「古いパン種を除きなさい」
2001年9月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント5・1‐13
●悔い改めを失った姿
コリントの町は、二つの港を有する国際的な都市でした。それは商業によ って繁栄した大都市であると共に、諸国の宗教が混在する宗教的な町でもあ りました。コリントを見下ろす丘の上には大きなアフロディテの神殿があり、 そこには数多くの神殿娼婦たちがおりました。その他にも数多く存在してい た神々の祭儀は、性的な放縦と深く結びついておりました。そのような祭儀 と港町の繁栄は、深刻な倫理的退廃をもたらしていたようです。「コリント 」という町の名前を動詞にした「コリントする」という言葉は、みだらな行 為を行うことを意味したことは良く知られた話です。それが、コリントの信 徒たちの生活の現場でありました。
そのようなコリントにある教会において起こった一つの事例がパウロのも とに報告されます。「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな 行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、あ る人が父の妻をわがものとしているとのことです」(1節)。
一人の教会員が、「父の妻」――恐らく母親ではありません――と性的な 関係を持っていることが、ここで取り上げられております。このような関係 は、旧約聖書においても厳しく禁じられている行為です。「父の妻と寝る者 は呪われる」(申命記27・20)と書かれております。それは「異邦人の 間にもないほどのみだらな行い」とパウロは言います。事実、ローマ法にお いても、そのような関係は禁じられていたようです。
この事例だけではありません。後にパウロは11節で「兄弟と呼ばれる人 で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼ れる者、人の物を奪う者がいれば…」と書いています。それは、事実そのよ うな人々が、コリントの教会にいるであろうことを前提として書かれていま す。そのように、コリントの町に置かれた教会は、その置かれている環境の 深刻な影響下にあったことが分かります。
このような問題は、私たちにとっても無縁ではありません。教会は、この 世の中に建てられております。この世から隔離された世界ではありません。 ですから、この世界のただ中で私たちがどのように生きるかが、いつも問わ れているのです。
過去十年において、この国における性道徳や結婚および家庭に関する価値 観は大きく変化しました。セックスは結婚や家庭と結びつけられないで語ら れることが当たり前になりました。それは結婚前の性行為の話だけではあり ません。既に結婚し、家庭を持ち、子どもを持っている人々の間においても 事情は同じです。離婚が、不倫が、まったく後ろめたさや後ろ暗さを伴わず に、公然と語られるようになりました。そして、これからますますそのよう になることでしょう。
教会は、そのような社会の中において、どのように生きていくのでしょう か。社会の変化と共に、教会も変化してしまうのでしょうか。いや、そうあ ってはならないはずです。なぜなら、私たちにとって大事なのは、この社会 が何を良しとするか、何を認めるかではなくて、神が何を良しとするか、何 を認められ、何を忌み嫌われるかということであるからです。
性の問題に関して言うならば、聖書は、性行為そのものを忌むべきもの、 汚れたものとは語っておりません。神が人を男と女に造られたのです。「産 めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われたのは神なのです。性の交わりは神の 祝福に満ちた賜物です。人は、性の交わりに限らず、この世界において神の 祝福として与えられているすべてのものを、喜び楽しんだら良いのです。
しかし、それは神の賜物であるのですから、神の秩序のもとにあって、初 めて喜びとなるのです。神の定められた秩序が投げ捨てられる時、本来祝福 であったものが祝福でなくなります。呪いとなるのです。性の交わりも同じ です。神の秩序をはずれれば呪いとなります。結婚をはずれた性の交わりを 「自由」と呼ぼうが「解放」と呼ぼうが、それが人間の社会に深い苦悩と悲 しみと憎しみをもたらしているという現実は、これが祝福とならずむしろ呪 いとなっている事実を明らかに示しています。神様抜きの自由社会は、まこ とに苦悩に満ちた社会です。さて、私たちは、そのような世界において、ど のように生きるべきでしょうか。
パウロが、コリントから伝えられたこの件に関して、たいへん厳しく語っ ております。教会はこの世と一つになってしまってはならないからです。 「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、 こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、 そんなことをした者を既に裁いてしまっています」(5・2‐3)。
パウロが裁いているのは、単に一人の人間が罪を犯したということではあ りません。問題は、この人が罪の中に留まっていることであり、また教会も そのことを容認してしまっていることであります。つまりそこでこの当事者 においても、教会においても、罪が罪として認められていないことが問題な のです。そこにあるのは、悔い改めを失った姿です。そして、光の内に導き 入れられた人が、光の内を生きるのではなく、あえて闇の中に留まろうとす るならば、闇の力のもとに引き渡されるしかありません。パウロが「サタン に引き渡した」と言っているのはそういうことであります。その結果、その 人の身にどのようなことが起ころうともです。もちろん、パウロの願いは、 その人が滅びることではなく、最終的にはその人が救われることであったこ とは言うまでもありません。
●古いパン種を取り除け
