「わたしに倣う者になりなさい」
2001年9月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント4・14‐21
「わたしに倣う者になりなさい」(16節)。そうパウロはコリントの信 徒たちに書き送ります。パウロがこう言っているのは、コリントの信徒たち に対してだけではありません。同様の勧めはフィリピの信徒への手紙にも見 られます(フィリピ3・17)。いやそれだけではありません。今日お読み した箇所によれば、パウロはこのことを「至るところのすべての教会で」 (17節)教えていたようです。要するに、パウロの宣教にとって「わたし に倣う者になりなさい」という勧めは、決して周辺的な特殊なことではなく、 中心的な意義を持っていたということです。今日は、この言葉が私たちにと って何を意味するかを共に考えてみたいと思います。
●わたしがキリストに倣う者であるように
「わたしに倣う者になりなさい」。この言葉自体は珍しい言葉ではありま せん。この世における種々のセミナーにおいて、各分野における成功者が講 師として立てられることを考えてみてください。あることを達成し、賞賛を 得、人々から尊敬されている人が話をいたします。自分がどのような道をた どってきたか、どのような方法を用いてきたかを語ります。そして、私と同 じようになりたかったら、「わたしに倣う者になりなさい」と言います。そ こに何の不思議もありません。
しかし、私たちはこの言葉の意味するところを考える時に、パウロがその 前に書いていることを無視するわけにはいきません。彼は、使徒として自分 たちがどのように生きてきたかを次のように書いているのです。「わたした ちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じ て賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなた がたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」(10節)。そ して、彼はさらに、「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの 滓とされています」(13節)と言うのです。
この世におけるセミナーにおいて、講師として成功者の代わりに「愚か者」 「弱い者」「侮辱されている者」が立ったらどうでしょう。「世の屑、すべ てのものの滓」とされている人が立ったらどうでしょう。そして、その人が 言うのです。「わたしに倣う者になりなさい」。それはこの世の観点からす るならば、それこそ愚かな言葉ではないでしょうか。つまり、これは一般的 常識的な言葉ではないのです。イエス・キリストを信じる信仰に基づいて語 られ、そして聞かれることによって、初めて成り立ち得る言葉なのです。
パウロとコリントの信徒たちの関係は、14節以下において親子の関係に たとえられています。それは単に密接な師弟関係であることを表す比喩的表 現ではありません。大切なのは「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわ たしがあなたがたをもうけたのです」という言葉です。そうです、確かにコ リントの信徒たちは新しく生まれたのです。そこにはパウロとの新しい関係 も生じたのです。それは「キリスト・イエスにおいて」と語られている関係 です。キリストがパウロとコリントの信徒たちに関わっておられます。その キリストとは、パウロが言うように、「十字架につけられたキリスト」(2 ・2)です。「わたしに倣う者になりなさい」というのは、そのキリストの もとでこそ語られ得る特別な言葉なのです。
パウロは何も自分の大きな功績や偉大な行為を並べ立てて、「わたしに倣 う者になりなさい」と言っているのではありません。彼は、ある特別な段階 にまで到達した人間であるからそう言っているのではないのです。彼自身は、 別の手紙において、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に 完全な者となっているわけでもありません」(フィリピ3・12)と言って います。彼の眼差しは、自分自身に向けられているのではありません。ひた すらキリストに、十字架につけられたキリストに向けられているのです。
実は、この手紙の中において、彼はもう一度、「わたしに倣う者になりな さい」と勧めています。その時に、彼はあえて、「わたしがキリストに倣う 者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(11・ 1)と言っております。このように、パウロにとって大切なのはキリストな のです。コリントの信徒たちの内にキリストが形作られるようになることな のです。パウロが求めているのは、ある人々がしていたように「わたしはパ ウロにつく」(1・12)と言って伝道者を持ち上げることではありません。 パウロに倣うことは、すなわち十字架につけられたキリストに倣う者となる ことなのです。それは、コリントの信徒たちの多くにとっては、まさに逆方 向に進み始めることを意味したのではないかと思います。それは私たちにと っても同じであるかも知れません。
●交わりを通して
