「まことの平安」
2001年11月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ14・25‐31
今日はヨハネによる福音書14章の最後の部分をお読みしました。時はキ リストが十字架にかかられる前日、場面は良く知られております「最後の晩 餐」です。ここには主がその場でなさった長い教えの言葉が記されています。 しばしば「訣別説教」などと呼ばれます。私たちは今日、特に27節の御言 葉を心に留めたいと思います。主は次のように言われました。「わたしは、 平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与 えるように与えるのではない」。
●平和をあなたがたに残す
「平和」はヘブライ語で「シャーローム」と言います。これは「平安」と も訳せます。さらに言いますならば、これは完全な調和と豊かさがある状態、 まさに命に満ち満ちた状態を意味する言葉です。それが個人において実現し ている時、それを「平安」と訳すことができますし、複数の人々の間におい て実現している時、それを「平和」と訳すことが可能でしょう。いずれにし ましても、私たちが言うところの、「平和」や「平安」という言葉よりもも っと内容の豊かな、大きく力強い言葉なのです。
そのようなシャーロームを「あなたがたに残す」と主は言われました。そ れは弟子たちが平穏無事であり安泰であることを約束する言葉ではありませ ん。主はその直後で「心を騒がせるな。おびえるな」と言っておられます。 この言葉は、取りも直さず、弟子たちが今や心を騒がせるような事態に直面 しつつあることを示しています。それは主イエスが間もなく捕らえられ、十 字架につけられることであります。それはまた、弟子たちにとっても、困難 な闘いが始まることを意味しておりました。嵐は確実にやってきます。その 現実を見据えつつ、主は「平安を残す」と語られたのです。明らかにそれは 嵐が遠ざけられることによる平安ではありません。嵐のただ中においてなお 奪われない平安なのです。
ちなみに、この「シャーローム」という言葉は、ユダヤ人の間における一 般的な挨拶の言葉でもあります。私たちの「こんにちは」であり「さような ら」に当たります。人々は「シャーローム・レハー(あなたに平安があるよ うに)」と言って別れます。しかし、別れ際に言葉は残せますが、嵐の中に おいても奪われないような真の平安を残すことはできないものです。
主が意味しているのは、もちろん「シャーローム」という言葉を別れの言 葉として残すことではありません。シャーロームそのものを残すと言ってお られるのです。これはとてつもない言葉です。なぜ主イエスはそのようなこ とを語り得たのでしょうか。それは主が真にシャーロームを持っておられた からです。主は「平和をあなたがたに残す」と言われた後、「わたしの平和 を与える」と言われました。主が平和を残せるのは、それが主イエスの平和 だからです。
主は確かに真にシャーロームを持つ人として生きられました。人々から賞 賛されても見下されても、人々から受け入れられても拒否されても、その平 安を奪われることはありませんでした。この世のいかなる出来事によっても、 その平安が失われることはありませんでした。なぜなら、主イエスの平安は、 この世に由来するものではなかったからです。それは父なる神に由来する平 安だったからです。
主は繰り返し、ご自分と父なる神との関係に言及されました。例えば、主 イエスは、自分に敵対するユダヤ人たちに対して、「わたしと父とは一つで ある」(10・30)と証ししておられます。主イエスは、自分の語る言葉 も、自分の行為も、すべて父なる神から来ていることを語られました。「主 よ御父を示してください」と言ったフィリポに対して、主はこう言われたの です。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じな いのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。 わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父 の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。 もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(14・10‐ 11)。本日お読みしました箇所においても、主はこう言っておられます。 「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は 知るべきである」(14・31)。
主イエスの言われる「わたしの平和」とは、この主イエスと一つである父 への全き信頼に基づくものでありました。それは喉が渇いた時に必要とする 一杯の水の類ではありませんでした。主イエスは、御父の内に、巨大なシャ ーロームの水源を持っておられたのです。この世が提供する平安は一杯の水 でしかありません。それはやがて失われます。しかし、それが神に由来する ものであるならば、この世のいかなる力をもってしても奪うことはできない のです。それこそが、主イエスの言われる「わたしの平和」でありました。
●わたしの平和を与える
では、私たちもまた、そのような平安を持って生きるにはどうしたらよい のでしょうか。「まことの平安を得たいなら神を信じなさい」ということな のでしょうか。いいえ、現実はそれほど単純ではありません。私たちは、神 を信じても平安を得ることはできません。「牧師なのに変なことを言う」と 思われるでしょうか。しかし事実です。ただ神を信じるだけでは平安は得ら れないのです。理由は単純です。私たちとキリストとは違うからです。
