説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「結婚と離婚」

2001年10月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント7・1‐16

 コリントの教会は、性的に放縦な社会の中に存在しておりました。しかも、 性的に放縦であることを許容するような思想が教会の中にまで入り込んでい たのです。パウロはこれまで、ある程度そのような思想の影響下にある人々 を念頭に置いて語っておりました。しかし、もう一方において、そのような 社会と教会の風潮に対して危機感を覚えていた人々も、コリントの教会には いたに違いありません。今日お読みしました箇所から察するに、一方の放縦 主義に対して、もう一方で禁欲主義を唱える人々がいたようです。ギリシア の霊肉二元論には、もともと禁欲主義を生み出す素地がありました。霊は善 であり永遠であるのに対し、肉なるもの、物質的なものは悪であり滅び行く ものと考えられていたのですから、その悪を退ける一つの形は禁欲です。そ れは苦行という形を取ることもありますし、結婚の禁止という形を取ること もありました。この章では、パウロはそのような禁欲主義を念頭に語ってい るように思われます。

 さて、私たちにおいて、一方で放縦に陥らない健全な自制心を持つことは 必要です。節制(セルフコントロール)は聖霊の結ぶ実であると別の手紙に 書かれています(ガラテヤ5・23)。しかし、もう一方において、歪んだ 禁欲主義者とならないということは、もっと重要なことかも知れません。そ れは生活そのものを歪ませるからです。そこで、私たちは、これらのことを 念頭に置きつつ、この章において語られていることに注意深く耳を傾けたい と思います。

●結婚と性生活に関して

 初めに、1節から9節までをご覧ください。パウロはこの部分を「そちら から書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい」と書 き始めます。「触れない方がよい」とは、物理的な接触のことではなくて、 性的な交わりのことです。パウロは性行為を結婚と切り離して語ることはあ りませんので、言い換えるならば、この部分は「結婚しない方がよい」とい う意味になります。コリントの人たちが書いてよこした問いは、恐らく、 「キリスト者は結婚しないほうがよいのか」という問いだったのでしょう。 その背後には、先に申しましたような禁欲主義があったものと思われます。

 この答えに見ますように、パウロの見解は結婚に対して非常に消極的です。 その他にも「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」(7 節)、「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」(8節)などの言 葉が見受けられます。9節では、結婚が単に「情欲を抑制するため」のもの であるかのように表現されています。

 しかし、私たちは、この箇所を読むにあたって二つのことに心を留めなく てはなりません。第一に、後に見ますように、パウロは差し迫った終末とい う意識から語っているということです。26節に「今危機が迫っている状態 にあるので」と書かれているとおりです。これについては次回に触れます。 第二に、パウロはここで結婚について総括的な記述をしているわけではあり ません。あくまでも問われたことについて答えているだけであって、結婚の すべてを語っているわけではないのです。

 それらを踏まえた上で、まず、パウロが「わたしのようであってほしい」 と言っていることについて考えたいと思います。ちなみに、パウロが必ずし も結婚をしたことがなかったと考える必要はありません。多くの学者は、彼 がかつて妻帯者であったと推測します。彼がユダヤ教のラビであり、議員の 一人であったとするなら、その方が自然だからです。妻が亡くなったのか、 それとも彼がキリスト者となった時に彼のもとを去ったのか、定かではあり ません。いずれにしても、現在彼は独りです。パウロはそのような自分を指 して、「皆がわたしのようでいてほしい」と言うのです。しかし、その後に、 「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方 が違います」と付け加えます。自分が独身でいられることを、神の賜物とし て捉えていることが分かります。これは注目に値します。なぜなら、当時の ユダヤ社会においてもそうですが、独身であることは、往々にして、何かが 欠けていることであるかのように語られることが多いからです。しかし、独 身でいられるということは、神の賜物として、積極的な意義を持つのです。

 このように独身が神の賜物によるものならば、結婚生活もまた神の賜物で す。性の交わりは、結婚生活という神の賜物の枠の中で、正しく理解されな くてはなりません。それは一方で、そこからはずれた性行為を排除します。 それを聖書は「みだらな行い」(2節)と呼ぶのです。それは避けねばなり ません。しかし、もう一方で、夫婦の間の性生活は、神の賜物としての積極 的な意義を持つのです。これを祝福として尊ばねばなりません。

 コリントの教会のある人々は、信仰と性行為は相容れないものと考えてい たようです。そのような理由から、一方的に性生活を拒否する人もいたので しょう。今日でも性生活と信仰とを結びつけられない人は多いのではないか と思います。それに対しパウロは率直に語ります。「夫は妻に、その務めを 果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい」。それは単に「互いの義 務だ」と言っているのではありません。大事なことは、その後に書かれてい るように、結婚生活において、自分の体はもはや自分のものではなく、相手 のものなのだ、ということなのです。