さらにもう一つのことを心にとめたいと思います。彼は「わたしに倣う者 になりなさい」と語った後、さらにこう記しています。「テモテをそちらに 遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主におい て忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおり に、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こ させることでしょう」(17節)。「わたしの生き方」という日本語は、と もすると「わたしの人生観」という意味にとられかねません。しかし、ここ は直訳すると「わたしの道」と書かれているのでありまして、生活の仕方を 意味します。キリストにある生活、信仰生活です。パウロはそのために、わ ざわざテモテという一人の人間を遣わしました。言葉だけなら手紙で伝えら れます。しかし、生活は手紙で伝達できません。
教会における伝達は、単なる言葉、知識、概念の伝達ではありません。で すから、人が共にいる、共に時を過ごすということが大事なのです。私は幼 いときから過ごしていた教会において、聖書の言葉だけではなくて、教理だ けではなくて、信仰生活を伝えられました。伝道者を通して、先に救われた キリスト者たちを通して、キリスト者であった両親を通して、生活の仕方を 伝えられたのです。もちろん、人間が共にあるところに、罪もまた共にあり ます。時として人間が共にいることはつまづきをもたらします。一人の人間 の生活が、他の人々の信仰生活の妨げになることすらあります。しかし、そ れにもかかわらず、共に存在し時間を共有することなくしては伝達され得な い、信仰における生命的なものがあるのです。
もちろん、私たちは、いわゆる共同生活を営んでいるわけではありません。 私たちは普段はこの世の中に散らされて、それぞれの場で生活をしています。 ですから、時間を申し合わせ、その定められた時に集まり、時を共有するよ うにしているのです。その中心は日曜日の礼拝であり、その日にこの場所で 過ごす時間です。私たちは、顔を合わせ、共に祈り、賛美をし、御言葉に耳 を傾けます。その他にも、この教会には共に集まることができるよう定めら れた時がたくさんあります。
しかし、残念なことに、共に過ごすことができるはずの諸々の機会が、多 くの人々において生かされていないということも事実です。様々な事情や肉 体的な制約のもとに、その機会を生かせない人もいます。本当に気の毒に思 います。教会はそれらの方々のために、新たな機会を設けなくてはならない かもしれません。しかし、必ずしもそのような制約によるのではなくて、私 たちが「集まらないこと」を自ら選択する場合もあります。それは本当に残 念なことです。
ボンヘッファーは、キリスト者の目に見える交わりについて、それが「神 の国からの恵みの賜物であって、いつ何時我々から奪い去られるかもしれな い」ものであると言いました。まことにその通りだと思います。限られた人 生における、それこそ限られた時間を逃していることがどれほど大きな損失 であるかを思い見なくてはなりません。いずれにせよ、「わたしに倣う者に なりなさい」というパウロの言葉は、キリスト者の生活が、その恵みよって 与えられている交わりを通して伝えられるものであることを意味しているの です。
●神の国は力にある
さて、パウロはテモテを送るだけではなく、自分自身もコリントへ行く意 志があることを伝えます。「わたしがもう一度あなたがたのところへ行くよ うなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心 であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている 人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあ るのですから。あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたの ところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことで すか」(18‐21節)。
パウロは、先に「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、 あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、 あなたがたは強い」(10節)と言いました。しかし、彼は今や、コリント の高ぶっている人たちに、本当の力があるかどうかを問題にします。確かに 彼らは優れた知恵の言葉を語り、この世においては強い者とされているかも 知れません。しかし、現実生活の中に現れ出ているのは、ねたみや争いであ り、性的な罪による混乱であり、秩序の崩壊でしかありません。それで本当 に強いと言えるのか、賢い者と言えるのか、真の力はそこにあるのかと言っ ているのです。「言葉ではなく力を見せてもらおう」とパウロは言うのです。
信仰の事柄が目に見える現実世界と切り離されているならば、言葉だけで 良いのです。コリントの教会に入り込んでいたグノーシスと呼ばれる思想傾 向の大きな問題はそこにありました。しかし、グノーシスと戦いながら、教 会はその初めから、この目に見える世界は神の創造された世界なのであり、 信仰の事柄はまさにこの目に見える世界に関わっていると主張してきたので す。もしそうならば、すなわち目に見える「生活」が関わっているならば、 重要なのは真の力がそこにあるか否かということであります。
そして、パウロは既に1章において語ってきたのでした。ユダヤ人にとっ てつまずかせるものであろうが、異邦人にとって愚かなものであろうが、十 字架につけられたキリストこそ神の力、神の知恵なのです。「神の国は言葉 ではなく力にある!」その力は、十字架につけられたキリストから離れたと ころにはないのです。