「聖霊の住まいである体」
2001年9月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント6・12‐20
「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉が、12節に二 回繰り返されています。10章にもう一回出てきます。コリントの教会のあ る人々が口にしていたスローガンだったようです。「わたしには、すべての ことが許されている」とは、要するに、「わたしは自由だ!」ということで す。彼らは、自分たちが特別な知識(グノーシス)を得ている「完全な者」 であり、完全な自由を得ている霊的な人間であると主張していたのです。そ して、自分たちは霊的な人間であるゆえに、もはや目に見える物質的な世界 によっては影響されないと考えていたのです。当然のことながら、その主張 は放縦な生活をもたらしました。彼らの考えによれば、この体をもって何を しようが、もはや問題ではないのですから。そして、コリントの多くの人々 が、そのような思想に惹かれていったのです。そのような思想は後に全教会 を脅かすグノーシス主義という異端となっていきました。
さて、グノーシスの異端ではないとしても、信仰の事柄が目に見える物質 的な世界から切り離され、ある種の精神主義に変質してしまうということは、 いつの時代にも起こり得ることです。日本に生きるキリスト者の信仰理解に は、この問題が常につきまとっています。ともすると、信仰がただ単に頭の 中や心の中のことになってしまいます。そして、例えば金銭、仕事、恋愛、 家庭、性、社会、国家、教会の制度など、具体的な事柄と信仰とを結びつけ ることができません。かえってそのような現実的な事柄から離れることが信 仰的なことであると思ってしまいます。私たちは、そのようなグノーシスの 異端に類似する精神主義化といかに戦うべきかを、この手紙を通して学ばな くてはならないのです。
●体は主のために、主は体のために
第一に、私たちは、体とキリストとの関係を心に留めなくてはなりません。 13節後半をご覧ください。「体はみだらな行いのためではなく、主のため にあり、主は体のためにおられるのです」。ここには、私たちの「体」とキ リストとの密接な関係が言い表されています。
ここでパウロが語っている「体」とは、精神に対する「肉体」という意味 ではありません。体とは肉体も精神もすべて含めた人間全体を指しています。 私たちと主との結びつきは、単に私たちの心が主と結ばれているということ ではありません。私たちの存在全てが主と結ばれているということです。私 たちが主のために存在すると言う時、それは私たちの心だけでなく、私たち の肉体も精神もすべて主のために存在することを意味するのです。主が私た ちの救い主であると言う時、それは主は単に私たちの心を救ってくださる方 ではなく、私たちの存在の全てを丸ごと救ってくださる方であることを意味 します。だから、主の恵みに答えて自分自身を捧げるとするならば、私たち は心を捧げるだけでなく、私たちの肉体も精神も内面も外面もすべて主のも のとして捧げるのです。主は私たちの心だけでなく、私たちの体全体をご自 身の内に受け取ってくださるのです。それゆえ、私たちは心だけキリスト者 になるのではなくて、体全体として、また体が関わるすべての生活を伴って キリスト者になるのです。
このキリストと私たちの体との関係は、その前に書かれている食物と腹と の関係と対比されています。食物と腹との関係も密接です。「食物は腹のた め、腹は食物のため」です。しかし、食物と腹との関係は永遠ではありませ ん。「神はそのいずれをも滅ぼされます」と書かれています。それは共に滅 び行くものです。来るべき世には、食物と腹との関係はありません。
これに対し、私たちの体と主との関係は永遠です。なぜなら、私たちの体 は復活するからです。先ほど使徒信条を共に告白しました。その最後におい て私たちは何と言ったでしょう。「体のよみがえり、とこしえの命を信ず」 と言ったではありませんか。
14節においてパウロはこう言っています。「神は主を復活させ、また、 その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」。主が弟子たちに 再び現れた時、主は肉体から解放された霊として現れたのではありませんで した。主は復活の体、栄光の体をもって現れたのです。その栄光の姿こそ、 やがて私たちが与えられる姿です。罪と滅びの縄目から完全に解放され、神 の栄光にあずかった姿、一人の人間として存在のすべてが救われた姿なので す。
私たちは、やがて体をもって復活する者として、今現在ここに体をもって 生きています。私たちの体は、この世においても来るべき世においても主の ためにあるのです。体をもって営んでいる私たちの信仰生活とは、体の復活 の先取りに他なりません。ならば、この体をもって、目に見える現実の世界 をどう生きるかということが重要になってまいります。体が放縦な生活やみ だらな行いのためにあるかのように生きてはならないのです。
●キリストの体の一部として
第二に、私たちの体はキリストの体の一部であることを知らなくてはなり ません。15節をご覧ください。そこには、先に述べた私たちの体とキリス トとの関係の深さが、さらに明瞭に言い表されております。「あなたがたは、 自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」。
