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「正しい想像力の欠如」

2001年10月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マラキ1・6‐10

 今日、私たちはマラキを通して語られた主の言葉をお読みしました。マラ キとは「私の使者」という意味です。どうも本名ではなさそうです。それは 大したことではありません。いずれにせよ、彼が主の使いとして語ったとい うことが重要なのです。

 主はマラキを通して、神殿で行われている礼拝について厳しく叱責されま した。この神殿は、ソロモンが建てた神殿ではありません。ソロモンが建て た神殿はバビロニアによって破壊され、焼き払われてしまいました。この神 殿は、それから約二百年後に再建されたものです。紀元前6世紀、エルサレ ムに帰ってきた人々は、この神殿を、たいへん苦労して建てました。その様 子は、エズラ記に記されております。完成した時の喜びはいかに大きかった ことでしょう。人々はどれほど興奮したことでしょう。人々は、神殿を中心 とした神の民の再建を心に誓い、心からの感謝をもって礼拝を捧げたに違い ありません。

 しかし、最初の興奮というものは、時が経つにつれて薄れるものです。喜 びと感動をもって犠牲を献げていた人々の礼拝は、次第に崩れていきました。 当たり前のことを当たり前のこととして淡々と続けていくことは難しいもの です。献げる心も、その心の現れである犠牲も、いいかげんなものとなって しまいました。それが、今日お読みしました御言葉の背景です。

●汚れた献げ物

 6節と7節をご覧ください。

子は父を、僕は主人を敬うものだ。
しかし、わたしが父であるなら
わたしに対する尊敬はどこにあるのか。
わたしが主人であるなら
わたしに対する畏れはどこにあるのかと
万軍の主はあなたたちに言われる。
わたしの名を軽んずる祭司たちよ
あなたたちは言う
我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。
あなたたちは、わたしの祭壇に
汚れたパンをささげておきながら
我々はどのようにして
あなたを汚しましたか、と言う。
しかも、あなたたちは
主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。(マラキ1・6‐7)

 神さまは、祭司たちに対して、「わたしの名を軽んずる祭司たちよ」と呼 びかけます。これは厳しい言葉です。しかし、祭司たちにはピンときません。 理解できません。彼らは、自分が御名を軽んじているとは思っていないので す。「我々はどのようにして御名を軽んじましたか」と彼らは言うのです。 「我々はどのようにして、あなたを汚しましたか」と彼らは言います。自分 自身がどのような姿であるか、分からなくなっているのです。

 彼らは、7節に見るように、実際には汚れたパンを献げているのです。 「汚れたパン」とは何でしょうか。ここで、パンというのは食物一般のこと で、この場合は礼拝のための犠牲の献げ物のことです。汚れたパンというの は、汚い献げ物という意味ではありません。礼拝に相応しくない献げ物のこ とです。具体的には、その後に書かれています。「目のつぶれた動物」「足 が傷ついたり、病気である動物」のことです。申命記によりますと、このよ うな動物を神さまに献げてはいけないことになっています。

 しかし、彼らはそのような動物を献げました。なぜでしょう。その方が合 理的だからです。この時、イスラエルの民はペルシアの支配下にありました。 エルサレムが再建されつつあるとは言え、まだ城壁も崩れ落ちたまま、経済 的にも貧しく、作物もたくさんとれるわけではなく、生活は依然として苦し かったのです。しかも、全焼の献げ物というのは、全部焼き尽くしてしまう のです。どうせ焼き尽くしてしまうならば、何も健康な牛や羊である必要は ありません。足が傷ついていても、何ら支障はないでしょう。だから、それ らの動物を献げたのです。これが一番理に適っていると思われるから、祭司 たちには、当然のことながら、罪の意識などありませんでした。御名を軽ん じているなどと思っていなかったのです。

 何が問題だったのでしょうか。想像力が欠如していたのです。ですから、 預言者は、人々の想像力に訴えて語ります。8節をご覧ください。

あなたたちが目のつぶれた動物を
いけにえとしてささげても、悪ではないのか。
足が傷ついたり、病気である動物をささげても
悪ではないのか。
それを総督に献上してみよ。
彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと
万軍の主は言われる。         (1・8)

 聖書には、主なる神が様々なイメージをもって語られています。その一つ が「王」です。本来なら、ここでも王について語られるべきだったのかも知 れません。しかし、彼らにとって身近だったのは、ペルシアの王よりも、彼 らを直接的に治めている総督でありました。実際に、様々な場面において、 総督への贈り物が献上されました。預言者は、彼らの想像力に訴え、その場 面を想像させ、自分たちの礼拝を重ね合わさせるのです。総督に、足が傷つ いた動物、目のつぶれた動物を献げている姿を想像させるのです。彼は喜ぶ だろうか。いや、喜ばない。むしろ、それを不敬として処罰されるでしょう。

 想像力を働かせれば分かるのです、自分がいかにおかしなことをしている かが。いかに不遜なことをしているかが分かるはずなのです。

 正しい想像力の欠如は、しばしば私たちにおいても大きな問題であるに違 いありません。それは一方において、このマラキの時代の祭司たちのように、 自分が間違ったことをしていても、気づかないということが起こってきます。 罪に気づかないのです。罪に気づかないと悔い改めることもできません。そ して、もう一方においては誤った想像力の働かせ方があります。自分勝手に 神さまのイメージを作り上げてしまうのです。それは偶像礼拝へと私たちを 導きます。私たちは、聖書が明瞭に示している表象を大切にしなくてはなり ません。聖書の描写を私たちは重んじなくてはなりません。今日は、聖書が 用いている代表的なイメージについて、残された時間考えてみたいと思いま す。私たちの想像力を働かせましょう。

