賢い者となることであり、強くなることであり、尊敬されること でした。そして、それらを彼らはある程度勝ち得ていたのです。それらを 得て満足していたのです。そのような彼らに対して、パウロは激しい言葉 をもって、使徒としての自分の姿を示します。キリストと共にあり、キリ ストに従い、キリストを宣べ伝えるということがどういうことなのかを示 すためです。それは本来、彼らが求めてきた姿とはおおよそかけ離れた姿 なのだということを示すためなのです。
使徒としてのパウロの姿を、私たちもまた心に留めなくてはなりません。 私たちもまた、いつの間にか、教会にとって重要なのはこの世的な力を得 ること、知恵を得ること、この世において尊敬や賞賛を勝ち取ることであ ると思っているからです。世間の注目を集め、影響力を持ち、格好良くて 魅力的であることが、教会の伝道には不可欠であると考えてしまっている ことはないでしょうか。
パウロは少しも格好良くありません。強くもありません。「侮辱されて は祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返してい ます」などという言葉は、この世の強者の言葉ではありません。しかし、 そのような使徒たちを通してこそ、キリストは宣べ伝えられたのです。十 字架にかけられたキリストは、そのようにして宣べ伝えられたのです。コ リントの信徒たちも、そのような彼らを通してキリストを伝えられたはず なのです。そのことを彼らは思い起こさなくてはならないのです。そして、 私たちもです。私たちが本当に考えなくてはならないのは、いかにしたら 私たちはこの世の人々から賞賛され見上げられるような存在になれるかで はありません。むしろ、十字架にかけられたキリストと共にあってどれだ け低くなれるかということなのでしょう。