「神の御前にそのままで」
2001年10月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント7・17‐24
7章の冒頭において、「そちらから書いてよこしたことについて言えば」 と書かれておりますように、ここはパウロがコリントの教会からの具体的な 問いに返答している部分です。その答えの内容から推察しますと、コリント の教会には、夫婦の性生活と信仰とは相容れないものと考え、性的な交わり を一方的に拒否する者がいたようです。さらには、結婚生活そのものが信仰 と相容れないと考え、離縁しなくてはならないと考えていた者もいたようで す。それは熱狂主義的な禁欲主義と結びついていたものと思われます。それ に対して、パウロは非常に常識的な返答をしております。曰く、「互いに相 手を拒んではいけません」(5節)、「妻は夫と別れてはいけない。…また、 夫は妻を離縁してはいけない」(10‐11節)、「ある信者に信者でない 妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁し てはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を 続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない」(12‐13節)。 つまり、相手がどうしても去っていく場合を除き、自分自身としては現在の 状態に留まるべきであると言っているのです。
今日の箇所はその続きです。後に再び結婚の話には戻ってきますが(25 節以下)、一時その話題から離れます。パウロはここで、より一般的な見地 から、原則的なことを語っているのです。17節をご覧ください。「おのお の主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のまま で歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです」(1 7節)。
●割礼の有無の問題
パウロは初めに具体例として割礼の有無の問題を取り上げます。「割礼を 受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。 割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけませ ん」(18節)。
ユダヤ人ではない異邦人、すなわちユダヤ人としての割礼を受けていない 者が、キリスト者となった時に割礼を受けてユダヤ人となろうとした――そ のような事例は、聖書の他の箇所に見ることができます。例えば、使徒言行 録15章です。そこには最初の使徒会議の様子が記されております。その会 議はこの割礼に関する問題について協議するために行われました。なぜ、あ る異邦人キリスト者たちが割礼を受けようとしたかと言いますと、ユダヤか ら来たユダヤ人キリスト者である教師たちが、「モーセの慣習に従って割礼 を受けなければ、あなたがたは救われない」(使徒15・1)と教えていた からです。
確かに、あのナザレのイエスという御方はユダヤ人でした。キリスト、す なわちメシアについて語り、待ち望んできたのはユダヤ人たちでした。異邦 人たちがキリスト者となった時、彼らが伝えられた福音は確かにユダヤ人た ちが受け継ぎ保ってきた聖書の言葉に基づいておりました。使徒たちは皆、 モーセの慣習に従って割礼を受けたユダヤ人でした。ですから、異邦人キリ スト者のある者たちが「割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と いう言葉に動かされ、無割礼であることとキリスト者であることとは相容れ ないと考えたとしても不思議ではありません。しかし、パウロはここで、 「割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけま せん」と言うのです。
その逆に、ユダヤ人がキリスト者となった時、割礼の跡を無くそうとした 事例を、私たちは聖書の他の箇所に見出すことはできません。しかし、ここ でパウロが言及しているところを見ると、そのような人々もいたのでしょう。 コリントの教会の信徒たちの大部分は異邦人であったに違いありません。パ ウロが開拓に携わった多くの教会において、状況は同じです。使徒言行録を 見ますと、むしろ福音を頑なに拒否し、反対行動を取ったのはユダヤ人たち でした。最初のコリント宣教においては、ユダヤ人たちがあまりにも激しく 反抗し、口汚くののしったので、パウロはついに「あなたたちの血は、あな たたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の 方へ行く」(使徒18・6)とまで言わざるを得なかったのです。そのよう な境遇の中で、信仰を持ったユダヤ人キリスト者たちが、自分がユダヤ人で あることを恥じ、異邦人と同じになろうとしたとしても不思議ではありませ ん。しかし、パウロはここで、「割礼を受けている者が召されたのなら、割 礼の跡を無くそうとしてはいけません」と言うのです。
なぜでしょうか。それは、彼らが現在「キリスト者である」という事実こ そ、決定的に重要なことであるからです。それゆえに、パウロはここで一つ の言葉を繰り返すのです。お気づきになられましたでしょうか。それは「召 される」という言葉です。既に、パウロはこの手紙の冒頭からこの言葉を頻 繁に用いてきました。この手紙の宛先は「召されて聖なるものとされた人々 へ」(1・2)と書かれていました。また「神は真実な方です。この神によ って、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに 招き入れられたのです(召されたのです)」(1・9)とも書かれています。
