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「神の国を受け継ぐ」

2001年9月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント6・1‐11

 先週は5章をお読みしました。そこでは性的な不道徳に関する問題が取り 上げられていました。教会員の一人が自分の父の妻をわがものとしていたと いうのです。しかし、問題は単に個人の事柄に留まりません。その罪が明ら かにされ、なおも悔い改めがそこにないにもかかわらず、教会はそのことを 容認していたのです。パウロは、そのような教会のあり方を厳しく咎めたの でした。

 さて、一方、今日お読みしましたところでは、教会員どうしが争っている ということが取り上げられます。恐らくは金銭がらみの問題だったのでしょ う。その問題を教会の中で解決するのではなくて、教会の外における法廷で 争っていたのです。

●教会の外に持ち出された争い

 一方において、罪と不道徳の問題にまったく無頓着でありながら、もう一 方においては裁判を起こしてでも他者の罪を裁こうとする。コリントの教会 に起こったことは、決して珍しいことではありません。それがどんなに不道 徳なことであっても、どんなに汚れたことであっても、自分に直接被害が及 ばないならば、人はその罪について寛容でいられるものです。しかし、ひと たび他者の罪が自分の利害に関わってくるとなると、小さな罪も見逃せませ ん。とことん追求せずにはいられません。この世の中においては当たり前の ことです。

 しかし、教会の中においても同じことが行われていて良いのでしょうか。 そうあってはならないはずです。なぜなら、私たちが本当に問題としなくて はならないのは、罪の結果である不利益や被害ではなくて、罪そのものだか らです。

 もとより、人間は罪そのものについて考えることも語ることもできません。 なぜなら、人間の内には絶対的な正しさがないからです。援助交際をする子 どもたちが世の大人たちに問いかけます。「どうしてこれが悪いことなの? 誰にも迷惑をかけていないじゃない」。世の大人たちは、それに対して、行 為の結果を語ることができるだけです。結果の不利益について語ること、し かも口ごもりながらしか語ることができません。人は罪の結果としての不利 益を怒ったり悲しんだりすることしかできないのです。

 私たちが罪について考え、そして語り得るとするならば、絶対的な愛であ り義である神の御言葉に基づいてそうするしかありません。イスラエルにお いて、そしてイエス・キリストにおいて、ご自身を現された神の啓示による しかありません。神の光に照らされる時に、私たち人間にとって本当の問題 が、罪の結果としての悩みや悲しみ、危機的状況にではなく、神の御前にお ける罪そのものにあることが明らかになるのです。愛であり義である神に対 する背きとして、罪が明らかになるのです。根が腐っているからこそ、枝は 枯れ、葉は落ちるのであって、その逆ではありません。

 この罪からの救いを教会は宣べ伝えます。しかし、神の救いを宣べ伝える ということは、同時に、この世界が神の裁きのもとにあることを宣べ伝える ことでもあるのです。神の救いは、神に背いているこの世界の救いに他なら ないからです。その意味において、教会は、神の言葉に基づいてこの世界を 裁くものでもあります。コリントの教会も、そのようなものとしてこの世界 に存在しております。それゆえに、パウロは彼らに言うのです。「あなたが たは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたに よって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がない のですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないので すか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。それなの に、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじ られている人たちを裁判官の席に着かせるのですか」(2‐4節)。

 もちろん、ここだけを読んで、パウロが国家の司法制度を否定していると 考えてはなりません。パウロ自身、エルサレムにおいて捕らえられ訴えられ た時、ローマ法のもとにある制度の秩序に従いました。彼は、最終的にロー マの皇帝に上訴したのです。(使徒25・11)。国家の制度には、神の支 配のもとにおいて、それ自体の位置づけと意義が与えられております。国家 には暫定的な権威が神によって与えられているのです。

 しかし、それは最終的な権威ではありません。最終的には、神が裁き給う のです。神の御前においてどうであったかが問われるのです。問題は、その ことをわきまえているはずのコリントの信徒たちが、あたかも教会の外にこ そ最終的な権威があるかのように、神の御前において解決すべき争いを外に 持ち出したということなのです。