いずれにせよ、問題は、単に罪を犯した個人のことではありません。パウ ロが問題にしているのは、むしろコリントの教会そのもののあり方です。 「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を 膨らませることを、知らないのですか」(6節)。パン種と言われているの は、単に罪を犯した個人のことではありません。そのような個人を放ってお くと全体に影響が及ぶから、そのような人間を取り除きなさい、と言ってい るのではありません。そのパン種は、8節において「古いパン種」「悪意と 邪悪のパン種」と呼ばれていますように、それはキリスト者となる以前の古 い生活原理であり、そこに厳然と存在していた罪のことであります。そうし ますと、これは他の特定の個人の話にできません。教会の一人ひとりに関わ っていることです。もちろん、この古いパン種は、今日の私たちにとっても、 現実的な具体的な問題です。
わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることは、私たちの良く知ってい る事実です。そのように、生活に入り込んだ小さな罪が、生活全体に及んで しまうということも、私たちの知っている事実です。教会に持ち込まれたこ の世の罪がそのままにされる時、いつの間にか教会全体に影響を及ぼしてし まうことも、代々の教会が繰り返し経験してきたことであります。ですから、 古いパン種は取り除かれなくてはならないのです。そこに求められているの は悔い改めです。いつも新しい練り粉でいるために必要なのは、パン種をそ のままにしないことなのです。
「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わ たしたちの過越の小羊として屠られたからです」(7節)とパウロは言いま す。主イエスは、私たちの罪を取り除く贖いの小羊として、十字架の上で死 んでくださいました。この主の贖いによって、私たちは神の前に罪を取り除 かれた者とされました。そのゆえに私たちは神の民として生きられるのです。 キリストのゆえに、私たちは罪なき者として、パン種の入っていない者とし て、神との交わりに生きられるのです。神が私たちを「パン種の入っていな い者」として見ていてくださるのです。だから、私たちもまた、新しい練り 粉となることを求めるのです。
間違ってはなりません。罪の赦しは罪の許可ではありません。私たちを古 いパン種でぶよぶよに膨れ上がった化け物のようなパンとするために、キリ ストは十字架にかかられたのではないのです。キリストは、私たちの罪の贖 いとなってくださいました。「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を 用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうで はありませんか」(8節)とパウロは言うのです。そのような過越祭こそ、 神の恵みに対する感謝の応答としての礼拝であり信仰生活です。
●この世の中にある交わりであるゆえに
繰り返しますが、そのように新しい練り粉であるということは、私たちの 悔い改めの問題なのであって、この世と隔絶することによって実現するので はありません。パウロは以前書いた手紙の内容を補足して、次のように書い ています。「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書き ましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を 奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということで はありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かね ばならないでしょう」(9‐10節)。私たちは世の中から出ていく必要は ないし、出て行ってはならないのです。問題は、あくまでも教会内の交わり です。「兄弟と呼ばれる人」に関することなのです。
「つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」、「内部の人々を こそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」という言葉には、抵抗を覚 える人もいるかもしれません。これだけを聞いたなら、清さを誇る集団の鼻 につく排他性から出た言葉のように聞こえなくもありません。しかし、先に 触れましたように、ここで問題なのは罪の存在というよりも、むしろ悔い改 めの欠如なのです。罪が罪として認められていないということなのです。罪 を罪が認められないままで、悔い改めも全くないままで、ただ一緒に食事を していたら、そこに真実の交わりは成り立つでしょうか。成り立たないだろ うと思うのです。私たちはパウロの言葉の厳しさについて語る時に、キリス トにおいて与えられた交わりとは何であるかを考えねばならないのです。
ヨハネの手紙には次のような言葉があります。「わたしたちが、神との交 わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついてい るのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるよう に、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血 によってあらゆる罪から清められます」(1ヨハネ1・6‐7)。自分には 罪はないと言い張って闇の中を歩き続けてはなりません。罪を悔い改めて光 の中を歩む時、その光の中においてこそ真実な交わりがあるのです。この世 の中から出て行かない教会であるからこそ、教会の交わりはこの世的な親し さなどではなく、光の中にある交わりであることを求めていかなくてはなら ないのです。