 それは前に19節に出てきた「あなたがたはもはや自分自身のものではな いのです」という言葉と無関係ではありません。主のものとして生きるとい うことは抽象的なことではありません。具体的な形を取るのです。それは実 際に体をどう用いるのかということに関わっているのです。性行為は神の意 図に反する「みだらな行い」となり得る一方、夫婦の性生活として、互いを 誘惑から守り、また自分自身を他者に与える最高度の愛の表現となり得るも のなのです。いずれにせよ、独身でいるにしても、結婚生活を送るにしても、 そのことを体が関わる信仰生活の具体的な現れとして捉えることが重要なの です。

●離縁に関して

 次に10節から16節までをご覧ください。ここから話は離縁の事柄へと 移ります。性生活だけでなく、結婚生活そのものが、キリスト教信仰と相容 れないと考えた人々がいたようです。そこでパウロは言います、「妻は夫と 別れてはいけない。…夫は妻を離縁してはいけない」。パウロはさらに、 「こう命じるのは、わたしではなく、主です」(10節)と強調します。主 イエスは実際、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」 と尋ねたファリサイ派の人々に対し、こう答えられました。「…天地創造の 初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れ てその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、 一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはな らない」(マルコ10・6‐9)。このように、神の意図された結婚は一体 となることなのであって一生の事柄です。これが結婚に関する大原則です。

 昨年一年間のこの国における離婚件数は26万4255組であったと言い ます。人口千人当たりの離婚率も2.10と過去最高を更新しました。この ような統計が出されても、今日、誰も驚きませんし嘆きません。そのような 時代となりました。しかし、神は嘆いておられます。このような時代である からこそ、結婚は離婚を想定してはいない一生の事柄なのだということを、 教会はことさらに強調しなくてはならないでしょう。確かに、それにもかか わらず、事実、やむなき事情により離婚という決断に至ってしまうことがあ ります。しかし、特に信者どうしの結婚の場合、両者が聖書に記されている 神の明瞭な意図を知っているのですから、「既に別れてしまったのなら、再 婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい」という11節の命令を心に留めな くてはなりません。離婚はあくまでも神の意図に反する罪なのです。神は離 婚を望まれないのです。

 さらに、パウロは、どちらか一方が未信者の場合について語ります。今日 の日本においてもそうですが、コリントの教会においても圧倒的にこのよう なケースが多かったであろうと思われます。そして、多くの場合、結婚は異 教祭儀のもとで行われたことでしょう。そのような未信者との結婚生活を継 続することは、ある人々にとっては、キリスト教信仰と相容れないことのよ うに思われたに違いありません。

 しかし、パウロは言います。「その他の人たちに対しては、主ではなくわ たしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活 を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に 信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼 を離縁してはいけない」(12‐13節)。そして、未信者との生活によっ て結婚が汚されるのではなくて、あなたによって結婚が聖なるものとされる のだ、と言うのです。キリスト者は、相手が未信者であるということよりも、 自分が結婚して家族の中に存在していることの意義を、もっと重く考えるべ きだということでしょう。一人の信仰者が存在することにより、配偶者も子 どもも、神との関わりの中に置かれることになるのです。

 しかし、悲しいことですが、信者でない相手が一緒に生活を続けたいと思 わず、離れていく場合があります。その場合、「去るにまかせなさい」とパ ウロは言います。その時に、信仰の節を曲げて相手を引き留めようとしては ならないということです。相手が離れたらもはやその人を救い得ないなどと 考えてはならないのです。パウロは言います。「妻よ、あなたは夫を救える かどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どう して分かるのか」。同じことは、少し範囲を広げて、結婚前の人々にも言え るでしょう。あなたが神に従い、信仰を貫こうとする時に、相手が去ってい く場合があります。その時に、信仰の節を曲げて相手を追ってはなりません。 「去るにまかせなさい」。いずれにせよ、神との平和を失うことを代償とし て、人との平和を作り上げたとしても、それは本当の平和とはなり得ません。 神は、真に平和な生活を送るようにと私たちを召されたのです。

 しかし、「去るにまかせなさい」という言葉を聞く場合、注意しなくては なりません。パウロが言っているのは、純粋に信仰的な理由による場合です。 相手が離れていくのは、そのような理由によるとは限りません。それはキリ スト者の思慮のなさ、思いやりの欠如など、もっと低次元の理由によっても 起こります。もしかしたら、最初に申しましたように、誤った信仰理解から 来る生活の歪みによるのかもしれません。その場合、歪みそのものをまず直 さなくてはならないのです。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