「朝 の う た」                              詩編第三編  この詩編の表題には「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃 れたとき」と書かれております。親が子供の手から逃れるとは、あまり穏や かな話ではありません。実は、この詩編は、ダビデ王家にまつわる悲劇的な 出来事を背景に書かれているのです。詳しくはサムエル記下15章をそれぞ れお読みください。簡単に申しますと、そこにはダビデの息子の一人である アブサロムが、とある理由からクーデターを起こした次第が記されているの です。  ダビデの子アブサロムは、地道な活動によって着々と準備を進め、イスラ エル諸部族の多くの不満分子を味方につけていきました。そして、ついに彼 はヘブロンにおいて自らの即位を宣言したのです。アブサロムの謀反のニュ ースは、ほどなくダビデのいるエルサレムに届きました。そこでダビデはす ぐさま都落ちを決意します。彼は家臣たちに言いました。「直ちに逃れよう。 アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサ ロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう」 (サムエル下15・14)。実の息子と剣を交えることは何としても避けた かったでしょうし、何よりもエルサレムとその住民を戦火にさらすことは忍 びなかったに違いありません。こうして、栄光に輝くイスラエルの王ダビデ とその家臣たちは、一夜にして惨めな落人となりました。これが詩編第三編 の背景です。これらのことを心にとめつつ、この詩編を読んでいきたいと思 います。 ●主よ、どこまで 主よ、わたしを苦しめる者は どこまで増えるのでしょうか。 多くの者がわたしに立ち向かい 多くの者がわたしに言います 「彼に神の救いなどあるものか」と。                   (2‐3節)  ダビデの心は乱れます。もともと敵であった者が剣を向けてきたのなら耐 えられもしましょう。しかし今、彼に敵対しているのは、他でもない彼の息 子であり、また彼の愛してやまないイスラエルの民なのです。しかも、彼に 敵する人々は日増しに増えていくのです。彼の苦しみは際限なく膨らんでい くように思えたに違いありません。ダビデは神の前に、その悲しみと嘆きを 注ぎ出します。心乱れるまま、神に訴えるのです。ダビデはイスラエルの王 でした。しかし今や、何もかもかなぐり捨てて、神の前に幼子のごとくなっ ている王の姿を私たちはここに見るのです。  すると、嘆き祈るダビデの耳に、一つの声が聞こえてきます。「彼に神の 救いなどあるものか」と。彼に敵対する者ばかりではありません。ダビデの 苦境を見るとき、共についてきた家来たちの内にも、彼がすでに神から見捨 てられていると思う者が多かったのでしょう。  現実に苦しんでいる人にとって、「あなたは神から見はなされているのだ 」という言葉ほど厳しい言葉があるでしょうか。そこで自分の過去の傷が痛 み出さない者がいるでしょうか。現実にそのような場面で、自らの罪の記憶 がよみがえってこない人がいるでしょうか。実際、ダビデ自身もこれには返 す言葉がなかったに違いありません。確かに、自分自身を考えるとき、神か ら見捨てられても仕方のない者だ。ダビデはそう思ったことでしょう。  遡ること数年前、ダビデは自分の忠実な家臣であるウリヤの妻バト・シェ バと姦通し、その罪を覆い隠すためにウリヤを殺害したのでした。しかし、 その罪が預言者ナタンを通して明らかにされたのです。彼は主の御前におい て罪を言い表しました。「わたしは主に罪を犯した」と。すると、ナタンは ダビデにこう告げたのでした。「その主があなたの罪を取り除かれる。あな たは死の罰を免れる」(サムエル下12・13)。彼は、神の赦しにあずか り、再び生きることを許されたのです。  しかし、今、「彼に神の救いなどあるものか」という言葉が、彼の心に突 き刺さります。ダビデの心は揺らぎます。彼は、自分自身の揺らぐ心を、神 の御前に注ぎ出します。たった2節に言い表された嘆きの言葉。しかし、私 たちは、ダビデにとっては計り知れなく長かった苦悶の跡をここに見ること ができるでしょう。  そして、彼の祈りは苦悶で終わることはありませんでした。人が神に向き 続けているかぎり、嘆きは嘆きで終わりません。ダビデは、黒雲の隙間から 陽の光が射し込むように、彼方から射し込む主の慈愛の光に照らされている 自分を見出すに至るのです。 ●主よ、それでも 主よ、それでも あなたはわたしの盾、わたしの栄え わたしの頭を高くあげてくださる方。 主に向かって声をあげれば 聖なる山から答えてくださいます。                 (4‐5節)  ダビデは苦境の闇から目を転じ、主の慈愛の御顔を仰ぎます。するとその 時、彼の心に三つのことが明らかに示されたのです。  第一に、主はわたしの盾である。敵は増えていくかもしれない。わたしは 最終的に孤独になるかもしれない。一人で立たなくてはならないかもしれな い。しかし、すべてが失われたとしても、最悪の状況に置かれたとしても、 わたしを取り囲む盾のごとき御方がおられるのだ。だから何も恐れる必要は ないのだ、ということが分かったのです。  第二に、主はわたしの栄えである。ダビデは都を追われました。すべての 栄光をはぎ取られました。彼は惨めでした。この世の栄光がいかに移ろいゆ くものであるかということを彼は思い知らされたのです。しかし、今、彼は 言います。神御自身が私の栄光ではないか。神がともにいて下さるというこ とこそ、最高の栄誉ではないか。ダビデにとって失われた栄光は、もはや振 り返るに値するものではありませんでした。  第三に、主はわたしの頭をあげてくださる方である。主の御前に悲しみ嘆 き続けていた彼は、いつの間にかうなだれたままではない自分に気づきます。 彼は顔を上げているのです。そうしてくださったのは、神ご自身でありまし た。もちろん、これから先のことは分かりません。悲嘆に暮れるような日々 が続くかもしれません。失望と落胆のどん底に突き落とされるようなことも あるかもしれません。しかし、この方がおられるなら大丈夫なのです。頭を もたげて下さる方がおられるなら生きていけるのです。  ダビデはエルサレムにおいて過ごした日々を思いました。王として多くの 困難を通り抜けてきました。苦しいこともありました。その度に彼はシオン の丘に向かい、神に祈ってきたのです。彼はこれまで味わい知ってきた主の 真実を思い起こします。そして、主の真実は、エルサレムを離れた今、ここ においても変わらないのだ、と言うことを彼は心にしっかりと刻みつけたの です。 ●主よ、立ち上がってください 身を横たえて眠り わたしはまた、目覚めます。 主が支えていてくださいます。 いかに多くの民に包囲されても 決して恐れません。                  (6‐7節)  ダビデは神にすべてをゆだね、平安でした。彼は眠りました。深い眠りで した。もはや何も恐れることはありません。支えて下さる主の御手をその背 に感じながら、真っ暗闇のただ中で、心安らかに彼は眠ったのです。  そして、彼は目を覚まします。新しい朝です。昨日までの、意気消沈した ダビデはもういませんでした。勇気を与えられ、雄々しく困難に立ち向かっ て行くダビデがそこにいるのです。彼は朝の光の中でもう一度ひざをかがめ て祈ります。 主よ、立ち上がってください。 わたしの神よ、お救いください。 すべての敵の顎を打ち 神に逆らう者の歯を砕いてください。                     (8節)  彼は怒りと復讐心をもって敵が滅びることを願い求めているのではありま せん。主が立ち上がって救ってくださることを求めているのです。反乱を起 こし敵対する者たちのことは、主の御手にゆだねられました。神の正しい裁 きにゆだねられました。ならばもはや敵を憎むことも呪うことも必要ありま せん。それゆえ、彼は平安の内にあって、さらにイスラエルの民の上に祝福 を祈り求めます。 救いは主のもとにあります。 あなたの祝福が あなたの民の上にありますように。                     (9節)  「主よ、わたしを苦しめる者は、どこまで増えるのでしょうか」と祈って いた時には、自分のことで頭が一杯であったに違いありません。しかし、彼 は今、エルサレムに残っている多くの人々のこと、政変の混乱の中にあるイ スラエルの民のことを考えます。実際、人は平安を得て初めて、他の人々の ことを心にかけられるようになるものです。イスラエルの人々の多くは、今、 ダビデの敵となっています。しかし、それでもイスラエルは神の民なのです。 それは愛すべき神の民なのです。それゆえ、ダビデは彼らのために祈ります。 祝福を祈り求めるのです。  個人の嘆きの祈りは、民全体のための祈りへと変えられたのでした。私た ちはここに、いまだ苦しみのただ中にありながら、既に主の救いの内を生き ている人の姿を見るのです。