召されて聖なる者、すなわち神のものとされたのです。召されて、主イエ ス・キリストとの交わりに入れられたのです。ならば、そこで考えなくては ならないのは、外的な状況を変えたり、今の自分を卑下して他の何者かにな ろうとすることではなくて、いま置かれている状態において、召された者、 神のもの、キリストとの交わりに入れられた者として生きることではないで すか。だからパウロは言うのです。「割礼の有無は問題ではなく、大切なの は神の掟を守ることです」(19節)。すなわち、神に従順であることです。 信仰による従順です。キリストの死にあずかり、キリストの命にあずかった 者として、神に従って生きることなのです。
●奴隷と自由人の問題
次に、パウロは奴隷と自由人の問題を取り上げます。「おのおの召された ときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、その ことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むし ろそのままでいなさい」(20‐21節)。
コリントの教会には、奴隷の身分であった者が少なくなかったようです。 もちろん、自由人もそこにおります。しかし、共同体の中に、奴隷の身分の 者がおり、自由人である者がいること自体は、パウロにとってなんら問題で はありませんでした。また、奴隷が自由の身になれるかどうかすらも問題で はありませんでした。なぜなら、繰り返しますが、パウロにとっては、彼ら が召されたものであり、キリストとの交わりに入れられているという事実こ そが、決定的に重要なことだったからです。
ですから、パウロは自由人にも奴隷にも、そのことを認識することを求め てこう言います。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自 由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者 は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られた のです。人の奴隷となってはいけません」(22‐23節)。
私たちを罪から贖うために、キリストはその尊い血潮を流され、命を注ぎ 出されました。それは私たちを買い戻すために主が払われた身代金です。私 たちは、代価を払われキリストのものとされました。ならば、大切なことは、 外的な状況を変えたり、今の自分の状態を卑下することではなく、キリスト のものとして生きることです。置かれた立場と状況において、キリストに仕 えて生きることなのです。
パウロは、エフェソの信徒への手紙においても、次のように書いています。 「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉によ る主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではな く、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕え るように、喜んで仕えなさい」(エフェソ6・5‐6)。人がキリストの奴 隷としてキリストに仕えているならば、もはや人の奴隷ではありません。私 たちは、人の奴隷であってはならないのです。
さて、ここでなお一つのことに触れなくてはならないでしょう。このパウ ロの勧めは、奴隷制度に代表される、権力による悪しき抑圧の構造を是認す るものではないか、という疑問が当然生じてくるからです。パウロの勧めは、 罪深いこの世界の現状に甘んじる去勢された人々を生み出すだけではないで しょうか。
私たちは、ここでパウロが相手の手紙に答えているのであって、奴隷と自 由人に関するすべての事柄を語っているのではないことを念頭に置かねばな らないでしょう。また、彼が差し迫った終末を意識して語っていることも考 慮しなくてはなりません。しかし、そのことを踏まえつつも、なおここで語 られていることは、決して単なる現状肯定を促す教説であると思ってはなら ないのです。
考えてみてください。初期のキリスト者は、悪しき権力者の支配構造を武 力をもって打倒しようとしたわけではないのです。彼らはテロリストであっ たわけではなく、革命を企てていた人々でもなかったのです。にもかかわら ず、彼らは迫害を受けたのです。なぜでしょうか。支配者たちにとって、彼 らは脅威だったからです。この世の権力は必ずしも悪ではありません。しか し、もし支配構造の内に悪があるならば、キリストに、キリストのみに本気 で徹底的に仕えて生きている人々が存在していることは、支配者にとって恐 ろしいことなのです。そのように生きている人々が増え広がっていくことは、 この世の悪にとっては恐ろしいことなのです。
もし、今日、教会がこの世の悪について論じ、世の中に向かって大声で叫 び、あるいは声明を公にしたとしても、もし一人一人のキリスト者に、キリ ストを愛し、キリストに仕える毎日の生活がなければ、そこに真の敬虔と従 順がなければ、それは犬の遠吠えのようなものです。この世の人々にしても、 悪魔にしても、鼻も引っかけてくれないでしょう。
この時代のこの世界にとっても、本当に重要なことは、一見小さく見える ことです。それは、キリスト者が、召された者として、キリストに仕えて生 きていることです。そのように実際に生活していることなのです。そのこと を考えます時に、次の言葉は、私たちがいかなる状態に置かれている者であ れ、計り知れない重みを持つ御言葉として迫ってくることでしょう。「あな たがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけま せん。兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまって いなさい」(23‐24節)。