 さて、このことをどう思われますでしょうか。確かに、裁判ざたというこ とは私たちの周りに皆無とは言いませんが、教会においてそれほど頻繁に起 こることではありません。その意味においては身近な話ではないかもしれま せん。しかし、教会内における争いを教会内で解決せずに、外に持ち出して しまうということに関して言えば、いくらでも起こり得ることだろうと思う のです。その時、裁判官として立てるのは、未信者である家族であるかもし れません。あるいは、教会に来たことのない友人であるかもしれません。ま だ洗礼を受けていない子どもたちであるかもしれません。そこに平気で問題 を持ち出し、他の教会員について訴え、自分の正しさを主張するというよう なことはありませんでしょうか。

 それは未信者をつまづかせることになる。教会の汚点が露わになる。そん なことが問題なのではないのです。教会に汚点があるなら、露わになること はかまわないのです。 問題は他にあります。そうやって外の人々に訴えて いる人が大事なことを見失っているということなのです。信仰者どうしの争 いにおいては、神の御前における罪が問われているのだ、ということを忘れ ているのです。だから、神の御前において解決しなくてはならない事柄を他 のところに持っていくのでしょう。しかし、教会の外で誰かが「あなたは正 しいよ」と言ってくれたとしても、それで何も解決したことにはならないの です。

●洗われ、聖なる者とされ、義とされた者として

 ですから、パウロはさらにコリントの人たちに言います。「そもそも、あ なたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、 むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいない のです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しか も、兄弟たちに対してそういうことをしている」(7‐8節)。

 判決が出たところで、この争いには勝者はいない。そうパウロは言います。 もう負けているのです。人に勝っても、罪と悪そのものには負けているので す。私たちが対立し訴え合い、憎み合っているならば、そこで勝ち誇って笑 っているのは悪魔だけです!それゆえ、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受け ないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」とパウロは言うの です。それこそが敗北者とならない道だからです。

 しかし、現実的には、これほど困難なことはないでしょう。私たちも、こ の言葉の前で思わず立ちすくまざるを得ません。しかし、パウロは一つの処 世術としてこれを語っているのではないのです。単なる理想でもありません。 彼が見ているのはキリストなのです。この地上を歩まれ、人々から裁かれ、 罪なき御方であるにもかかわらず、十字架につけられたキリストなのです。 パウロがコリントの人々の間で宣べ伝えたのは、この十字架につけられたキ リストに他なりません。だから彼らにキリストを指し示しつつこう語るので す。私たちもまた、せめてその方向に小さな一歩を踏み出すことができると するならば、同じ十字架の主を見上げるしかありません。

 もし、この御方に目を向けることがないならば、そして神の御前において 自分自身を問うことをしないならば、不義を受けた者は、次の機会には不義 を行ってやろうと思うでしょう。それを当然の権利と考えるものです。奪わ れた者は、次の機会において奪い返そうとします。それが当然の権利である と考えます。こうして、果てしない不義の連鎖が始まります。それが正義の 名のもとに行われることすらあります。神がどのように見られるかを考えよ うとしないからです。しかし、そのように不義を行い、奪い取る者となるこ とによって、神の国から自らを閉め出すことになるのです。なぜなら、神の 国とは神の支配に他ならないからです。

 それゆえ、パウロは他の手紙でも書いているように、ここでも次のように 書き記します。「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないの ですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通 する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く 言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あ なたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの 名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされていま す」(9‐11節)。

 最後の「洗われ、聖なる者とされ、義とされています」という言葉は、洗 礼式と結びついた表現です。洗礼を通して、今、どのような者とされている かを思い起こさせるのです。もともと彼らが神の国を受け継ぐにふさわしい 者であったのではありません。そうでなかった者が、洗われ、聖なる者とさ れ、義とされたのです。もっとも、人間の目に見えるのは、人が洗礼式にお いて水の中に沈められたということだけでした。当然のことですが、水自体 が罪を洗い流したのではありません。それはイエス・キリストの御名の権威 によるのであり、神の霊の働きによるのです。その霊における出来事は人の 目には見えません。それが見えているのは神の目だけです。

 しかし、目に見える洗礼式は、その目に見えない出来事と、目に見えるこ の世界とを結びつけるのです。だから、キリスト者は、目に見えるこの現実 の世界の中で、聖なるもの、神のものとされた者として、義とされた者とし て生きていくのです。神の国を受け継ぐ者とされたのですから、神の国を受 け継がねばなりません。これが神の恵みにあずかった者の課題です。

 コリントの教会において、互いに訴え合っていた人々、またそれを良しと していた教会は、もう一度自分がどのような者とされているかを教えられね ばなりませんでした。そして、私たちもまたその必要があるかもしれません。

 
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