●父・夫・王である神

 第一に神の「父」としてのイメージについて考えてみましょう。今日の箇 所に、僕に対する主人のイメージと共に、子に対する父のイメージが用いら れています。「しかし、わたしが父であるなら、わたしに対する尊敬はどこ にあるのか」(6節)。この場合、父であることは「尊敬」と結びついてい ます。

 「父」という言葉でどのような「父親」を想像するかによって、その人の 信仰生活が影響されます。何でも言うことを聞いてくれる、ただ子どもに甘 いだけの父親を想像する人は、それに従った信仰生活を送ることになります。 父親について悪い印象しか持っていない人は、父としての神を正しく思い描 くことができません。特に、父親像の崩壊している現代においては、父とし ての神を理解することは非常に困難です。ですので、私たちは聖書がどのよ うな父親像を前提として語っているかを知らなくてはなりません。自分勝手 な父親像で神を考えてはならないのです。

 聖書における本来の父親像と結びついているのは、マラキに典型的に現れ ていますように「尊敬」です。それは十戒の中に「あなたの父母を敬え」と 命じられているとおりです。敬われるべき父です。またそこには尊敬を当然 のこととする権威があります。父親は、権威ある者として存在しているので す。その権威は、一般的には「訓練する者」として機能します。イスラエル において子を訓練することは父の務めでした。ですから、その父親像が用い られて、箴言には「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。 かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる」 (箴言3・11、12)と書かれているのです。この家庭の中における権威 ある存在、絶対的存在、敬われるべき父というイメージがないと、あの「放 蕩息子のたとえ」がいかにショッキングなメッセージであるかが分かりませ ん。

 その父の前における「幼子」として存在しているのが私たちです。私たち は「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を送られた者であるとパウロは言います (ガラテヤ4・6)。アッバというのは幼児が父を呼ぶ呼び声です。絶対的 権威、不動の権威の前に、「パパ」と呼ぶ、それが私たちです。さて、私た ちと神との関係はそのようなものとなっているでしょうか。

 第二は「夫」のイメージです。夫と妻は結婚によって結ばれています。そ こでは愛における関係が問題となります。であるからこそ、イスラエルが神 の愛に背き偶像礼拝を行った時、預言者はそれを「姦淫」と呼ぶのです。

 信仰生活を夫婦の関係として思い描くことは重要です。この世の夫婦の関 係において重要なことは互いを愛することです。それは互いを重んじること でもあります。夫婦において、愛するということは、単に心や言葉の話では ありません。私がいくら妻を「愛している」と言っても、もし私が行動にお いて妻を軽んじていたら、それは愛していることにはなりません。愛すると いうことは、具体的には重んじることであり、他の物事より優先することで す。私がもし妻を「二の次、三の次」にしていたら、妻を愛していることに はなりません。同じように、神を愛するということは、何にもまさって、神 の優先順位を上げることなのです。他の何者をも並べてはならないのです。 だから、十戒においても、「あなたには、わたしをおいてほかに(直訳では 「わたしと並べて」の意)神があってはならない」と言われているのです。

 優先順位が現れてくるのは、現実の生活です。私たちの場合、例えば、時 間とお金の使い方などに現れてまいります。具体的には、生活における神礼 拝の位置づけ、献金に関わる経済設計などに現れてくるのです。神との関係 が結婚関係であるならば、それは単に心の中のことではなく、観念的なこと ではあり得ません。

 第三は「王」のイメージです。これは聖書における最も重要なイメージで す。なぜなら、神の国とは、神が王として支配することに他ならないからで す。

 神を王として思い描くことは、あらゆる場面において重要性を持ちますが、 特に、私たちが御言葉を聞く時に必要となります。かつてイスラエルにおい て活動した預言者が、繰り返し用いた言葉があります。それは「主はこう言 われる」という言葉です。これは決まった形で、「使者の定式」と呼ばれま す。権威ある者に遣わされた使者が使う決まり文句なのです。その権威ある 者の代表は王に他なりません。

 神の言葉を伝える預言者の内にあった意識は、自分はこの世のいかなる王 よりも高い権威をもつ真の王から遣わされた者だ、という意識でありました。 だから、この世の王に対しても語ります。この世の王に対しても、悔い改め と従順を求めるのです。預言者はたとえ国家が禁じても真の王なる神の言葉 を語るのです。

 これが、神の言葉が語られ、聞かれるということです。それは原則的に、 今日、神の言葉がキリストの福音として宣べ伝えられることにおいても同じ です。預言者は王なる神の使い走りに過ぎませんでした。今日の説教者も同 じです。大切なのは、使い走りではなく、伝えられる言葉そのものです。問 題は信仰者が、それを王からの言葉として聞けるかどうかです。

 皆さんが、「御言葉を聞く」とか「神さまの言葉を聞く」と言っている時 に、せいぜい「いい話を聞く」という程度に考えているならば、そこに従順 という課題が生じようはずがありません。神の言葉を「王の言葉」として聞 くときに、初めて「従順」ということが課題になるのです。神を王として思 い描くことができない人は、往々にして従順を欠いたキリスト者となります。 「この世のいかなる権威よりも、この世のいかなる人々よりも、神に聞き従 うのだ」というキリスト者となるためには想像力が必要です。

 
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