間違ってはなりません。聖書が教会を「キリストの体」と呼ぶ時、それは 単なる「もののたとえ」ではありません。事実、それはキリストの体である のです。天におられるキリストは、この地上に歴史的な存在である体を持っ ているのです。キリストはその体を通して、今日もこの現実の世界にかかわ られるのです。私たちは、聖霊の働きにより、その体の一部とされました。 体をもって私たちが目に見える教会の中に存在しているということは、そう いうことです。私たちがキリストの一部であるならば、「あってもなくても よい存在」「何をしようがどうでもよい存在」などではあり得ません。私た ちは、この事実の重さをもう一度考えてみる必要があるでしょう。
コリントの信徒たちは、その事実の重みをわきまえてはいませんでした。 キリストが私たちを通して世界に関わられるということは、逆に言えば、私 たちと世界とのかかわりがキリストと無関係ではあり得ないということでも あるのです。例えば、キリスト者が娼婦と交われば、キリストの体の一部が 娼婦と交わったことになるのです。「キリストの体の一部を娼婦の体の一部 としてもよいのか」とパウロが言っているのはそういうことです。
特に性的な罪は、体に直接的に関わるゆえに深刻です。性の交わりは二人 の人間を一体とするのです。パウロが「二人は一体となる」という創世記の 言葉を引用して語っているとおりです。いかなる罪においてもそうですが、 特に性的な罪の問題を軽く考えてはなりません。現代のこの国の状況を考え ます時に、このことは強調しても強調し過ぎることはありません。聖書は 「みだらな行いを避けなさい」と命じます。それは今日の私たちに対しても 命じられているのです。
●聖霊の神殿として
第三に、私たちは自分の体が聖霊の神殿であることを知らなくてはなりま せん。パウロは、こう言っています。「知らないのですか。あなたがたの体 は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもは や自分自身のものではないのです」(19節)。
先に私たちは自分の体とキリストとの関係を見てきました。私たちの体が キリストの体の一部であることが語られていました。しかし、そもそも、ど うしてこのような者がキリストの体の一部とされているのでしょう。そして、 さらには聖霊の神殿であると言うのです。どうしてそのようなことがあり得 ましょうか。そこでパウロは言うのです、「あなたがたは代価を払って買い 取られたのです」と。
人間がその体をもって犯した罪の負債は厳然として神の御前に存在します。 罪の問題は単に心の中における罪責感などではありません。神の御前におけ る現実の負債なのです。しかし、その負債を、キリストが代わりに支払って くださいました。その体をもって、十字架の上で血を流して、私たちの罪を 贖ってくださったのです。罪が現実であるゆえに、贖いも現実になされねば なりませんでした。ですから、買い取られたのも、現実に存在するこの体で す。私はもはや私自身のものではないのです。それゆえに、パウロは続けて 「だから、自分自身の体で神の栄光を現しなさい」と言うのです。
さて、この命令を私たちはどのように聞いたら良いのでしょう。実際、人 が目に見える体として存在しているということは、何とやっかいなことかと 思います。人間は、肉体を持つゆえに苦しみ、悩みます。そして、肉体を通 して罪を犯します。ギリシア人にとって、肉体は滅ぶべき悪でしかありませ んでした。彼らが肉体を魂の牢獄として考えたのも、ある意味では無理もな いように思えます。そして、先にも言いましたように、「体」は単に肉体だ けではありません。精神をも含みます。そうすると、なおいっそうやっかい です。私たちは、意志においても、感情においても、知性においても、実に 欠陥だらけではありませんか。そう考えます時に、「自分の体で神の栄光を 現しなさい」という命令は、本来、実現不可能な命令であるとさえ思えます。
しかし、それにもかかわらず、パウロは何のためらいもなくこの命令の言 葉を与えるのです。なぜでしょうか。先にも言いましたように、信仰者とし て生きるということは、体の復活を先取りして生きることに他ならないから です。神の恵みによって、既に復活したキリストの体の一部とされているの です。既に、聖霊が宿ってくださる神殿とされているのです。私たちの体が 関わるすべてに、生ける神の霊が現実に働いていてくださるのです。ならば、 「自分の体で神の栄光を現しなさい」という命令は、命令であると同時に、 私たちを力づけ希望を与える励ましの言葉に他なりません。私たちは、神の 栄光を現して生きることができるのです。神の栄光は、私たちの頑張りと努 力によって現されるのではありません。神の神殿として生きる時、神の栄光 は聖霊自ら現されるのです。
結局、大切なことは一つのことだけです。「この体は私の体だ」と主張し ないことなのです。「私の体を私のために用いて何が悪い。私の人生を私の ために用いて何が悪い」と言わないことです。買い取られた自分、神のもの である自分を自覚して生きること、それが神の神殿として生きることに他な りません。そのような人こそ、自らの体をもって神の栄光を現す人となるの です。