何が違うのでしょうか。先に引用しましたように、キリストは父なる神と 一つなのです。そこには父なる神との間を隔てるいかなるものも存在しない のです。神との間を隔てるものは罪です。キリストには罪がありません。キ リストは確信をもって「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行 っていることを、世は知るべきである」と語れる御方です。私たちはそうで はありません。私たちには罪があります。私たちの内には不従順があります。 もし私たちに罪がなければ、確かに神を信じれば平安を得られるでしょう。 しかし、罪があるならば、まず神の裁きにさらされることになるのです。
ですから、キリストは弟子たちに、ただ単に、「神を信じて平安を得よ」 などとは言われなかったのです。何と言っておられますか。「わたしは…わ たしの平和を与える」と言われたのです。それは私たちが神を信じて獲得す るものではなくて、キリストが与えてくださるものなのです。なぜ、キリス トならば与えることができるのでしょうか。それは、キリストこそが私たち の罪を取り除くことのできる御方だからです。神と人との間にある越えがた い隔てを取り除くことができる御方だからです。
主はどのようにしてそのことを実現されるのでしょう。それは罪の贖いを することによってです。この言葉が語られたのは、主が十字架にかかられる 直前でした。主は自ら罪を贖う犠牲となることによって、それを成し遂げよ うとしておられたのです。かつて洗礼者ヨハネが主イエスを指して「見よ、 世の罪を取り除く神の小羊だ」(1・29)と叫びましたが、まさにその 「罪を取り除く神の小羊」として、主はこう言われるのです。「わたしは、 平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と。
私たちは、この言葉の意味をよくよく考えてみる必要があります。罪は罪 責感と同一ではありません。罪責感ならば心の持ちようで消えるかもしれま せんが、罪は消えません。私たちの人生が現実であるように、罪もまた現実 です。それは神の前に厳然として存在している負債です。例えば、私が誰か に借金をしたとします。もしそれが事実ならば、それは返済するまで消えま せん。「いやあ、借金なんて心の問題だよ。忘れてしまえば借金もなくなる のさ」などと言う人がいるならば、それはよほどの愚か者です。それは罪に ついても同じなのです。罪が現実であるからこそ、罪の贖いも現実になされ なくてはならなかったのです。しかも、神の定められた仕方でなされねばな らなかったのです。
パウロはローマの信徒に次のように書き送りました。「このように、わた したちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリス トによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに 信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」 (ローマ5・1‐2)。
罪の負債が現実であるならば、自分自身で返済するか、キリストによって 恵みに入れられるかのいずれかです。そして、私たちはとうてい自分で返済 することなどできないのです。ならば、キリストによる罪の贖いを離れて、 私たちの罪の解決はどこにもありません。キリストを離れて、神との平和は ありません。神との間にシャーロームがあってこそ、私たち自身の内に、そ して、私たちの互いの間にシャーロームを持つことができるのです。私たち が何によっても奪われない平安を得るとするならば、それはキリストの与え てくださった神との和解、そして神との交わりに由来するものでなくてはな りません。この世に由来するものは、この世によって容易く奪われてしまう からです。
不安が世界を覆っている時代です。現代人は絶えず多くのものに身を脅か されながら生きています。いや、これは何も現代に始まったことではありま せん。人間はいつでも身を脅かす外的状況の中を生きてきたのです。自らの 存在を脅かすものと必死に戦いながら生きてきたのです。現代においてもそ の状況が変わっていないだけです。そして、これからも変わることはないで しょう。不安の要因が無くなれば平安になれると思っている人は、一生を不 安の中で過ごすことになります。理由は単純です。不安の要因は無くならな いからです。あるいは何かで不安を絶えず紛らわせながら生きるしかないで しょう。しかし、それは惨めなことです。
現代人の不安の根元は、脅かすものの存在ではないのです。神との間にシ ャーロームを失っていることなのです。主イエスは30節でこう言っていま す。「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである 」。世の支配者、すなわちサタンはやって来きます。襲いかかってくるので す。そして、主イエスにおいて現実となったように、悪の力は命さえ奪うの です。しかし、主は言われるのです。「だが、彼はわたしをどうすることも できない」。ここに真のシャーロームがあります。その主が弟子たちに言わ れます。「さあ、立て。ここから出かけよう。」主は私たちにも言われます。 「さあ、立て。ここから出かけよう」。私たちは、この主イエスの平安をい ただいて、この世へと出て行かなくてはなりません。